◻️211の25『岡山の今昔』岡山人(19~20世紀、福田英子)

2019-05-03 21:42:46 | Weblog

211の25『岡山(備前、備中、美作)の今昔』岡山人(19~20世紀、福田英子)

 福田英子(ふくだひでこ、1865~1927)は、明治からの名だたる婦人運動家。父は岡山藩士であって、一家は岡山城下の下野田屋町(現在の岡山市北区野田屋町)に住んでいた。

 1872年(明治5年)には、母のが教師を務める岡山女子教訓所に通う。1882年(明治15年)には、岸田俊子の遊説に影響を受け、自由民権運動に参加する。

 抜群の行動力で、私塾蒸紅学舎を開設する。1884年(明治17年)には、解散を命ぜられ、心機一転、上京する。大井憲太郎らの朝鮮改革運動に加わり、18年逮捕投獄される、これを「大阪事件」と呼ぶ)。

 1885年(明治18年)には、大井憲太郎の内縁の妻となるが離別する。その後結婚した福田友作とは、33年に死別する。さらに1890年(明治23年)には、女子実業学校を開設しする。この間、平民社の広い意味での社会主義運動にも参加する。

 続いての1907年(明治40年)には、『世界婦人』を創刊し、主筆として婦人解放を主張する。また、足尾銅山鉱の鉱毒事件などにも取り組む。

 その著書に「妾(わらわ)の生涯」があり、苦節のなかにも、未来への希望を見失わなかった彼女の息遣いを感じさせる。

(続く)

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◻️199『岡山の今昔』岡山人(19世紀、安達清風)

2019-05-03 20:24:17 | Weblog

 199『岡山(備前、備中、美作)の今昔』岡山人(19世紀、安達清風)

 安達清風(あだちせいふう、1835~1884)は、因幡の鳥取藩士の300石の家柄の生まれ。昌平黌(しょうへいこう)にはいり、また、水戸で会沢正志斎に学ぶ。神発流砲術も習得し、教授扱い。

 1862年(文久2年)には、京都留守居役となり、京都に住まう。勤皇派ともそれなりの交遊があってか、政治向きでもなかなか達者であり、尊攘(そんじょう)運動に参加する。

 しかしながら、急進尊攘派とは距離をおく。改革には、漸進主義をとり、その線に沿いながら公卿邸に出入りしたり、幕府の要路や諸藩主らとの交渉にもあたったらしい。その藩だか、鳥羽伏見の戦いでは新政府側につく。

 維新後は、岡山県の勝手北郡長に就任する。なかなかの行動家であって、特に、旧士族の暮らし向きに心を砕く。

 なかでも、日本原開墾につくした。1884年(明治17年)に、京都に資金奔走に出掛けての帰り道に発病し、死去。50歳の働き盛りで、新生活の柱役を失った開拓民の間では、さぞかし惜しまれたであろう。 

 その日記は「安達清風日記」ということで、まめな性格でもあったらしい。

(続く)

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◻️211の26『岡山の今昔』岡山人(19世紀、生田安宅)

2019-05-03 19:36:49 | Weblog

211の26『岡山の今昔』岡山人(19世紀、生田安宅)

 生田安宅(いくたあたか、1840~1902)は、黎明期の岡山の医学全体を代表する一人だ。岡山藩のお抱え医師の家の生まれ。京都時習堂にて蘭学を、岡山で難波経直(包節の子)から産科を学ぶ。1868年(明治元年)に、藩に出仕し、藩主の池田章政に従い東京に出向いたおり、東京医学校でイギリス医学に触れたらしい。その後、岡山で、開業する。
 1870年(明治3年)年の春には、岡山藩医学館が岡山市門田(現在の東山公園あたりか)に開設された。これは、藩主時代の池田章政(この時藩知事)の構想が実ったものだともいう。明治政府の方針の下、外国人教師を迎え、岡山で初めて近代医学としての西洋医学教育が始まる。

 約六十人の若い藩医と藩医の子弟たちが入学する。かれらは、寄宿生活をしながら、解剖、薬剤、病理、内科、外科、眼科、産科など十一学科の講義を受けたというから、すごい。生田はこの時、「二等教頭」となっていた。忘れてならないのは、この施設が、内科に外科の治療に加え、「入院も受け、往診を行い、診察代金を稼いで懸命に病院を維持」(「岡山藩医学館・岡山医科大学~知られざる先駆者たち」、「いちょう並木」第50号に所収)していたことだ。
 1872年(明治5年)には、医学所とその名前が変わる。そして迎えた1873年(明治6年)11月には、岡山県病院が成り、1875年(明治8年)、生田はそれの初代院長となる。続いての1880年(明治13年)には、かかる医学の学舎は、岡山県医学校に編入され、さらに1922年(大正11年)には岡山医科大学へと、おおいなる医学の夢を繋いでいく、そんな黎明期の岡山医学の中心に生田はいた。

(続く)

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◻️227『岡山の今昔』岡山人(20世紀、内山完造)

2019-05-03 08:00:41 | Weblog

227『岡山(備前、備中、美作)の今昔』岡山人(20世紀、内山完造)

 内山完造(うちやまかんぞう、1885~1959)は、現在の井原市芳井町吉井で村長をしていた内山賢太郎の次男として生まれる。
 12歳で、何があったのだろうか、精研高等小学校を退学して、大阪の商家に奉公に出る。そこを転職してから京都に移り、働くうち、牧野虎次牧師(後の同志社大学長)と知り合う。そして、キリスト教教徒となる。彼の紹介にて、目薬売りの仕事を得ると、新天地を求め、上海へとわたる。

 1916年(大正5年)には、同じ信者の井上みきと結婚する。翌年には、自宅の玄関先で、キリスト教関係の書物を扱う、内山書店を始める。やがて日本人、中国人の間で評判となり、哲学や文学、芸術一般などへとひろげていく。

 夫婦ともに、誠実闊達な人柄が中国人の心を捉え、魯迅(ろじん)・郭沫若(かくまつじゃく)などの文化人がここを訪れ、かれらと親交を深める。一時は、国民党政府に睨まれていた魯迅を自宅にかくまったという。

 1945年(昭和20年)には、妻が死に、上海での書店をたたむ。その2年後には、国外追放され、日本に帰る。神田で内山書店を経営するかたわら、日中友好、国交回復の活動を進めていく。日中友好協会の初代理事長に就任したりで、多忙を極めていたらしい。中国残留日本人孤児の帰国にも尽力したという。

 そんな日中関係のまだ険悪・困難な時期からの、上海そして日本人において双方の案内役をし、特には日本の作家たちと中国文学者との交流の場を提供し、魯迅・郭沫若・郁達夫らとの交友にいそしむなど、ひたすら人道主義を追求し、もって日中両国の文化交流と友誼の橋渡し役を果たした。

(続く)

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