232の3『岡山の今昔』岡山人(20世紀、藤原雄)
藤原雄(ふじわらゆう、1932〜2001)は、備前焼の人間国宝、藤原啓の長男として、備前市の穂浪に生まれる。1955年(昭和30年)に、明治大学の文学部を卒業すると、雑誌記者を1年余り勤める。そして、故郷に帰る。父に師事して備前焼の世界に入る。
その作陶にあたっては、人柄にも似ていたのだろうか、「単純にして明快、かつ豪放」がモットーであったと伝わる。壺や鉢類を多くなし、中でも「壺の雄」として語られる。また、北大路魯山人の影響を受け、食器も得意にして手掛ける。
1972年(昭和47年)からは「百壺展」や「徳利とくり展」、また「百花展」「百鉢展」など、シリーズ化して開催したのだという。思い込んだら、離さない、豪快な人であったのねはないか。
1967年(昭和42年)には、日本陶磁協会賞を受賞する。1980年(昭和55年)には、県指定重要無形文化財保持者となる。1996年には、日本の陶芸部門で、初めて親子二代の国指定重要無形文化財保持者(人間国宝)となる。
代表作としては、やはり壺であろうか。備前焼の伝統、歴史においては、この種のものが一番に、人々の日常生活に根差しており、堂々とした作陶にかける気概が色濃く感じられる。画集で拝見するだけなのだが、16~17世紀に作者不詳にて作られた壺のような、切れ味の鋭さを覚える。
(続く)
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232の2『岡山の今昔』岡山人(20世紀、山本陶秀)
山本陶秀(やまもととうしゅう、1906~1994)は、岡山県和気郡伊部町伊部(現在の備前市伊部)に農家の次男として生まれる。本名は、政雄。1919年(大正8年)に、伊部尋常高等小学校を卒業する。
その2年後、伊部の窯元、最大手の黄薇堂の見習いとなる。さらに2年後、伊部の窯元、桃渓堂へ移る。主に、花器、花入れ細工物などを作る。1933年(昭和8年)、伊部に開窯して独立を果たす。1938年(昭和13年)には、楠部禰弌に入門する。
1939年(昭和14年)には、第6回中国四国九県連合工芸展に花入れを出品する。戦時中には、軍需省の仕事をしていたという。
戦後の1948年(昭和23年)には、国の技術保存認定を受ける。1954年(昭和29年)には、岡山県重要無形文化財作家に指定される。1959年(昭和34年)には、ブリュッセル万国博覧会に「緋襷大鉢」を出品する。同年、日本伝統工芸会の正会員となる。
鈍い、赤みを帯びたとっくりとか、茶碗とかには、なぜだろうか、温かさを感じる。同じ備前焼での、17~18世紀の作者不詳の「緋襷おおざら」(ひだすきおおざら)などにも、連想が広がる。「轆轤の達人」の異名の由来など、教えてもらいたい。
(続く)
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