◻️259「岡山の今昔」岡山人(20世紀、坪田譲治)  

2019-08-29 23:20:56 | Weblog

259「岡山の今昔」岡山人(20世紀、坪田譲治)
 
 坪田譲治(つぼたじょうじ、1890~1982)は、小説家にして児童文学者。岡山県御野郡石井村の生れ。家業は、島田製織所といって、ランプ芯の工場を経営していた。
 6歳の時に、石井尋常小学校(現在の石井小学校)に上がる。10歳で御野高等小学校に入学する頃には、読書好きになっていたという。「すくすく育った」といえようか。12歳にて、養忠学校に入学するも、金川中学校(現在の岡山県立御津高等学校)に移転する。そのため、汽車(現在のJR津山線)に乗って金川に通うことになる。
 17歳で、金川中学校を卒業する。18歳で東京へ。小川未明を訪ねて、文学を志す。1915年(大正4年)には、早稲田大学の英文科を卒業。
 翌年には、結婚する。岡山に戻るも、夢を諦め切れない。再び東京て暮らし、小説「正太の馬」などを発表する。
 また、「赤い鳥」に童話を寄稿。その中でのヒット作「河童の話」の一節には、想像力豊かな河童像が載る。
 「その足は、人間の足じゃないんだ。ツメが鋭くのびていてね。またね、おじいさんに見るともなく見えるその顔が、人間の顔でないらしいんだ。はすの葉っぱをかぶっている頭から、長い毛がのぞいているし、ままるい目もその間からのぞいている。おじいさんはもうどうにもできなくなってしまった。」(「坪田譲治童話全集」第一巻、岩波書店)

 1935年(昭和35年)に、短編小説「お化けの世界」を雑誌「改造」に発表する。続いて「風の中の子供」や「子供の四季」を新聞に連載する。同年には、最初の童話集「魔法」を刊行する。1963年からは、自宅の敷地内において家庭文庫として、童話雑誌「びわの実学校」を刊行する。


(続く)

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◻️49の2『岡山の今昔』玉島事変(1868)

2019-08-29 22:54:41 | Weblog
49の2『岡山の今昔』玉島事変(1868)
 
 備中松山藩は、徳川の譜代の小代名にして、戊辰戦争において幕府軍に所属していたため、朝敵の汚名を受けた。幕府軍の戦況が悪くなると、藩から帰国命令が下る。「まずいことになった」というのが、かかる藩兵を率いていた家老の熊田恰は、帰路につく。恰は、部下150人を率いて海路、玉島にまで帰着した。
 しかし、そこからは、国元からは足留めをくらう。そのうちに、待ち受けていた朝廷派備前軍により包囲され、柚木亭(西爽亭)に謹慎させられ、切腹して謝罪するよう勧告された。
 こうなると、犠牲なくして事態を穏便に運ぶことはできないということになったのであろう、恰は川田甕江の助言を得て、部下の助命を嘆願し、1868年(慶応4年)1月22日、柚木亭にて自刃した。一説には、炎禍が玉島に及ぶことを憂えたことでもあるようだ。

(続く)

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◻️46の1『岡山の今昔』廃藩置県(1871)

2019-08-29 08:15:40 | Weblog

46の1『岡山の今昔』廃藩置県(1871)

 そして迎えた8月29日(旧暦7月14日)、まずは長州、薩摩、肥前、土佐の知藩事四人(土佐は代理の板垣退助)に対し天皇から廃藩置県が伝えらる。ついでかねてから廃藩を建白していた名古屋、熊本、鳥取及び徳島の四藩の知藩事が呼び出される。同様に天皇から通達があった。午後2時には、在京知藩事の島津忠義・毛利定広ら五六名が皇居大広間に集められ、明治天皇の前で右大臣三条実美(直後に太政大臣)が廃藩置県の詔書を読み上げる。それには、こうあった。

 「廃藩置県の詔
 朕(ちん)惟(おも)うに、更始の時に際し、内以て億兆を保安し、外以て万国と対峙(たいじ=交際)せんと欲せば、よろしく名実相副(そ)い、政令一に帰せしむべし。朕曩(さき)に諸藩版籍奉還の議を聴納(ちょうのう)し、新に知藩事を命じ、おのおのその職を奉ぜしむ、しかるに数百年因襲の久き、あるいはその名ありてその実挙(あが)ら
ざる者あり。何を以って億兆を保安し万国と対峙するを得んや。朕深く之を慨す。よりて今更に藩を廃し県となす。・・・・・」
 この措置により、備中美作、備前及び備中の諸藩などは、次に掲げる段階をたどり、編成換えされていく。まずは、1871年(明治4年)の廃藩置県から述べよう。美作においては、津山藩(10万石)は津山県へ、鶴田藩(6.1万石)は鶴田県へ、真嶋藩(2.3万石)は勝山県へ。また、備前を領する岡山藩(31.5万石)は岡山県へ。それから、備中についていうと、鴨方藩(2.5万石)は鴨方県へ、生坂藩(1.5万石)は生坂県へ、庭瀬藩(2万石)は庭瀬県へ、足守藩(25万石)は足守県へ、浅尾藩(1万石)は浅尾県へ、岡田藩(1.03万石)は岡田県へ、松山藩(2万石)は松山県へ、成羽藩(1.27万石)は成羽県へ、新見藩(1.8万石)は新見県へ。さらに、幕府直轄の倉敷は倉敷県へと変更。
 これが、そのあとの同年第一次統合においては、美作地区の3県が北条県へ。また、備中の10県が、備後の一部と統合して深津県となっていたのが翌年小田県と改称する。
 さらに、1875年(明治8年)には、小田県を岡山県に合併、翌年北条県も廃止して岡山県と合併することにより新生の岡山県が成るのであるが、このとき旧備後国6郡が広島県に編入されることで、県域が確定する。

(続く)

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