◻️232の4『岡山の今昔』岡山人(2世紀、大野昭和斎)

2019-08-19 21:35:46 | Weblog
232の4『岡山の今昔』岡山人(2世紀、大野昭和斎)

 大野昭和斎(おおのしようわさい、1912~1996)は、総社市の生まれ。
父は、片岡斎三郎といって指物師である。本名は、片岡誠喜男(かたおか・せきお)。
 1920年(大正9年)には、一家で倉敷市西阿知町に移住する。やがての14歳には、西阿知尋常高等小学校を卒業。
 それと同時に、幼い頃から父の仕事を見て育ったのであろうか。その父に師事し、指物や象嵌を学んでいく。
 そのうち、文人画家の柚木玉邨に師事し、絵画を習う。素材は木材であるから、どんな木を選ぶかが大事だろう。
 解説によると、桑を好んだという。他に欅(けやき)、柿、黄楊木、肥松もよく使用したという。目標の形に削るのが大変であろうに、特に、指物・象嵌の技術に優れていた。
 作品は、箱や文机、卓、飾り棚、小箪笥、盛器、香盆、菓子鉢など、多種を手掛ける。画像を拝見すると、繊細なつくりで、艶々してみずみずしい。
 たとえば、杢目沈金といって、杢目(もくめ、独特の紋様)に金箔を刷り込む技法を用いており、これだと、申し分のないほど、 木調の美しさが際立つ。 

 1984年(昭和59年)には、重要無形文化財「木工芸」保持者に認定される。

(続く)

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◻️19の2『岡山の今昔』吉備の文化(「万葉集」など)

2019-08-19 10:09:03 | Weblog

19の2『岡山の今昔』吉備の文化(「万葉集」など)

 ここに「万葉集」とは、日本で最初の歌集であり、4500首余りを収録している。その原文は、いわゆる「ヤマト言葉」ではなく、漢文で記されている。その中には、王候貴族や有名歌人ばかりでなく、「名もなき人」の作をも含む。それらのうち吉備にまつわる歌も幾つかあるので、少し紹介しよう。
 その一として、「大和道(やまとじ)の 吉備の児島を 過ぎて行(ゆ)かば筑紫の児島 思ほえむかも」(巻6-967、大伴旅人(おおとものたびと))。
 その現代語訳の例としては、「都へ帰っていく途中、吉備の児島を過ぎていく時は、きっと筑紫の児島、お前さんのことを思い出してたまらない気持になるだろう」
 果たして当時の吉備の児島は、現在の岡山市、玉野市、倉敷市を中心とする児島半島の姿としてあったのではなくて、「吉備の穴海」の中に浮かぶ独立した大きな島であった。このあたりでの海流は、かなり早く、潮待ちの港として栄えたところだ。
 それから、ここでの作者の旅人なのだが、大伴氏は名門貴族の家柄であっても、橘氏と藤原氏の抗争に巻き込まれていたという。どちらかというと、策謀家の鎌足以来、今も伸長著しい藤原氏に、覚えが芳しくなかったのではないだろうか。息子の家持(やかもち)の代になると、一族の命運をどう保つべきかの岐路に立たされた、と伝わる。そこで、朝廷の命令を受けての、「万葉集」の編集に加わることで、危難から距離を保とうとするのであったらしい。


(続く)


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