222『岡山の今昔』岡山人(19~20世紀、犬養毅)
犬養毅(いぬかいつよし、1855~1932)は、賀陽郡川入村(現在の岡山市北区川入)の生まれ。家は、大庄屋であって、裕福であったのではないか。20歳の時、東京の湯島にある共慣義塾にはいる。翌年には、慶応義塾に移る。
1881年(明治14年)には、統計院の書記官となるも、大隈重信の下野とともに免職になる。新聞記者になる。おりしも結成された立憲改進党に参加する。1912年 (大正元年)になると、軍部の支持で桂太郎内閣が成立すると、尾崎行雄らとともに護憲運動をおこし、桂内閣を倒す運動に加わる。
1931年 (昭和6年) には、満州事変の責任をとって若槻内閣が総辞職する。直後の政治的に難しい時期に長老たちに見込まれ、総理大臣となる。11月13日の犬養内閣発足以来、平和を取り戻したい。そのためには、大陸での関東軍など軍部の独走になんとか歯止めをかけねばならない。
おりしも大陸では、翌年1月3日に関東軍が錦州を占領、1月28日には第一次上海事変が勃発、2月5日には関東軍がハルピンを占領する。
これらに危機感を覚え、全面戦争を避けようと動く。そのうちに、戦争推進派の反感を買う。
そして迎えた1932年 (昭和7年)5月15日には、海軍の青年将校に暗殺された 。これを「五・一五事件」と呼ぶ。 撃たれた時であろうか、「話せば分かる」と言って、豪胆なところを見せたという。
(続く)
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