79の2『岡山の今昔』山陽道(須恵器から備前焼へ、その製造技術の発展)
私たちが今日知るところの備前焼(びぜんやき)は、古代からの「須恵器(すえき)」の発展としてある。前者での製造技術が、日本で変化を遂げて初めて作り上げられてきた。それが、今から約800年前の鎌倉期にいたり、開花期を迎える。
この須恵器(すえき)だが、同時代に作られていた土師器(はじき)に比べると、堅ろうで割れにくい。そのため、平安時代末期になると庶民の日用品として人気を集めていく。こうして備前の伊部(いんべ)の南方の地方(現在の牛窓町や邑久町あたり)で発展した須恵器は、鎌倉時代中期には完成の度合いをつよめていく。
しかも、室町期に入ると、この須恵器が、各地で備前焼、越前焼、信楽焼、瀬戸焼、丹波焼、常滑焼などに発展していくのであった。顧みるに、室町の文化の一つの特徴は、生活様式の侘(わ)びとか寂(さ)びの境地に相通じるものであったろう。備前焼については、その素焼きの美しさ、飾り気のない渋みを楽しみたい、風雅人に好まれ茶の湯の席にて頻繁に使われたのだという。
やがて安土桃山時代に入ると、備前焼きの愛好は黄金期を迎えるのだった。さらに江戸期に入ると、備前岡山藩主の池田光政が郷土の特産品として備前焼きを奨励するに至るうち、朝廷や将軍家などへの献上品としても名を成していく。従来の甕や鉢、壺に加え、置物としての唐獅子や七福神、干支の動物へと広がる。高級品ばかりでなく、庶民を対象にした酒徳利や水瓶、擂鉢などにも用途が及んでいくのであった。
それでは、備前焼の製造の仕方は、どのように発展してきたのだろうか。備前焼は、その昔古墳時代に朝鮮から伝わって生産されていた「須恵器(すえき)」が発展し、変化を遂げて作り上げられたものといわれているものの、確かな由来は突き止められていない。焼き物というと、まずは土であり、これをどのように調達するかが大事だろう。これを供給するのは、「伊部の田圃の底に眠る、黒っぽい陶土」((株)ナック映像センター・田邊雅章編著『ふるさとの匠と技~中国地方の伝統工芸』第一部、中国電力(株)広報部、1993より)とのことであって、「手間ひまかけて慈しむように仕込み、焼物として使いやすいように充分に練り上げ」(同)る。
こうして土が出来たら、今度はそれを大量に焼かねばならない。製造設備の要となるのは、やはり窯であろう。室町時代の終わり頃から安土桃山時代を経、さらに江戸時代にかけて備前焼が焼かれていた窯(かま)の跡ということでは、伊部(いんべ)南大窯跡(現在の備前市伊部)が有名だ。
東側窯跡・中央窯跡・西側窯跡の三基からなり、一番大きな東側窯跡は長さが約54メートル、最大幅が5メートルもあり、窯の中に仕切りのない窯としては国内最大級の窯であった。これまでの市の発掘調査で、東窯跡の中央には40本近くの柱が並んでおり、窯の天井がそれらにより支えられていた。また、窯の側面には焼き物を出し入れする入り口があったこと、江戸時代前半にやや小さな窯につくりかえられていたことなどがわかっている。
備前焼を他の地域の焼物に対し特徴付けるものとして、前述のように釉薬(ゆうやく、「釉」(うわぐすり))を一切使用しないことがあるのだが、摂氏1200度から1300度の高温で焼成する焼締めるとのこと。その素朴な中にも深い味わいというか、古からの趣を感じさせるというか、それらは全体として土の性質や、窯への詰め方や窯の温度の変化、焼成時の灰や炭などによって生み出されるものだろう。人によって描かれる紋様はないらしい。それでいて、備前焼は、一つとして同じ色、同じ模様にはならないといわれる。茶褐色の地肌は、備前焼に使われる粘土の鉄分によるものだという。
2015年2月9日に放映された「日曜美術館」においても、「銀行頭取を務めた陶芸の巨人!川喜田半泥子、▽桃山に学んだ自由奔放な傑作」の中で、その類稀なる伝統ならではの陶器のあれこれが紹介されていた。その放送によると、彼が備前焼の赤紋様を醸し出す技術に習い、作品に新境地を拓いた。
それから、備前焼は,釉薬を用いなくても赤とか、橙とか、オレンジなどの色を出せるとのことで、成形後乾燥された作品は登窯に入れてる際、作品を置く棚板や他の作品との接触を避けるため作品に稲藁を巻くと、稲藁との接触部分にこれらの特徴ある赤色模様が現れるのだとか、テレビに写し出されたのは思いを込めた赤味がかった朱色であった。
(続く)
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14の1『岡山の今昔』倭の時代の吉備(大和朝廷との確執、雄略)
おそらくはこの列島にまだ「日本」などという統一国家はなく、もちろん天皇という称号もなかった時代のことだが、「日本書記」巻第十四の「大泊瀬幼武天皇、雄略天皇」には、こう述べてある。
「雄略七年(463年か)「八月、官者吉備弓削部虛空、取急歸家。吉備下道臣前津屋或本云、國造吉備臣山留使虛空、經月不肯聽上京都。天皇、遣身毛君大夫召焉、虛空被召來言「前津屋、以小女爲天皇人・以大女爲己人、競令相鬪、見幼女勝、卽拔刀而殺。復、以小雄鶏呼爲天皇鶏、拔毛剪翼、以大雄鶏呼爲己鶏、著鈴・金距、競令鬪之、見禿鶏勝、亦拔刀而殺。」天皇聞是語、遣物部兵士卅人、誅殺前津屋幷族七十人。」
これによると、吉備下道臣前津屋(きびのしもつみちのおみさきつや)が雄略大王を呪詛していたとのことで、官者(とねり)の吉備弓削部虛空(きびのゆげのべのおおぞら)がこれを目撃し、告発した。雄略は、兵を派遣し、吉備下道臣前津屋ら七十人を殺したというから、驚きだ。
同じ年の続いては、こうある。
「是歲、吉備上道臣田狹、侍於殿側、盛稱稚媛於朋友曰「天下麗人、莫若吾婦。茂矣綽矣、諸好備矣、曄矣温矣、種相足矣、鉛花弗御、蘭澤無加。曠世罕儔、當時獨秀者也。」天皇、傾耳遙聽而心悅焉、便欲自求稚媛爲女御、拜田狹爲任那國司、俄而、天皇幸稚媛。田狹臣、娶稚媛而生兄君・弟君。別本云「田狹臣婦、名毛媛者、葛城襲津彥子・玉田宿禰之女也。天皇、聞體貌閑麗、殺夫、自幸焉。」
こちらは、吉備の実力者の吉備上道臣田狭(きびのかみつみちのおみのたさ)が、畿内有力豪族の葛城氏(かつらぎし)と結んで、毛姫(けひめ)という妻を娶るということで、たいそう羽振りがよかったらしい。一説には、雄略はこれを嫌ってかかる婚姻を無効にするばかりか、田狭を殺したのだと伝わる。
(続く)
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