新95『岡山の今昔』備中高梁(~戦国時代、領国支配をめぐって)

2019-08-25 21:49:13 | Weblog

95『岡山の今昔』備中高梁(~戦国時代、領国支配をめぐって)

 ここに最初に居城していたのは、備中の有漢郷(現在の上房郡有漢町)の地頭であった秋庭重信(あきばしげのぶ)であった。この居城、秋庭氏(あきばし)が5代続いた後の元弘年間(1331~33)には、高橋氏にとって替わり、高橋九郎左衛門宗康が城主となる。おりしも南北朝の動乱期の只中で、宗康は松山城の城域を大松山から小松山まで拡大し、外敵の侵入に備えた。この九郎左衛門にちなむ逸話としては、自分の名前と地名が同じなのは気に入らなかったのか、高橋改め松山と号す。

 ところが、明治になってこの松山が伊予国の松山と紛らわしいという声が上がる。一悶着(ひともんちゃく)があったのかどうかはつまびらかでないものの、結局は、前々のものとは区別する意味も込めてか、橋梁もしくは中国王朝にあった「梁」(りょう、中国語名では「リアン」)にあやかってか、梁を採用することにし、高梁(たかはし)で落ち着いたらしい。
 ここで話を戻して、さらに戦国に入っての1533年(天文2年)、備中の猿掛城主だった庄為資が尼子氏と組んで、備中松山の覇権を握っていた上野信孝を破り備中松山城を取り込んだ。同じ頃川上郡・鶴首城や国吉城を拠点とする三村氏もまた、備中への進出の機をうかがっていた。三村氏はまた、庄氏のバックである鳥取の尼子氏(あまこし)と敵対関係にあった。そこで西の毛利氏と連絡し、この力を借りて松山城へ侵攻しこれを奪取した。

 備中に拠点を得た三村氏は、その余勢をかりて1567年(永録10年)、備前藩宇喜多直家の沼城にまで足を運んでこれを攻め立てるのを繰り返していた。さらに三村家親が備前、宇喜多家攻めで美作方面に出陣中、刺客に襲われ、落命するという珍事が起こる。
 その後を継いだ子の三村元親は、よほど悔しかったのだろうか、1568年(永録11年)に弔(とむら)い合戦のため再び備前に攻め込む。一説には、総勢2万の軍勢を三手に分けて、5千を擁する宇喜多勢を撃破しようとしたのであったが、かえって地の利のある宇喜多勢に撃退されてしまう。この合戦を、「明禅寺崩れ」(みょうぜんじくずれ)と呼ぶ。

 この大敗によって敗走した三村氏であったが、その後の毛利氏の援助により、松山城を拠点とし何とか勢力をつないでいく。この同じ年、三村氏に率いられた備中の軍勢が毛利氏の九州進攻に参加していた隙をつき、宇喜多直家は備中に侵攻した。
 備中松山城を守る庄高資や斉田城主・植木秀長などは、この時に宇喜多側に寝返った。猿掛城も奪還されることとなり、ついに備中松山城を攻撃し庄氏を追い落とした。それからは城主であった三村元親が高梁に戻って奮戦、備中松山城をようやく奪還し、同城に大幅に手を加えて要塞化するのだった。
 そして迎えた1574年(天正2年)、毛利氏の山陽道守将で元就の三男の小早川隆景が、宇喜多直家と同盟を結んだ。このため、宇喜多氏に遺恨を持つ元親は毛利氏より離反するのを余儀なくされる。あえて孤立を選んだ当主の三村元親は、叔父の三村親成とその子・親宣などの反対を押し切り、中国地方に進出の機会をうかがう織田信長と連絡するに至る。戦いの火蓋が切られると、備中松山の城ばかりでなく、臥牛山全体が要塞化される。

 この城が毛利軍に包囲されて後は、内応する者が次々と現れる。明けて1575年(天正3年)には、最後まで残った家臣の説得により、三村元親はついに、本拠地の備中高松城を捨てることに決める。落ち延びていく途中で、その元親が死んだことにより、三村氏は滅びた。
 こうして、備中松山城と三村氏の領地は、ついに毛利氏の支配下に編入された。この一連の戦いを、備中全体を揺るがしたという意味を込め「備中兵乱」(びっちゅうひょうらん)と呼ぶ。

(続く)

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◻️119の2『岡山の今昔』い草と敷物(近世から明治へ) 

2019-08-25 21:24:00 | Weblog

119の2『岡山の今昔』い草と敷物(近世から明治へ) 

 い草というのは、日本の上代から栽培されていたようで、岡山の地にでの生産については、いつの時代からであろうか。
 さて、いつの頃からか、い草はどんな風に作られてきたのだろうか。今時、農業カレンダーのような案内があるのか知らないが、い草は7月上旬に、い苗を畑に植えつけるのだという。その畑で育った苗の株を12月に小さく分けて、田に水を張って植え替えるとのこと。株がかなり増えての5月の中旬頃の短期間に、先刈りを行う。先刈りを行うのは、株を増やし、新しい芽を伸ばすためらしい。これは、コメづくりとは、異なる。
 やがての6月の梅雨時ともなれば、成長してかなり背丈が増しているのであろう、雨や風でい草が倒れないように網かけを施す。そして迎えた7~8月の炎天下を選んで刈り取りが行われるとのことで、さぞかし重労働なことであるに違いない。刈り取ると同時に、染土を水に溶かした液の中に入れる、これを泥染といい、あの、くすんだような色がつくのだと説明がなされる。
 およそこのような次第で栽培されてあろう、い草が、温暖な、広い意味での岡山平野で盛んに栽培され始めたのは、江戸時代からであるとのと。倉敷の庄村・茶屋町地域を中心に、すでに全国有数の産地になっていたらしい。同時に、畳表やゴザ類といつた製品化にも力が注がれていったようだ。
 それが明治時代に入っては、まずは製品化に欠かせない撚糸機や織機の研究や改良が行われたり、製品の高付加価値化が目指されていく。中でも、精緻な色柄・紋様で知られる、高級花筵(かえん)としての「錦莞筵(きんかんえん)」(本ブログ中、列伝の項目「磯崎眠亀」に詳しい)が発明され、我が国の殖産工業に大いに貢献していく。

(続く)


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◻️211の2『岡山の今昔』岡山人(19~20世紀、杉山岩三郎)

2019-08-25 09:29:05 | Weblog
211の2『岡山の今昔』岡山人(19~20世紀、杉山岩三郎)

 杉山岩三郎(すぎやまいわさぶろう、1841~1913)は、明治時代岡山の代表的実業家の一人であろう。
 備前藩士の二男に生まれる。後には、同藩の家臣杉山家の養子に入る。本姓は中川。名は厚。幼い頃からかなり、武芸に励んでいたらしい。
 明治に入る頃には、実力を養っていた。岡山県典事や島根県権(ごんの)参事をつとめる。1871年(明治5年)には、郷里の岡山にかえる。
 それからしばらくは、士族授産のために働いていたが、ほどなく実業界。1879年(明治12年)、第二十二国立銀行を設立する。士族の金融に役立てたいと考えたようだ。
 また、岡山紡績所などの創立にくわわる。これも、『士族授産』の考えがあったという。1895年(28年)には、中国鉄道株式会社の社長、有終社(士族の団結社)、岡山電燈株式会社、岡山貯蓄銀行、岡山県農工銀行など、数多くの起業に携わる。
 やがては、備前西郷と称されるほどの豪胆さで、広く知られるようになり、錦江湾(瀬戸内海の備讃瀬戸にある湾にして、今は岡山県瀬戸内市南部にある)の開墾にも取り組むのだが、これが台風被害で暗礁に乗り上げたところで、その類い希な人生を閉じる。 
 なお、後日談として、錦江湾の事業だが、1956年(昭和31年)には、錦海塩業組合が公有水面埋立免許を取得する。そして、堤防を築造し、干拓工事に着手する。そのことにより、1950年代後半までにはその大部分が干拓される。そして、1960年代から1970年代前半にかけては塩田として、1970年代後半から2000年代には、製塩工場や産業廃棄物最終処分場として使用される。さらに2018年には、日本最大のメガソーラーが操業開始予定であった、と聞くのだが。

(続く)

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