231『岡山(備前、備中、美作)の今昔』岡山人(20世紀、金重陶陽)
金重陶陽(かねしげとうよう、1896~1967)は、岡山県備前市伊部に窯元・金重楳陽(槇三郎)の長男として生まれる。本名は勇とある。
この金重という姓だが、「備前六姓」(「窯元六姓」ともいう)の一つ。そもそもは、室町時代末期に遡り、成立した南、北、西の大窯を共同でもっていた陶工たちをいう。大(おお)あえ、金重、木村、森、寺見、頓宮(とんぐう)の六家のうち、前四者は、現在も陶業者として続く。
1910年に伊部尋常高等小学校を卒業すると、細工物の名人と評されていた父について、備前焼に取り組み始める。作風は、細工物から茶陶へと向かっていく。
1932年(昭和7年)になると、ロクロによる成形を始めたという。その後は、いろいろと工夫をこらしていく。1942年(昭和17年)には、川喜田半泥子、荒川豊蔵、三輪休和らと「からひね会」を結成する。
戦後の1949年(昭和24年)には、備前窯芸会を結成する。続いての1952年には、備前焼の技術で国から無形文化財に選択される。1955年(昭和30年)には、日本工芸会の設立に参加する。
そして迎えた1956年(昭和31年)には、重要無形文化財保持者(俗にいう人間国宝)に指定される、備前焼では最初であった。その翌年には、ハワイにて個展をひらく。1960年には、郷土での山陽新聞文化賞、岡山県文化賞を受賞する。1962年になると、日本伝統工芸展審査世紀、委員となり、その2年後の1964年(昭和39年)には、二度に渡りハワイ大学の夏期講座に講師として赴く。
そんな金重の代表作としては、備前緋襷平水指、備前筒水指(1961年)、備前手鉢(1962年)、備前筒水指、備前壺(1959年)、累座壺(1965年)、備前緋襷平水指、備前陶板(1965年)などがあるというのだが。一つでよいので、直に、手にとって眺めたいものだ。
なお、「緋襷」というのは、例えば、「ふつう赤く焼けるのが原則だが、燃料のマツの木の灰が付着してゴマを振りかけたようになったり、作品と作品のくつつきを防ぐためにワラをはさんで焼くと、その部分が酸化作用をおこして赤い形、つまり火襷ができたりする」(山本鉱太郎「備前焼のふるさと、千変万化の妖しい魅力」)といわれる。
そんな中でも、とあるサイトに載っている「備前三角○座花入」を写真で拝見するだけでも、「癒し」というのではあるまいが。かなり落ち着く。ありがたいことだ。
(続く)
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