19の3『岡山の今昔』源平の水島決戦と藤戸の戦い(1183)
地元を代表する新聞は、次のような記念行事のあったことを、伝えている。
顧みれば、1183年(寿永2年)閏10月1日の源平の水島合戦の時には、日食が起ったことが、「源平盛衰記」や、同日の九条兼実の日記「玉葉」に記してある。
地元を代表する新聞は、次のような記念行事のあったことを、伝えている。
「戦いの最中に日食が起きたとの記述が残る源平水島合戦があった倉敷市玉島地区で21日、歴史ファンらが約830年前に思いをはせながら部分日食を観察した。
平家方の陣跡とされる同市玉島柏島の水島古戦場記念碑前には、約20人が集合。日食が最大となる午前7時28分の前後、観測グラスなどで太陽が隠れ、戻る様子を見た。
源氏方が陣を構えたとされる同市玉島乙島にある常照院でも、地域住民らが雲の動きに一喜一憂しながら観察した。
水島合戦は1183年11月17日に海上戦が繰り広げられ、平家が勝利した。鎌倉時代の軍記「源平盛衰記」には「天にわかに曇り日の光も見えず、闇の夜のごとくなりたれば、源氏の軍兵ども日食とは知らず、いとど東西を失って…」と記されている。」(2012年5月21日付け山陽新聞)
顧みれば、1183年(寿永2年)閏10月1日の源平の水島合戦の時には、日食が起ったことが、「源平盛衰記」や、同日の九条兼実の日記「玉葉」に記してある。
そこで前者をひもとくと、 その日は、『天俄(にはか)に曇て日の光も見えず、闇の夜の如くに成たれば、源氏の軍兵共日蝕とは知らず、いとど東西を失て舟を退て、いづち共なく風に随つて遁行(のがれゆく)。平氏の兵(つはもの)共は兼(かね)て知にければ、いよいよ時を造り重て攻戦(せめたたかふ)。」(「源平盛衰記」巻33の「源平水島軍事」)とある。
もしこの通りであったなら、源氏軍は日食とは知らず突然の暗闇に混乱をきたす。平氏軍は、天文方から、日食のあることを事前に知っており、この時とばかりに、混乱した源氏に襲い掛かかったことになるのだろうが。
(続く)
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もしこの通りであったなら、源氏軍は日食とは知らず突然の暗闇に混乱をきたす。平氏軍は、天文方から、日食のあることを事前に知っており、この時とばかりに、混乱した源氏に襲い掛かかったことになるのだろうが。
(続く)
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