◻️211の30『岡山の今昔』岡山人(19世紀、原田直次郎)

2019-05-12 21:36:50 | Weblog

211の30『岡山の今昔』岡山人(19世紀、原田直次郎)

 原田直次郎(はらだなおじろう、1863~1899)は、洋画家。備中鴨方藩藩士の原田一道の次男として、江戸に生れる。幼い頃から、漢文やフランス語を学ぶ。勉学には、うってつけの環境に身を置けたのではないか。

 やがて、東京外国語学校を卒業する。そのまま語学を生かすのかと思いきや、この頃既に絵描きになろうという志を抱いていたのだろうか、油絵を山岡成章や高橋由一に学ぶ。

 1883年(明治16年)には、ドイツに留学して、ミュンヘンの美術学校に入学する。地質学者の兄、豊吉の勧めがあったらしい。歴史画の大家であるガブリエル、マックスに師事して、ドイツロマン派の画風の習得に精魂を傾ける。折からの写実主義にも、活路を求めていったようだ。1887年(明治20年)に帰国してからは、本郷に画塾鍾美館(しょうびかん)を設けて後進を指導しする。

 1889年(明治22年)には、明治美術会の創立に参加する。代表的な作品に、ドイツ時代に描いた「風景」や「靴屋の親父」のほか、1890年(明治23年)に発表した「騎竜観音」などがある。

 これらのうち「風景」は、岡山県立美術館にあるという。画の雰囲気は、静かにして、心地良い涼しさがある。手前の家から奥の森へと道が続くうちに、その道を木漏れ日が追いかけていくようであり、この道を歩いてみたい。

 「靴屋の親父」には、思わずみ見ってしまう、なにしろ、描かれている中年男は、振り向くように顔を正面に向けている。左方から光が当たり、顔の半ばがやや暗い。陰影がきつい分、禿げあがった頭、彫りの深いひげ顔、胸をはだけた姿とあっては、いちど見たら目に焼きつくかのようだ。

 たいするに、「騎竜観音」は、その名前のとおり、なまめかしく、それでいて、ちかより難いほどの妖しい顔だ。伝説上の龍の上に乗っている。

 作家は、早くに病気になって、画業を大成させるには至らなかった。かの文豪の森鴎外とはドイツ時代からの終生の友であって、鴎外の小説「うたかたの記」に出てくる日本人画家とは原田がモデルであったと伝わる。

(続く)

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◻️235『岡山の今昔』岡山人(20世紀、吉行淳之介)

2019-05-12 08:37:46 | Weblog

235『岡山(備前、備中、美作)の今昔』岡山人(20世紀、吉行淳之介)

 吉行淳之介(よしゆきじゅんのすけ、1924-1994)は、岡山市の生れ。父は、モダンを志向する作家、詩人。昭和の初め、父母とともに東京へ出る。少年期の次の逸話があって、こう伝わる。

 1941年12月8日の、日本軍によるハワイ真珠湾への奇襲攻撃のあった時、旧制中学生であったかれの通う学校では、そのニュースが校内アナウンスで報道されると、ほとんどの生徒が「万歳!」をするためにグラウンドに出た。けれども、淳之介少年はその気持ちになれず、ただ一人教室に残っていたのだと。後に、「そのときの孤独の気持と、同時に孤塁(こるい)を守るといった自負の気持を私はどうしても忘れることはできない」と、その時の心情を吐露している。

 東京大学英文科に入って学ぶも、中退する。アルバイトだけでは、学費が続かなかったのだという。

 1954年(昭和29年)には、「驟雨」で芥川賞を受賞する。少し紹介すると、この時すでに、切れ味のある、緻密な文体が際立つ。

  「そのとき、彼の眼に、異様な光景が映ってきた。道路の向こう側に植えられている一本の贋アカシヤのすべての枝から、おびただしい葉が一斉に離れ落ちているのだ。

 風は無く、梢の細い枝もすこしも揺れていない。葉の色はまだ緑をとどめている。それなのに、はげしい落葉である。それは、まるで緑色の驟雨(しゅうう)であった。ある期間かかって、少しずつ淋しくなってゆくはずの樹木が、一瞬のうちに裸木となってしまおうとしている。地面にはいちめんに緑の葉が散り敷いていた。」(1954年著第31回芥川賞受賞作『驟雨』より、英夫と娼婦の道子が、朝のカフェの窓から外の景色を眺めながら)

 その特徴としては、性を主題に精神と肉体の関係を探る、それを中心として人間性の深淵にせまるというもの。なかなかに、ダンディーな男性として、浮き名を流してもいたらしい。また、都会的に洗練されたエッセイの名手としても知られる。一瞬たりとも、大都会は生き物としての顔にとどまるところがない、その中に身をおき、感覚を研ぎ澄ます、ということだろうか。

 主要作品としては、実に多い。ざっと、「原色の街」(1951)「娼婦の部屋」(1959)「砂の上の植物群」(1964)「星と月は天の穴」(1967)「暗室」(1970)「夕暮まで」(1965~78)など。

(続く)

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◻️234『岡山の今昔』岡山人(20世紀、阿部知二)

2019-05-12 07:33:41 | Weblog

234『岡山(備前、備中、美作)の今昔』岡山人(20世紀、阿部知二)

 阿部知二(あべともじ、1903~1973)は、勝田郡湯郷村大字中山(現在の美作市中山)の生まれ。父は、中学校の教師。生後2か月にして父の転勤で島根へ、さらに9歳の時には、姫路へ転居したりで、落ち着かない日々であったろう。その姫路で姫路中学(現在の姫路西高校)から第八高等学校(現在の名古屋大学)へと進む。

 さらに、東京帝国大学英文学科に入学してからは、文学熱が増していく。1930年(昭和5年)には、雑誌「新潮」に「日独対抗競技」を発表する。そして迎えた1936年(昭和11年)には、代表作の一つ、「冬の宿」を発表する。その一節を紹介しよう。

 「私は呟いた。昨日まで、いや、今が今まで、厳しい、冷たい蒼白な冬の真ん中にちぢこまって生きていたと思ったのに、もう外の世界は暖かな光であふれていたのだ。冷酷な冬は、あの一軒の家にばかり、爪を立てたように居残っていたばかりなのだ。そこから解き放たれたことは事実だ。----それからしばらくして、「おや、不思議だ。」とひりひりするこめかみのみみず脹れを撫でながらつぶやいた。」

 その後も次々作品を作っていたらしいのだが、戦争中は軍部との関わりを深くする。ある日、召集令状が届いて、入営するしかなかった。陸軍部報道班員としてジャワ(インドネシア)に行く。そこで、図書館や個人蔵書などから日本に有用なものを探し、また日本にとって都合の良くないものを没収したりする仕事の体験をする。

 戦後は、戦争に加担したことを恥じたらしい。一転して進歩派として左傾化していく。社会主義者というのではない、自由主義者として。世界ペンクラブ代表として渡欧してからは、より顕著に平和運動に関わっていくようになる。

 この間、メルヴィルの「白鯨」やブロンテの「嵐が丘」の翻訳を手掛けるなど、多彩な活動で一世を風靡(ふうび)したようなのだ。1971年(昭和46年)。食道がんになって、その翌年4月に退院するも、2年後に再発する。そんな中でも、5月から哲学者の三木清を題材にした「捕囚」(未完)を口述筆記するという具合で、最後まで創作に取り組んだ、不屈の人であった。

(続く)

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