261の2『岡山の今昔』岡山人(20世紀、土光敏夫)
土光敏夫(どこうとしお、1896~1988)は、御野郡大野村(現在の岡山市北区北長瀬)の生まれ。
関西中学校(現在の関西高校)から東京高等工業学校(現在の東京工業大学)にいく。1920年(大正9年)には、東京石川島造船所に入る。
その後は、1950年(昭和25年)には、社長になるという「立身出世」を果たす。1960年(昭和35年)には、播磨造船所と合併し、石川島播磨重工業を設立する。当時は、世界一の生産を誇る。
そんなレールの先にといおうか、1965年(昭和40年)には、69歳で東芝の社長になる。ここでは、経営再建に辣腕をふるう。
そして迎えた1974年(昭和49年)には、78歳で経団連の会長になる。政治献金をやめたい、と言ったのだが。政治資金規制法改正に力を貸したという。
そんな中でも、85歳で、第二臨時行政調査会の会長を引き受ける。「増税なき財政再建」の運動の旗ふり役を務める。
なかなか渋い顔をして、保守政治家とタッグを組んで、働く者には我慢と質素、要するに、「万事、節約せよ」ということであろうか、広告塔にもなっていたのではないか。
「メザシ」を食べていた、というのは噂だが、それは良いとしても、それを言われるままにしていたのであれば、本人の言いたいことは何であるのかをはっきりさせるべきであったろう。
そんなエピソードのある土光だが、当面の日中貿易のみならず、中国の経済発展に対する支援を、新日本製鉄会長の稲山嘉寛(いなやまよしひろと連携して日本の経済界として取り組んだのは、偉大だ。
類い稀な強靭な精神と知恵を、もっと額に汗して働く人々の幸せを実現する方向に役立てて欲しかった。
(続く)
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