211の25『岡山(備前、備中、美作)の今昔』岡山人(19~20世紀、福田英子)
福田英子(ふくだひでこ、1865~1927)は、明治からの名だたる婦人運動家。父は岡山藩士であって、一家は岡山城下の下野田屋町(現在の岡山市北区野田屋町)に住んでいた。
1872年(明治5年)には、母のが教師を務める岡山女子教訓所に通う。1882年(明治15年)には、岸田俊子の遊説に影響を受け、自由民権運動に参加する。
抜群の行動力で、私塾蒸紅学舎を開設する。1884年(明治17年)には、解散を命ぜられ、心機一転、上京する。大井憲太郎らの朝鮮改革運動に加わり、18年逮捕投獄される、これを「大阪事件」と呼ぶ)。
1885年(明治18年)には、大井憲太郎の内縁の妻となるが離別する。その後結婚した福田友作とは、33年に死別する。さらに1890年(明治23年)には、女子実業学校を開設しする。この間、平民社の広い意味での社会主義運動にも参加する。
続いての1907年(明治40年)には、『世界婦人』を創刊し、主筆として婦人解放を主張する。また、足尾銅山鉱の鉱毒事件などにも取り組む。
その著書に「妾(わらわ)の生涯」があり、苦節のなかにも、未来への希望を見失わなかった彼女の息遣いを感じさせる。
(続く)
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