261の4『岡山の今昔』岡山人(20世紀、朝日茂)
朝日茂(1913~1964)は、よく知られるとおり、「朝日訴訟」もしくは「人間裁判」の原告である。その彼の晩年の手記には、自らの思想形成を語った、こんな下りがある。
「私はいま五十年の生涯をふりかえってみて、いくたの思想の遍歴をつづけてきたものだと思う。
若い三十歳のころまでは、仏教の無情観に心をひかれ、親鸞の「超日月光」とか、高神覚昇の「般若心経講義」などを読んだものだった。つづいて新興宗教の「生長の家」に心の安らぎを求めたこともあった。しかし、病気はながびき、ベッドの生活から離れられないようになってからは、しだいに観念的な考えから唯物論へと思想が変化していった。」(朝日訴訟記念事業実行委員会編「人間裁判」大月書店)、2004)
(続く)
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215『岡山の今昔』岡山人(20世紀、山室軍平)
山室軍平(やまむろぐんぺい、1872~1940)は、岡山県阿哲郡哲多町(現在の新見市)の農家に生まれた。家が貧しかったため少年時代に養子に出された。
14歳で上京し、築地の印刷所で働いていたときに、キリスト教に触れる。新島襄を慕(した)って、同志社英語学校(後の同志社大学)に入学したものの、心は落ち着かなかったようだ。
程なくして同大学を中退して岡山に帰り、石井十次らと高梁教会などで伝道活動を行った。
1895年(明治28年)には、石井十次の勧めで、来日していた救世軍を志す。救世軍(Salvation Army)とは、現在世界の120以上の国と地域でキリスト教の伝道、社会福祉、教育、医療などを推進するキリスト教(プロテスタント)の教派団体であつて、軍隊ではない。
入軍してからはめきめきと頭角をあらわし、やがて東洋で最初の中将(58歳)となり、さらに日本軍国司令官となる。終生に渡り社会福祉事業、公娼廃止運動(廃娼運動)、純潔運動など多方面の活動に力を尽くした。なお、同軍の社会事業の中でも、明治末期に始まった、街頭募金による「社会鍋」の運動は、「地の塩」とも「暗きを照らす光」とも重なり、今日に受け継がれている。
(続く)
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107の3『岡山の今昔』笠岡の干拓
その場所とは、岡山県南西端、笠岡市の本土と神島(こうのしま)間の浅瀬の海をいう。そこを干拓地にしようと、近世、備後の福山藩によって、まずは「吉浜新田」が開発された。その規模は、約300ヘクタールとも、「350町歩」(進昌三、吉岡三平「岡山の干拓」岡山文庫60、1974)とも言われる。
それからも干拓を増やす話が色々あったらしいのだが、現在につながる事業としては、1938年(昭和13年)に、小寺彦三郎が岡山県知事に出願していたのを、笠岡町が新たな出資者となる。その上、農林水産省の肝いり工事として、岡山県が委託を受けて行う話になっていた。
そして迎えた戦後の1948年(昭和23年)になると、この事業は名実ともに農林水産省に引き継がれる。1958年(昭和33)には、国営事業として湾東部の富岡地区106ヘクタールが干拓され、ついで農林省直轄事業として水深5メートル以内の1807ヘクタールの水域で干拓が実施されたという。その後、農地1187ヘクタール、工業用地460ヘクタール、港湾水域160ヘクタールなどでの造成が行われていく。都合約13年の歳月を費やして、1958年(昭和33年)12月11日に完工式を行ったものだ。
およそこのような経緯で陸地が出現したわけだが、2000年代に入って、新たなニュースが伝わる。それは、農業ベンチャーのサラが笠岡市から干拓地内の土地を借りて、トマトやレタスの栽培を手掛けるのだという。かたわら、木材チップを利用したバイオマス発電を行うとのこと(2016年4月5日付け日本経済新聞など)。これに限らず、地域に根差した事業を起こしていく中では、色々な事業の連携も育ちやすくなっていくのではないかと、期待したい。
(続く)
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