172『岡山(備前、備中、美作)の今昔』岡山人(18世紀、西山拙斎)
西山拙斎(にしやませっさい、1735~1798)は、儒者にして、『関西の孔子』とも呼ばれる。立身出世を望まないことでは随一クラスであったのではないか。鴨方の医師の家の生まれ。
はたしてか、早熟であったのかも知れない。まずは、岡白駒(おかはっく)、那波魯堂(なわろどう)に儒学を、医学を古林見宣に学ぶ。20歳の時、京都へ行き、今度は漢詩や和歌を学ぶ。
1764年(明和元年)には、日本にやって来ていた朝鮮通信使に随行していた学者に、頼み込み、かの地の学問を詳しく教えてもらう。筆談でも、かなりのことがわかったらしい。
かの国においては、儒学のなかでも、朱子学を正統としていた。
1773年(安永2年)には、郷里の鴨方に帰って、儒学の塾をひらく。教えるとともに、規則正しい生活を地でゆく。
そんな彼の名前を一際ひろめたのは、なかでも、朱子学をことのほか信奉し、寛政異学の禁を擁護したことだろう。そもそも、この取り締まりは、1790年(寛政2年)に、幕府の昌平坂学問所で、儒学の中の朱子学を正統とみとめる。これに肩入れした儒者の柴野栗山らによる幕府への進言にあっては、拙斎の熱情的な働きかけがあったらしい。時の老中は、あの権威主義者の松平定信だった。
それからも、故郷を離れることなく、淡々と過ごす。著作には、「拙斎詩文集」「閑窓瑣言」などがあるという。
(続く)
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆