204の3『岡山の今昔』岡山人(19~20世紀、磯崎眠亀 )
磯崎眠亀 (いそざきみんき、1834~1908)は、備中の都宇郡(つうぐん)帯江沖新田村(現在の倉敷市茶屋町)の小倉織の織り元、屋号は「児島屋」の次男として生まれる。その家は、江戸中期に児島郡からこの地に移住してきていた。
大人になっては、このあたりの領主、戸川氏の江戸藩邸に奉公に上がる。1863年(文久3年)には、故郷に帰る。
それからは、小倉帯地を商っていたのが、やがてイグサを扱うかたわら、い草製むしろの改良に取り組む。
そんな中でも、精巧緻密な製織を考案しようと、工夫を重ねる。1878年(明治11年)5月には、花むしろ「錦莞莚(きんかんえん)」を完成する。
この織物は、染色したイ草と麻や木綿を編み込み、様々な文様を織り上げた花ござをいい、畳の約4倍の縦糸を使用したり、図案にも華やな絵柄を施すなどしてあって、高価で知られる。
1885年(明治18年)の「専売特許条例の施行とともに、そのための織機の特許を申請し、取得する。
ところが、高価なため、国内での販売は、はかばかしくなかった。そこて、輸出産業にまでもっていきたい。1881年(明治14年)には、神戸の貿易商がイギリスに輸出して好評を博したのをきっかけに、外国への販路が開ける。
(続く)
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3の2『岡山の今昔』旧石器・縄文時代の吉備社会の構造
そもそも、弥生時代の中期(紀元前400年位~紀元前後)までは、現在の大阪湾から瀬戸内地方にかけての海岸地層からは、石鏃(せきぞく、鏃はやじり)などの石器が多数出土している。これととともに、わざわざ高地を選んでの集落形成跡が広く認められる。これらの備えや防衛手段なりに出ていたことからは、この時代に集団間の激しい争いが続いていたことが広く窺える。
おそらくは、縄文時代の初期位までに、このあたり、例えば、笠岡・倉敷・岡山・児島、下津井辺りの平野までやって来た人々の中には、そのまま東へ向かわずにこの当たりに住み着くか、それとも高梁川(たかはしがわ)、旭川、吉井川の3本の河川を伝って北上したグループがいたとみられる。
ちなみに、この列島に最初の人々が到来したのは、約3万8千年前ともされているのだが、かりにそうであれば、このあたりにもほどなくやって来ていたのではないか。ちなみに、国立科学博物館の見解(2016)によると、人類がこの列島に渡ったの道筋としては、第一に北海道ルート(2万5千年前頃)、第二に対馬からのルート(3万8千年前頃)、第三に沖縄ルート(3万年前頃)が考えられるとのこと。なお、同館では、「クラウトファンティング」の助けを借りて、三番目のルートで実証を試みているという。
それでは、こちらへ進出した人々が定住し、そこで本格的な農耕を行うことでの弥生時代の到来にはいたっていない頃は、どのようにして暮らしていたのだろうか。例えば、この地方においては、定住の拠り所となっていた遺跡は瀬戸内に面した平野を中心に散在していて、いずれも小規模なものの寄り合わせであったのであろうか。
そんな彼らの活動の規定的要因となっていたであろう社会のあり方につについては、ここで文化人類学者のジャレド-ダイヤモンド(「銃・病原菌・鉄ー1万3000年にわたる人類史の謎」)によりたい。彼によると、人間社会は、最初の「小規模血縁集団(バンド)」から「部族社会(トライブ)」、「首長制社会(チーフダム)」、そして「国家(ステイト)」へと発展してきた。
このカテゴリー分類でいうと、私たちが今問題にしている、本格的農耕以前の社会というのは、「部族社会」か、精々首長制社会までの範囲のものであったのではないだろうか。それというのも、集長の統治する社会では、人々は村落数が一つもしきは複数集まっての定住生活を営んでいた。その社会の基本的関係とは、階級化された地域集団にして、大局的な意思決定は集権的・世襲的なものであったもの、官僚組織はないか、あっても精々一つか二つ位であったのではないか。
(続く)
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