◻️46の3『岡山の今昔』地租改正(1873)

2019-08-28 20:28:33 | Weblog

46の3『岡山の今昔』地租改正(1873)

 さらに新政府は、秩禄処分、次いで地租改正を行った。こちらは、従来の田畑貢納の法を廃止するものである。地券の元となる土地の調査を行い、土地の代価を決め、それに基づき地租を課すことになった。1871年(明治3年)から準備が始まる。1872年(明治5年)8月に田畑の貢米・雑税米について近接市町の平均価格をもって金納することを認める。同年9月、租税頭より「真価調方之順序各府へ達県」が出される。1873年(明治6年)6月になると、石高の称を廃止する。地租は従来の総額を反別に配賦して収入とすることに決まる。同年7月の「上諭」とともに、地租改正条例と地租改正規則が公布される。
 これらの諸法令の施行により、土地の所有権の根拠(いわゆる「お墨付き」)を与えるもので、その所有者には「地券」が新政府によって発行される仕組みだ。この地券には、地番と地籍とともに、その次に「地価」が書いてあって、これが江戸期までの検地でいう「石高」に相当する、課税の際の「土地の値段」となる。つまり、「この地券を持っている人は何割の税金を払うように」法令を発すると、この地価に税率を掛けた額が税金となって、これを支払うのが義務として課せられる。政府としては、これで安定的な税収が見込める。最初の税率は、地価の100分の3と見積もる。その上で、作物の出来不出来による増減をしないことにしている。地租の収納方法は物納を廃止し、一律に金納とした。この地価の水準は、当時の「収穫代価のおよそ3割4分」に相当するものとして算定されている。
 この政府の決定に基づき、美作の地でも地租改正の作業が進められていく。ところが、これがなかなか思うように進まなかった。その例として、『津山市史』に、北条県での事例が次のように記されている。
 「こうして地租が徴収されるのであるが、この調査の過程で問題が多かったのは、一筆ごとの面積と地価についてであった。言ってしまえば簡単であるが、測量にしても、「田畑の反別を知る法」が10月に示され、種々の形の面積の出し方が教えられた。
 『北条県地租改正懸日誌』の11月7日の項に、「人民は反別調査の方法も知らない。延び延びになるので測り方を示した。これが地租改正の始まりである」と書いている。11月になって、やっと地租改正の仕事が動き出したのである。
 それから2箇年後、8年(1875年)12月3日、北条県は地租改正業務を終了させた。山林の調査は多少遅れたけれども、地租改正事務局総裁大久保利通ら、「明治9年から旧税法を廃して、明治8年分から新税法によって徴収してよい。」との指令が到着したのは、同9年(1876年)1月4日であった。」(津山市史編さん委員会『津山市史』第六巻、「明治時代」1980)
 地租改正のその後であるが、1878年(明治10年)に税率が100分の3であるのは高いということになり、100の2.5に変更されたり、追々の米価騰貴もあって金納地租の率が低減していったのである。

(続く)

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◻️64の2『岡山の今昔』岡山空襲(1945)

2019-08-28 13:36:39 | Weblog

64の2『岡山の今昔』岡山空襲(1945)

 では、地方の空襲はどうであったのだろうか、ここでは、1945年6月の岡山大空襲を伝える、当時、教師であった片山嘉女子の回想を紹介させていただく。
 「昭和二〇年六月二十九日午前二時頃の大空襲で岡山はひとなめであった。当時私は玉井宮の近くに住んでいた。玉井宮の上空よりB29の襲来、次から次へとくりひろげられた爆撃、住民はおののきながら大ぶとんを頭からかぶり、右往左往し逃げ続けたものだ。逃げ遅れた人達は地蔵川のほとりに、ぬれぶとんをかぶって身を守った。東山の電車筋あたりから南へ南へと火は勢を加えて燃えさかる。
 家主の奥さんと身のまわり品を持ち出し、おふとんをぬらして持ち出したものにかけ、二人でバケツで水を運び火勢を少しでも弱めようと努力しつづける。然し火勢は少しも劣えを見せず煙が目に入り思うような効果は上がらず、懸命な消火もなく隣家がやけおちやがてわが家も、見る見るうちに焼け落ちた。

 灰と化していくわが家を家主さんと共に放心して眺めていた。あたりには誰一人姿はなく、付属小学校側はまだ燃え続けている。やがて火力が弱まった頃にやっとここにある自分に気がついた」(片山嘉女子「戦前戦中戦後の教師として」:岡山県教職員組合「己無き日々ー戦争を知らないあなたよ」1982に所収、当時の筆者は、岡山市立勲小学校に勤務)。
 同じく教師をしていた小島幸枝は、焼け出された民衆が身を危険にさらしてまでも、大挙して旭川に向かったことを、次のような手記に綴っている。
 「・・・午前二時、燈火管制の薄い光りの中で用を足しに起きた私の耳に、低いうなるような音が響きました。南の空が赤いのです。とっさに私は「空襲だ。空襲だ。」と叫びました。B29の来襲です。
 私は二歳の次男を背負い五ケ月の身重に、モンペをはき、用意の袋を持ち、夏蒲団を被り逃げました。夫と共に防空壕に入りましたが、危険と云う隣り組の班長の報せで、旭川に出ました。河原の窪地の水につかって避難しました。空から、ばらばらと間断なく落下する火の雨、油脂焼夷弾は、水面に落ちても、燃え乍ら流れて行きます。次々に爆音を立てて飛来するB29は、市の中心部を焼き、炎々とあがる火の海と化しました。蒲団から頭を出して、天満屋が焼け落ちるのを見ているうちに、鳥城が火を吹いて燃え出しました。
 河原は、避難の民衆でごった返しています。突然後方に悲鳴があがりました。直撃弾で全身炎に包まれた人が見えました。私は深く蒲団を被り祈りました。火に追われて、河へ河へと旭川は人の渦です。降りかかってくる火の弾を避けて、泣き叫び、阿鼻叫喚の地獄です。
 夜が明けて鼠色の雨が降り出しましたが火は消えません。ぶすぶすと燻り続けます。
 ずぶ濡れの身体をひきずり家の方向に歩を運びました。家がある、焼けないで、私は夫と家を捨て、焼けた街に出て身内の安否を確かめました。妹夫婦が居ません。この日以来二人は消え去ってしましいました。街には多くの焼死体が残っています。銭湯の湯舟に、各戸にある防火用水桶に、火に追われて、飛び込んだ水の中で焼け焦げていました。
 二、三日、探してもいない妹夫婦一週間も死体探しを続け、国清寺、正覚寺の境内の収容所ものぞきました。引き取り手のない焼死体が累々と集り、怖い物への無感覚でひたすら死体探しをしました。
 学校の教え子も死にました。防空壕で、道路で、家の中で、多くの子が死にました。・・・・・」(同著、小島幸枝「戦争を知らないあなたに:岡山県教職員組合「己無き日々ー戦争を知らないあなたよ」1982に所収)


(続く)

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◻️261の4『岡山の今昔』岡山人(20世紀、朝日茂)

2019-08-28 09:27:08 | Weblog

261の4『岡山の今昔』岡山人(20世紀、朝日茂)

 朝日茂(1913~1964)は、よく知られるとおり、「朝日訴訟」もしくは「人間裁判」の原告である。その彼の晩年の手記には、自らの思想形成を語った、こんな下りがある。 
 「私はいま五十年の生涯をふりかえってみて、いくたの思想の遍歴をつづけてきたものだと思う。
 若い三十歳のころまでは、仏教の無情観に心をひかれ、親鸞の「超日月光」とか、高神覚昇の「般若心経講義」などを読んだものだった。つづいて新興宗教の「生長の家」に心の安らぎを求めたこともあった。しかし、病気はながびき、ベッドの生活から離れられないようになってからは、しだいに観念的な考えから唯物論へと思想が変化していった。」(朝日訴訟記念事業実行委員会編「人間裁判」大月書店)、2004)

 そんな過酷な人生を生き抜いた、彼の死から五十余年を経て、「朝日茂はもう一度死ぬのか」と題する草川八重子氏(無職、京都府、84歳)の次の投稿が、新聞に掲載された。
 「「朝日訴訟」の記録を東京地検が廃棄していたという。私はあぜんとした。憲法25条が保障する生存権、「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利」とは何かを問うた朝日訴訟は「人間裁判」と呼ばれた。私の文学の師がかつて「小説、朝日茂」を書いたこともあり、関心をもってきた。(中略)
 60年の東京地裁判決で全面勝訴したが控訴審で敗訴。最高裁で争う。その途上、彼は逝った。享年50歳。朝日さんの死亡で最高裁は訴訟に幕を引いた。昨年の国の発表では、生活保護受給者は約210万人もいる。朝日さん勝利の裁判記録さえ廃棄され、この国の貧富の格差はますます固定化してゆくのだろう。朝日茂はもう一度死ぬのか。」(「朝日新聞」2019年2月21日付け)
 もって現代に生きる人々にとっては、肝に銘じるべき言葉であろう。

(続く)

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◻️107の2の1『岡山の今昔』岡山から総社・倉敷へ(備中の干拓、安土桃山時代~江戸時代、そのあらまし)

2019-08-28 07:03:59 | Weblog

107の2の1『岡山の今昔』岡山から総社・倉敷へ(備中の干拓、安土桃山時代~江戸時代、そのあらまし)

 そもそも、備中における干拓の歴史は、今からおよそ500年前にも遡る。時代を区切れば、近世も後半になってからのことだ。豊臣政権の成立後は、時流に乗っていち早く織田方についていた宇喜多直家の子、秀家が、新たに備前と備中の領有を正式に認められる。
 その秀家は、鋭意新田開発に取り組んだ。1581年(天正9年)に、倉敷と早島(はやしま)の間に広がっていた干潟に潮止(しおどめ)のための堤防を築き、そこを埋め立てた。この堤防は「宇喜多堤」と呼ばれる。
 この時は、現在の倉敷市北部一帯500ヘクタール余りの土地が緑溢れる作物の実る農地になった。この時の水の便を整えるため、彼は湛井十二ヶ郷(たたいじゅうにかごう)用水から水を引くつもりで調査していた。
 しかし、これが無理とわかったので断念し、その4年後、酒津(さかづ)(倉敷市酒津)からの用水を築く。これが倉敷東北部・早島一帯を潤す「八ヶ郷用水」の始まりである。

 時代は移って、江戸期からは、かなりの規模で埋立てや運河の建設が行われてきた。水門の設けられたのは、これらのうちの船穂町エリアの水江にある。
 江戸期に入ると、それかさらに南方に干拓が進んで、その範囲は現在の玉島エリアの全体まで及ぶようになっていく。ちなみに、その当時の玉島というのは、海に張り出したところというよりは、福島、七島、乙島、柏島といった独立の島も含んでのことである。全体的として、あたりは瀬戸内の風光明媚な島々に育まれた土地柄であると言える。

 江戸期に入ってからの玉島地区の埋立のとっかかりは、備中松山藩をもって嚆矢としてよいのではないか。具体的には、1624年(寛永元年)から1624年から19年がかりにて、松山藩が「長尾内外新田」を手掛けたのが創始とされる。
 やがての1661年(寛文元年)の上竹新田(上竹は、現在の道口、富、七島地区)からは、隣の岡山藩も新田開発に乗り出す。また、1659年(万治2年)には、松山藩(当時の藩主は水谷勝隆)により、玉島新田が完成する。工事が始まったのは1655年(明暦2年)で、足かけ5年の工事で、乙島、上成、爪崎を結ぶ広大な海域が埋め立てられる。

 同じ1659年(万治2年)には、備中松山城主の水谷勝隆が、家臣の大森元直に対し、高梁川下流域(現在の玉島・船穂地区)に、水流の高低差を調整するのに水門を使った運河を開削するように命じた。その頃の高梁川は、そのやや上流で二本に別れていた。
 その一つ、西高梁川からの灌漑用水路を拡張・整備し、新見までを結ぶ高瀬舟の運行をより便利にしようとしたもので、完成した年代は、正確な記録がないものの、1664年(寛文4年)頃であろう。
 さらに1671年(寛文11年)には、これまた松山藩(当時の藩主は水谷勝宗)により阿賀崎新田が拓かれる。このほか岡山藩も七島新田、道越新田を手掛けていて、主として西岸からは高梁の松山藩水谷氏が、東からは岡山藩池田氏の両藩が競うように干拓を進めていたことになる。なお、これに応じて、埋め立て地における両藩の境界も設定されていく。

 顧みるに、両藩による、これら一連の埋立ての中でも、松山藩の阿賀崎新田は大規模で知られる。この工事にとりかかる1658年(万治元年)、松山藩主の水谷勝隆は神社を勧請し、阿賀崎新田の工事成功を祈願した。その社は、水谷勝宗、克美までの3代55年で完成したもので、拝殿瓦に「からす天狗」を鎮座させているのが、元はといえば山形県の羽黒神社に棲むという伝説上の生き物をあしらったものらしく、なんとも珍しい。ここに羽黒神社というのは、この工事の前は阿弥陀山、工事後は羽黒山と名前が変わっている。
 この埋立てのため、阿弥陀山と柏島との間に汐止めための堤防を築いて埋め立てた所(羽黒神社の西側)には、人々が集まり、「新町」を形成していった。問屋街として栄えていくのだが、それから350年余を経た現在は、県の町並み保存地区に指定され、倉敷美観地区につぐ町並み観光スポットなっている。潮止堤防の上に築かれたこの町は、かつてこの堤防上に回船問屋が立ち並んでいた。最盛期には、かれらの富の象徴である、切り妻造り、本瓦葺き、虫籠窓の商家や重厚な造りの土蔵が設けられていて、土蔵の数はざっと200以上に及んでいたというから、驚きだ。
 かくして、海に臨んだその町の南側には、北前船などの千石船が船着場に頻繁に入船、出船していて、ほど近い下津井港に負けず劣らずの賑わいを見せていたことだろう。その新町への行き方だが、新倉敷駅からバスで、爪崎南、爪崎西、八島、七島、文化センター入り口、玉島支所入口と南に下り、玉島中央町で降りる。

 次に運河について、俯瞰しておきたい。一の口水門は、高瀬川の下流部、小田川との合流点下にあった。このあたりは、倉敷市玉島長尾、爪崎を経て高瀬舟による河川水運と海運船による内陸水運の接点として栄えたところで、ここが運河の取水口となる。
 この一の口水門には、今でも堰板(せきいた)を巻き上げる木製のウインチが残っている。これにより、二つの水門の開閉によって水深を調節し船を通す仕組みであって、「閘門(こうもん)式」の運河と呼ばれる。ここで生じていた水位の差は、2~3メートル位ではなかったかとも言われている。この一の口水門と、その下流約300~350メートルの二の水門、通称船溜水門との間で水位の調整を調整する仕組みが導入されたことになっている。
 かかる水路としては、船穂町の一の口水門から高梁川の流れを導き、長尾・爪崎を経て、玉島港に通じる。「高瀬通し」と呼ばれる区間(現在の倉敷市船穂~玉島間)約9~10キロメートルにかけてが、それに当たる。

 さて、この松山藩の阿賀崎新田造成に伴う運河の完成によって、新田の灌漑用水と、高梁川流路との高瀬舟、北前船の出入りが容易になったことが窺える。同時に、一の口水門から、水江又串、元組、長崎鼻・長尾・爪崎南端を経て七島東端、さらに羽黒山麓へと連なることから、これによって玉島港までの舟運についても舟運による道筋ができたことになる。
 かくして、この運河を遣っての高瀬舟の上りでは、船頭が竿で舟を押し、残りの二人は岸辺で綱を引く。高梁川のような大きな川では川岸が整備されていないので舟を引くのも大変と考え、高梁川の脇に用水路を開削し、この水路を使って舟運を行なおうとしたものとみえる。

 ちなみに、現在では、かつての高瀬舟などが往来していた水路はもう役割を終えて、ごく一部の施設のみ露出している。水の取入口にあたる「一の口水門」は、倉敷市の史跡文化財になっており、その前に次の案内板が設けてある。
 「旧高瀬通しの終点、玉島舟だまり跡。松山藩水谷候が玉島阿賀崎新田を開拓した万治寛文延宝にかけての約330年前、高梁川の水を入れた灌漑、水運両用の高瀬通しが船穂町水江の堅盤谷(カキワダニ)から糸崎七島を経て、玉島舟だまりまで91粁巾37米ー8.5米で開通された。一の口水門から二の口水門へ水を入れた閘門(コウモン)式運河で、パナマ運河に先んずること240年前であった高瀬舟は、下りは、水棹を用い上りは曳子が引いて通過した。
 下り舟には、米・大豆・茶・薪炭・煙草・漆・和紙・鉄・綿・べんがらなど、上り舟には北海道鰊粕・干鰯・昆布・塩・種粕・雑貨など積まれた港の北前船と並んで江戸期の玉島繁栄の基となった。荷を積み下ろす舟だまりは、羽黒山東側のこのあたり約10アールの水域であった。羽黒山北側に延びる水路は、新町裏側に通じ阿弥陀水門から舟は港に出た。明治になってからは、港町に地下トンネルが出来、舟はそこから港に出た。昭和になって、高瀬通しはその機能を失い道路となり、家並みが建ち現代に至った。平成6年(2009年)11月6日、玉島文化協会、玉島観光ガイド協会」

 これにもあるように、北前船の寄港地であった玉島そして下津井には、北海道や東北、北陸地方から様々な商品が持ち込まれた。中でも、肥料として綿などの栽培に欠かせない干鰯やニシン粕などをもたらし、このあたりの経済を支え続けた。そんな北前船の帰り荷としては、綿・菜種・塩などが主な積み荷であったことから、盛んに商売が行われ町が大きく発展したのだ。

 それからについては、水谷氏は3代目の藩主が早世し後継ぎがなかったため、元禄7年(1674)断絶してしまった。幕府は領地を接収し、数年後浜松藩の本庄氏、丹波亀山藩の青山氏、その他の大名に分封して与えた。更に、この地は1729年(享保14年)に松山領、幕領、亀山領、岡山領、鴨方領、岡田領の六つの藩の領有にと細分され、きちんと計画を立てての、それまでの事業はしだいに影が薄くなりつつ、明治維新を迎えたことになっている。明治の世(慶長4年~)になっても、こうした高梁川にまつわる干拓事業は形を変えてなおも続いた。


(続く)

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◻️107の2の3『岡山の今昔』岡山から総社・倉敷へ(備中の干拓、明治時代~現代)

2019-08-28 06:58:48 | Weblog

107の2の3『岡山の今昔』岡山から総社・倉敷へ(備中の干拓、明治時代~現代)

 それからさらに大いなる時間が経過していった。1907(明治40年)から1925年(大正14年)にかけては、政府により高梁川の大規模な河川改修事業が行なわれた。その時は、酒津から南西に水路を開削して東高梁川と西高梁川を結んだ。そして八幡山の西流路を閉め切る工事を行った。

 また、酒津以南の東高梁川を廃川とする。これによって、高梁川は一本の大河となって、現在の倉敷市水島と玉島の間を流れ水島灘・瀬戸内海に流れ込む。その河川跡地には、454ヘクタールの新たな土地が生まれた。これにより、広大な新田ができたことも大きいが、それよりも第二次世界大戦後の高度成長期からは、水島工業地帯による工業用地となって現在に至っている。
 あわせて現在、玉島に乙島(おとしま)地区が広がるが、ここは元は海があって、島があった。昭和に入ってからのここでは、1934年(昭和9年)坂田新田(56ヘクタール)、ついで1943年(同18年)に養父ヶ鼻周辺の埋立てで太平新開地(33ヘクタール)を造成し、そこに企業(浦賀重工業)を誘致した。続いて、高梁川河口西側の大型干拓が国営事業として行われる。こちらには、玉島レイヨン(のちの倉敷レイヨン)を中心に。さらに、沖合水域が埋め立てされていった。こうした一連の動きにより、現在の乙島中南東部・高梁川河口西岸の広大な平地が生まれる。ひいては、水島から一連をなす工業地帯(水島臨海工業地帯E地区)が造成されたのである。
 これらのうち、元は海の中の島であった「乙島地区」(おとしまちく)には、作家・徳冨蘆花(とくとみろか)が訪ねたことがあり、その歌碑が建てられていて、こう刻んである。
 「ここ養父ヶ鼻の地は、もともと瀬戸内海岸でも有数の景勝地で、白砂青松の海辺として全国に知られていた。また遠浅で,潮干狩、海水浴釣魚などの場として四季を通じて賑わい、海中に点在する飛石、はね石、ごろごろ石などと呼ばれた布石の妙は人々の目を楽しませた。たまたま明治大正期の文豪徳富蘆花(1868~1927)が訪れたのは大正七年の夏で、滞在数十日、この地の明媚な風光とこまやかな人情を愛した。
 「人の子の貝堀りあらす砂原を平になして海の寄せ来る」
 この一首は当時の景観をえがいた名歌で、一読、今も満ち潮の押し寄せて来る様子が眼前に浮かんでくる。碑は地元の人々によって、昭和8年10月に建てられたが、同18年以来数次にわたって養父が鼻沖は干拓せられ陸続きとなり、さらに現在のような工場地帯と変わった。かえりみてまことに今昔の感にたえない。蘆花には「不如帰」「自然と人生」「思い出の記」などの代表作がある。玉島文化協会」

(続く)

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◻️107の2の2『岡山の今昔』岡山から総社・倉敷へ(備中の干拓、江戸時代から明治時代へ)

2019-08-28 06:57:26 | Weblog

107の2の2『岡山の今昔』岡山から総社・倉敷へ(備中の干拓、江戸時代から明治時代へ)

 さて、この松山藩の玉島、阿賀崎新田造成に伴う運河の完成によって、新田の灌漑用水と、高梁川流路との高瀬舟、北前船の出入りが容易になったことが窺える。同時に、一の口水門から、水江又串、元組、長崎鼻・長尾・爪崎南端を経て七島東端、さらに羽黒山麓へと連なることから、これによって玉島港までの舟運についても舟運による道筋ができたことになる。
 かくして、この運河を遣っての高瀬舟の上りでは、船頭が竿で舟を押し、残りの二人は岸辺で綱を引く。高梁川のような大きな川では川岸が整備されていないので舟を引くのも大変と考え、高梁川の脇に用水路を開削し、この水路を使って舟運を行なおうとしたものとみえる。

 ちなみに、現在では、かつての高瀬舟などが往来していた水路はもう役割を終えて、ごく一部の施設のみ露出している。水の取入口にあたる「一の口水門」は、倉敷市の史跡文化財になっており、その前に次の案内板が設けてある。
 「旧高瀬通しの終点、玉島舟だまり跡。松山藩水谷候が玉島阿賀崎新田を開拓した万治寛文延宝にかけての約330年前、高梁川の水を入れた灌漑、水運両用の高瀬通しが船穂町水江の堅盤谷(カキワダニ)から糸崎七島を経て、玉島舟だまりまで91粁巾37米ー8.5米で開通された。一の口水門から二の口水門へ水を入れた閘門(コウモン)式運河で、パナマ運河に先んずること240年前であった高瀬舟は、下りは、水棹を用い上りは曳子が引いて通過した。
 下り舟には、米・大豆・茶・薪炭・煙草・漆・和紙・鉄・綿・べんがらなど、上り舟には北海道鰊粕・干鰯・昆布・塩・種粕・雑貨など積まれた港の北前船と並んで江戸期の玉島繁栄の基となった。荷を積み下ろす舟だまりは、羽黒山東側のこのあたり約10アールの水域であった。羽黒山北側に延びる水路は、新町裏側に通じ阿弥陀水門から舟は港に出た。明治になってからは、港町に地下トンネルが出来、舟はそこから港に出た。昭和になって、高瀬通しはその機能を失い道路となり、家並みが建ち現代に至った。平成6年(2009年)11月6日、玉島文化協会、玉島観光ガイド協会」

 これにもあるように、北前船の寄港地であった玉島そして下津井には、北海道や東北、北陸地方から様々な商品が持ち込まれた。中でも、肥料として綿などの栽培に欠かせない干鰯やニシン粕などをもたらし、このあたりの経済を支え続けた。そんな北前船の帰り荷としては、綿・菜種・塩などが主な積み荷であったことから、盛んに商売が行われ町が大きく発展したのだ。

 それからについては、水谷氏は3代目の藩主が早世し後継ぎがなかったため、元禄7年(1674)断絶してしまった。幕府は領地を接収し、数年後浜松藩の本庄氏、丹波亀山藩の青山氏、その他の大名に分封して与えた。更に、この地は1729年(享保14年)に松山領、幕領、亀山領、岡山領、鴨方領、岡田領の六つの藩の領有にと細分され、きちんと計画を立てての、それまでの事業はしだいに影が薄くなりつつ、明治維新を迎えたことになっている。明治の世(慶長4年~)になっても、こうした高梁川にまつわる干拓事業は形を変えてなおも続いた。

(続く)

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