『◻️172岡山の今昔』岡山人(18世紀、西山拙斎)

2019-05-25 22:46:33 | Weblog

172『岡山(備前、備中、美作)の今昔』岡山人(18世紀、西山拙斎)

 西山拙斎(にしやませっさい、1735~1798)は、儒者にして、『関西の孔子』とも呼ばれる。立身出世を望まないことでは随一クラスであったのではないか。鴨方の医師の家の生まれ。

 はたしてか、早熟であったのかも知れない。まずは、岡白駒(おかはっく)、那波魯堂(なわろどう)に儒学を、医学を古林見宣に学ぶ。20歳の時、京都へ行き、今度は漢詩や和歌を学ぶ。

 1764年(明和元年)には、日本にやって来ていた朝鮮通信使に随行していた学者に、頼み込み、かの地の学問を詳しく教えてもらう。筆談でも、かなりのことがわかったらしい。

 かの国においては、儒学のなかでも、朱子学を正統としていた。
 1773年(安永2年)には、郷里の鴨方に帰って、儒学の塾をひらく。教えるとともに、規則正しい生活を地でゆく。

 そんな彼の名前を一際ひろめたのは、なかでも、朱子学をことのほか信奉し、寛政異学の禁を擁護したことだろう。そもそも、この取り締まりは、1790年(寛政2年)に、幕府の昌平坂学問所で、儒学の中の朱子学を正統とみとめる。これに肩入れした儒者の柴野栗山らによる幕府への進言にあっては、拙斎の熱情的な働きかけがあったらしい。時の老中は、あの権威主義者の松平定信だった。
 それからも、故郷を離れることなく、淡々と過ごす。著作には、「拙斎詩文集」「閑窓瑣言」などがあるという。

(続く)

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『◻️171岡山の今昔』岡山人(18世紀、万代常閑)

2019-05-25 21:36:35 | Weblog

171『岡山(備前、備中、美作)の今昔』岡山人(18世紀、万代常閑)

 万代常閑(まんだいじょうかん、1675~1715)という名前は、越中富山薬売りで有名だが、一人の彼が始めた商売ではなく、代々その名前を受け継ぐ。やがて、11代目になる、これに至る長い商売の伝統があった。

 それというのも、室町時代、萬代家初代とされる萬代掃部助(もずかもんのすけ)は和泉国、堺の万代(もず、現在の堺市)の代官として大内氏に仕えていた。

 そんなある日、堺浦で明国舟が難破したのを、掃部助が助けたという。そのためか、掃部助の夢枕に百舌鳥八幡宮の神様が出てきて、「明人から礼を受け取ってはいけない」とのお告げをもらう。その後、明人は、やはり『お礼を」と持ちかける。だが、掃部助はお告げを守って、その申し出を断る。

 そして、その明人から秘薬の製法を伝授される。これが、延寿返魂丹のはじまりだと、代々伝わる。掃部助は、これを機に返魂丹の製造に乗り出す。

 その後、足利義満と大内義弘の争いに巻き込まれ、丹後の国(現在の兵庫県)へ逃れる。その後さらに、縁があって、備前の国和気郡益原村(現在の和気町)へ移る。

 それからこの地で、主計(かずえ。3代)からは、医師となり、この薬を医術の中に組み込み、治療に用いていく。それからは、穏やかな年月で、つつがなく暮らせたのか、どうか。

 1674年(延宝2年)と1688年(元禄元年)に疫病が流行すると、この時、万代家は、郡奉行の下で治療に努める。

 やがて常閑(11代)へと受け継がれていくのだが、1704年(元禄17年)には、岡山城下の森下町番所に住居を与えられる。

(続く)

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◻️170『岡山の今昔』岡山人(18世紀、古川古松軒)

2019-05-25 20:51:56 | Weblog

170『岡山(備前、備中、美作)の今昔』岡山人(18世紀、古川古松軒)

 古松軒(ふるかわこしょうけん、1726~1807)は、下道郡新本村(現在の総社市新本)に生まれる。8歳の時、母を失う、それからは、よくわからない。二十歳の頃、京都に住んだとも。その後だろうか、真備村(現在の真備町岡田)に移り、「仲屋」という薬屋を営む。

 だが、四十歳始めの頃には、博奕にふけったり、代金不払いで大坂の薬問屋から訴えられるなど、その生活は安定せず、貧乏な暮らしぶりであったようだ。1769年(明和6年)の44歳になっては、 このままではいけないと思ったのだろうか、何と起請文を書いて、一念発起したという。

 手始めに、何をしたのだろう。頭角をあらわすのは、1783年(天明3年)、58歳の彼は、九州一周の旅を敢行する。ただの旅ではなく、この体験を「西遊雑記」にまとめ、発刊する。1788年(天明8年)には、幕府巡検使に随行の身となり、奥羽と蝦夷(えぞ)を旅する。長男が、幕府老中松平定信の家臣、小笠原若狭守の侍医松田魏楽の養子になっていた。そのつてがあったのかもしれない。

 この旅行の後には、定信に呼ばれ、息子と一緒に江戸に行き、地理や測量のこと、九州の地方事情などを定信に説明したようだ。紀行文「東遊雑記」を提出したのだと伝わる。さぞかし、面目躍如であったことだろう。

 その「東遊雑記」においては、当時高名であった蘭学者林子平が著した「三国通一覧」に誤りがあるなどと、批判しているとのこと。なにしろ、「百聞は一見に及ばず」が口癖であったとのことであり。進取の精神というべきか。かく引用する筆者にも覚えがあり、正面から切り出されると耳が痛い。

 測量についての当時の日本の技術水準がどれほどであったのかは、つまびらかでないようだが。「東亜地図」や「蝦夷全図」「大坂市街の図」などが、彼一人の手によるのではないようなのだが、作製されている。

(続く)

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