♦️161の2『自然と人間の歴史・世界篇』フス戦争(1419~1436)

2018-12-16 09:36:51 | Weblog

161の2『自然と人間の歴史・世界篇』フス戦争(1419~1936)

  ボヘミアとは、現在のチェコの西部・中部を指す歴史的な名前だ。その地の宗教改革者 ヤンフスが1415年に焚刑で処刑されて後も、フス派の信徒に対しカトリック教会による弾圧が続く。

 信徒には、ささやかな日常は許されないままの連続であったのが、1419年、彼らは時の神聖ローマ皇帝ジギスムントに戦いを挑む。 彼らの団結は固かった。これを乗り越え、1420~1431年にかけては、皇帝が派遣した十字軍を5回にわたって破る。

 この戦いをフス派に有利に展開させたのが、ヤン・ジュシカであって、戦車を仕立てて繰り出すなど、巧みな作戦で自軍を指揮し、何度も寄せ手を撃退した。

 そして迎えた1431年、教会は派フス派との和平を協議するにいたる。1433年になると、和平協定の草案が作成された。ところが、1434年、これを受諾するかをめぐってフス派は分裂し内戦へと発展する。翌1435年に穏健派が勝利を収め,1436年にようやくフス派と教会との和平が成立する。

 これにより、チェコ語による典礼、平の信徒にもパンだけでなく葡萄酒での聖体拝領の儀式をとりおこなうことができるようになった。

(続く)

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♦️679『自然と人間の歴史・世界篇』アメリカのSDI構想

2018-12-15 22:50:08 | Weblog

679『自然と人間の歴史・世界篇』アメリカのSDI構想

 アメリカのレーガン大統領は、就任から2年目の1983年になって、SDI(Strategic Defense Initiative)という名前の戦略防衛構想を打ち出した。これを、別名、「スターウォーズ計画」と呼ぶ。

 その内容としては、おおまかに大陸間弾道ミサイルを想定し、軍事衛星からレーザーを発射するなどして撃ち落そうというものだ。これは、それまで支配的であった相互確証破壊に基づく核抑止の考え方から抜け出ようというものであった。ここに相互確証破壊というのは、米ソ両国が、お互いを完全に抹殺できる核戦力を持っていれば、核戦争をどちらも始めないだろう。

 それというのも、相互確証破壊となってからも、軍拡競争は止まない。そこで、それを回避する方策として、アメリカに向けて発射されたミサイルを撃ち落すことができれば、相互確証破壊の前提を崩して、相手国に核兵器の使用を思い止まらすことができるのではないかと考えた。

 これに対するアメリカの世論だが、目立った動きとしては、ノーベル賞受賞53人を含む700人が反対署名をして、抗議した。これを伝える朝日新聞には、こうある。

 「(前略)この運動を展開するのは、マサチューセッツ工科大(MIT)のヘンリー・ケンダル教授と、IBMの物理学者でミサイル技術の権威といわれるリチャード・ケンダル教授の二人が中心になって全米の科学者に呼び掛けた「関心をもつ科学者連合」。

 物理化学などのノーベル賞を受賞した53人の学舎をはじめ、米国科学アカデミー開院の約半数ににあたる七百余人が参加に署名している。呼びかけは、レーガン大統領が推進している戦略防衛構想(SDI)、いわゆるスターウォーズ計画」に反対するとともに、ソ連に対しても、宇宙兵器開発をやめるように要請している。」(朝日新聞、1985年5月30日付け)

(続く)

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♦️130の7『自然と人間の歴史・世界篇』均田制から荘園へ(中国の宋代)

2018-12-15 21:25:55 | Weblog

130の7『自然と人間の歴史・世界篇』均田制から荘園へ(中国の宋代)

   唐代に均田制がとられていたのが、その唐が滅び五大十国の時代を通過し宋代に差し掛かる頃には、均田制は名ばかりになっていた。

 それというのも、均田制はその発足の当初から、王族や貴族、高級官僚、寺観と呼ばれる仏教や道教の寺院などには、均田制の枠外で広大な田土があてがわれ、その処分が自由扱いとなっていた。そこで彼らの才覚次第で、自営から没落した農民を雇、経営を拡充していく者も出てくる。

 安史の乱などを契機に「国破れて」の唐代末期にもなると、時代は大きく変わる。農村での税に耐えられなくなった農民の多くは、逃げて「逃戸」となるものが増える。元の場所で農業を営む者の中にも、展望が厳しくなるものが後を絶たない。

 そんな食い詰め、あるいはその日暮らしの生活をしていた人々の中には、大経営に取り込んでもらって農業奴隷として生きる者、土地ごとにその大経営によりかかって生きようとする人々が大量に出てくる。後者においては、その農民の多くはその支配の小作人となっていく。その場合の小作料は、収穫の5~6割に及ぶことも多く、それは一家が何とか生活できるぎりぎりの水準であったろう。

 これを受け入れる方では、こうした潮流の増加によって、うまいこと追加の労働力の確保ができることから、しだいに荘園といって、大経営による農村の囲い込みが広く行われるようになっていく。

 ここに均田制は内部と外部の双方向から空洞化、縮小と瓦解、さらに消滅の様相を呈していくのであった。おりしも、中央の権力には、すでに田土を直接人民に与え、その見返りに諸税を課すという仕組みは消失していた。そして、代わりに、王族や貴族、高級官僚、寺観などの新たな特権階級の土地と軍民に関わる新たな支配体制が社会の基本となり、王権と国家はその新たな枠組みの上に成立し、営まれるものとなる。

 この荘園制への移行は、中国の社会において、11世紀の末には、全国の土地の半ばが彼ら荘園種の所有となったとみられる。このような荘園を経営する地方の富裕な地主層のことを、「形勢戸」と呼ぶ。彼らの子弟は、親の場合と同様、科挙をはじめとして官職を獲得し、「形勢」となっていく者が続出していく。

(続く)

 

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♦️130の6『自然と人間の歴史・世界篇』唐の均田制

2018-12-15 19:21:58 | Weblog

130の6『自然と人間の歴史・世界篇』唐の均田制

  唐代においては、国家が3年ごとに刷新される戸籍に基づいて人民に土地を給付し、これを耕させる。収穫があるところから租税を徴収して財政を安定させる。また、人民に労役や兵役を課して建設や国防を確実にすることで国造り、国家経営の根本とした。

   こうした均田法(きんでんほう)は、北魏以来の制度に改訂を施したものが使われた。この法においては、農村の成人の男女に年齢・性別・身分などに応じ、田などの土地を割り当てる。具体的に言うと、丁男(ていなん、21~60歳)と中男(ちゅうなん、18歳以上)に永業田20畝(ぽ)、口分田80畝の2種類の計1頃(けい)を与えるのが基本。

   ここに永業田は、一度給付されて後は子孫に伝えられるもので、桑、楡(にれ)、棗(なつめ)などを植えることとする。また口分田は、本人がなくなると国家に返還すべき田であって、こちらでは栗や米などの穀物を栽培することになっていた。

   そして農民は、毎年、そこから収穫した穀物を栗にして2石(籾米約百リットルに相当)を「租」として国家に納めるのを義務付けられていた。また、彼らは、桑によって養蚕を行い、それで得た絹を1戸当たり2丈(約6メートル)だけ治めるのが「調」といい、以上の二つが国家の基本財源になる。

   ほかに「庸」というのがあって、年に20日間は国の用役に駆り出されて従事しなければならない。それから兵役については、全国600余の折衝府に配置されている軍に入営することで、「府兵制」と呼ばれる。それぞれのところに、約千人の農民兵が割り当てられ、常駐して国防の任務に就いた。このやり方は、西魏・北周の時代からの制度を一段と進めた兵農一致の考え方で組織されていた、近世の兵制にも通じる国防軍の体裁を整えていた。

 

(続く)

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♦️905『自然と人間の歴史・世界篇』アメリカと中国の通商摩擦の激化(2018年)

2018-12-15 09:51:01 | Weblog

905『自然と人間の歴史・世界篇』アメリカと中国の通商摩擦の激化(2018年)

 2018年は、アメリカと中国という、世界の2大国の動向に振り回されたことで、永人々の記憶にとどめられるであろう。振り返れば、ざっとこんな調子だ。

 その第一弾は7月6日、アメリカがロボットなど818品目につき25%、金額だと340億ドル。これに対し、中国は大豆など545品目につき、同額の340億ドル。第二弾は8月23日、アメリカが半導体など270品目につき25%、金額だと160億ドル。これに対し、中国は鉄鋼製品など333品目につき、同額の160億ドル。そして第三弾は、9月24日、アメリカが家電、家具など5745品目につき10%(2019年1月以降25%)、金額だと2000億ドル。これに対し、中国は液化天然ガスなど2700品目につき5%または10%、金額だと600億ドルというもの。

 そればかりではない。年末近くに差し掛かっては、主に中国の産業育成政策やサイバー攻撃によるアメリカの技術の盗用などを言いがかりに、厳しいやり取りが展開しだす。アメリカとしては、世界第一の経済大国としての自負があるのか、その座に肉薄している中国の経済上の動きに神経をとがらせているみたいだ。

 いったい、どちらの国が経済力で上かということでは、すでに甲乙つけがたいことになっている。現行の経済統計でいうと、為替相場をベースにするとアメリカだが、購買力をベースにした比較でいうと中国の方が上回っている。そして、後者の指標が追って前者に反映されようから、今後の両国の動静に特段のことがなければ、向こう20年から30年の先には中国の経済力がアメリカをはっきり上回る展開となるのであろう。

 だが、歴史というものは、なかなかなにむずかしい。というのも、この両国は互いに大きいだけに世界経済に対する影響力も大きい。したがって、他の国々は、彼らの争いにマイナスの意味で巻き込まれ、不利益を被る恐れが大きい。また、両国ともいずれ「戦略的妥協」を強いられるであろうが、それまでの間に他の国々はどちらにつくかを迫られたり、あらぬ疑いをかけられたりすることも否定できない。古典的なことでは、これまでの歴史上、帝国主義というのがあったのだが、今度はどうなるのだろうか。同時に、この間の人類史の積み重ねが、真の発展の道筋に乗ったものであるのかどうなのかが問われることになりそうだ。

 そしてゆめゆめ、世界が2陣営に傾き、第三次世界大戦に近づいていかないように、私たちは諸力を傾けないといけないと思う。

(続く)

★★★


♦️309の2『自然と人間の歴史・世界篇』フランスの内乱(パリ・コミューン、モーパッサンの「脂肪の塊」)

2018-12-14 21:05:06 | Weblog

 309の2『自然と人間の歴史・世界篇』フランスの内乱(パリ・コミューン、モーパッサンの「脂肪の塊」)

 

 モーパッサン(1850~1893)は、フランスの自然主義の作家だ。その彼が1880年、30歳の時のデビュー作が、「脂肪の塊」という短編小説であり、大喝采を博する。

 その舞台だが、普仏戦争(1870~1871)でプロイセンがノルマンディーを占領する。仕方ないので、フランス人の総勢10人が馬車に乗って非占領地域へ逃げようとする。

 ところが、彼らの道中に邪魔が入る。プロイセンの軍隊に捕まったのだ。それというのも、指揮官が、同行の娼婦に目を付けた。人を介して彼女と話したいというのだが、本人は、断りたいという。

 すると、金持ちや身分を誇る者(そこには、ブルジョアや貴族や聖職者がいた)たちは、圧力をかけて彼女をドイツ士官に差し出そうと動く。ここに「脂肪の塊」とは、ふくよかな娼婦ブール・ド・スイフを指すのであって、自分たちは彼女がどうなろうと関係ないと言わんばかりに。

 そして、彼女は渋々士官と会うのを承諾させられるのだが、軍門に下ることはなかった。それなので、一行は足止めをさせられたままで、解放してもらえない。そこで、彼女を除いた彼らの代表が士官にかけあったところ、思いが遂げられない間は、一行を通さないということなのだとわかる。そこで、彼らは彼女を従わせるべく、作戦を相談する。

 「一同はも城を攻略する覚悟で、入念に包囲攻撃の準備を進めた。めいめい各自の演ずべき役割、拠るべき論法、実行すべき手段を決めた。この生肉のお城を無理やり開門させて、その中に敵を入れるため、攻撃、騙し討ち、奇襲の手順を決めた。」(モーパッサン著、青柳瑞穂訳「脂肪の塊・テリエ館」新潮文庫、1951)

 そして賽(さい)は投げられ、彼女は屈服し、ドイツの士官はその思いを遂げた。物語の結末としては、こうある。

 「ブール・ド・スイフは相変わらず泣いている。そして、時々、抑えきれない啜り泣きが、ふと、歌の合間合間に聞こえてきて、暗闇の中へと流れ去る。」(同)

  犠牲を差し出して危難を脱した後は、今度は「自業自得よ」(同)といってはばからない、人間の狡さ、醜さ、徹底した利己主義などを、読者は思う存分にかどうにかわからないが、味わうことになる。

(続く)

 

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♦️367『自然と人間の歴史・世界篇』天文学(20世紀前半、ハッブルなど)

2018-12-14 19:19:37 | Weblog

367『自然と人間の歴史・世界篇』天文学(20世紀前半、ハッブルなど)

 1915年から16年にかけて、物理学者のアルバート・アインシュタインは、次の重力方程式を世の中に提出する。
 {Rμv-1/2(gμvR)}+Λgμv={(8πG/Cの4乗)Tμv}
ここに左辺の第1項は、時空(時間と空間)のゆがみ具合、第2項は宇宙定数で宇宙が重力で潰れないための押し返す力(斥力)、それらを足したものが右辺の物質が持つエネルギーとなっている。この式で彼は、「相対性」という概念を広げる。重力や加速度が関係する運動にまで適用できる一般式を考えたのだが、この式にいわれる重力理論の基本部分、光の経路が曲がるという予言の正しさを証明したのが、イギリスの天文学者エディントンである。
 1919年の彼は、皆既月食の際の太陽周辺の星の光に注目する。なにしろ太陽は相当に大きいので、その重力によって周囲の時空が歪み、そのため太陽の裏に隠れているはずの星の光がカーブして地球までやってくる筈だと考えたのである。そして、その観測は成功したのであった。
 1919年、アメリカの天文学者エドウィン・ハッブル(1889~1953)は、ウィルソン山天文台にいて、宇宙が膨張していることを発見した。

 まずは、図ろうとする恒星・星雲までの距離を割り出すことになろうが、そのためには、さしあたって年周視差を用いる方法、分光視差を利用する方法、さらにセファイドを用いる方法が考えられよう。

これらのうち分光視差というのは、地球上からその天体を見たときの明るさを見かけの等級と呼ぶ一方、その天体を地球から10パーセクの距離においた時の明るさを絶対等級と表わす。見かけの等級は観測によりわかり、絶対等級は、その恒星のスペクトル型が分ればHR図(ヘルツシュプルング・ラッセル図)から求める。

 またセファイド利用については、明るさが変化する変光星の中でも星自体が膨張と収縮を繰り返することでの脈動変光星のうち、その変光周期と絶対等級との間に正比例の関係があるものをセファイド、またはケフェウス型変光星という。

 そこで、図ろうとする星団や銀河の内部のセファイドの変光周期が分れば、周期光度関係をたどって絶対等級を割りだす。そして得られた絶対等級を見かけの等級を比較することで、その星団や銀河までの距離を出そうとするものだ。

次には、その星団や銀河なりがどう動いているかであるが、「光のドップラー効果」と呼ばれる物理法則によると、移動する物体の発する電磁波の波長では、その物体の後ろ側では長くなる。これを天体観測に使えば、遠ざかる銀河からの可視光の光は波長が最も長い赤に近い方に引き延ばされる。これが「赤方偏移」である。

ここで光の色は波長の短い方から長い方向へ、つまり紫、青、緑、黄、オレンジ、赤の順に変化していく。つまり、近づいてくるものの波長は縮み青っぽく見える、遠ざかるものの波長は伸びて赤くなる。だから、青い光は緑に、緑の光が黄色に変化して見える場合は、その光が観察者から遠ざかっていると考えられる訳なのだ。
 この赤方偏移を用いる接近方法が正しいと考えられる根拠については、彼自身こう述べている。
 「この問題の研究を通して、次のような結論が得られた。赤方偏移を起こさせるいくつかの方法がある。それらの中でただ1つだけが、観測で分かるような他の効果を作らずに、大きな偏移を作ることができる。それはドップラー効果である。これは、赤方偏移は銀河が実際に後退していることに帰する。赤方偏移は速度によるものであるとかなりの信頼性を持って言える。さもなくば、今まで未知の物理法則を考え出さねばならない。(中略)
 しかし、銀河の赤方偏移は非常に大きなスケールにおけるものであり、私たちが今までに、ほとんど経験していないものである。必要な研究は困難と不確実性につきまとわれており、現在つかえるデータからの結論はかなり疑わしい。
 赤方偏移の解釈は、少なくとも部分的には実験的な研究の範疇(はんちゅう)にある事実をここに強調しておきたい。望遠鏡の能力をまだ使い切ってはいないので、赤方偏移が実際に運動を反映しているのかどうかがわかるまで、結論を先に延ばしてもいいと思う。」(エドウィン・ハッブル「銀河の世界」岩波文庫、1999)
 ともあれ、ここまでは1914年のアメリカの天文学者スライファーによる「光波のドップラー効果による赤方偏位」の観測により、私たちの銀河系の外にある銀河から届く光の観察で、秒速1000キロメートルで後退している銀河が発見されていた。
 その際のハッブルは、このスライファーの発表に着目し、さらに遠くの銀河の光を当時の最新鋭のハッブル望遠鏡で観察を始める。銀河からの光を分光(その光をさまざまな成分に分解すること)していく。

 そのハッブルは、1929年、各々の変光星が属する銀河までの距離を推算する作業を進め、それらのうち24の銀河について、光のドップラー偏移を調べたところ、それらのどれもが赤方偏移を起こしていることを発見した。これはつまり、ハッブルが観測した銀河間の距離、つまり宇宙が膨脹していることを意味している。 

 その際、かかる赤方偏位は、銀河の後退速度によって生じたものではなく、光が天体を発した時の宇宙の大きさと、その光が地球に到達したときの宇宙の大きさとの違いのために生じたものだと考えられている。もっとも、個々の銀河の大きさはこれによっても変わらない、銀河の中の恒星と恒星の間の距離が広がっているということでもない。広がっているのは、重力が及ぶ範囲の天体間の距離ではなく、あくまで、それらを包摂した、より遠くにある「銀河」と別の「銀河」との距離なのである。
 そればかりではない。ハッブルは、18個の銀河までの距離と、それらの銀河が地球から遠ざかる速度(「後退速度」と呼ぶ)の定量的な関係式、「1メガパーセク(326万光年)離れた銀河は秒速530キロメートルで遠ざかっている」(この値は、今は秒速71キロメートルと言われている)のを探し当てた。
 この作業のときハッブルが着目したのがセファイド変光星であって、前述したのをもう一度言い直すと、この変光星は、その絶対光度と変更周期との間に特定の関係、すなわち周期が長いほど絶対光度が大きくなることが、1910年代までにはわかっていた。そこで、その変光星の変光周期を観測して絶対光度を求め、割り出したその値を見かけの明るさ(これは地球からの距離に比例するのであるが)と比較することにより、目的とする変光星までの距離を割り出すことができるのだ。
 参考までに、この変光星の割出しについて、ハッブル自身は、こう述懐しているところだ。
 「状況は1885年と1914年の間に急速に進展した。M31渦巻銀河に出現した明るい新星は、距離問題に対する新しい興味をまきおこした。(中略)
 解決は10年後にやってきた。この解決には、その間に完成した巨大望遠鏡、100インチ反射望遠鏡が大きな役割を果たした。いくつかの最も明るい銀河は銀河系の外にあり、天の川銀河の外の空間にある独立した恒星の集団、つまり系外銀河であることが明らかになった。(中略)
 100インチ反射望遠鏡は近傍の銀河を部分的に星に分解した。これらの星の中に、天の川銀河の中にもある、いろいろな型の明るい星と同定されたものがあった。それらの固有の光度は、ある場合は正確に、ある場合には近似的にわかっている。したがって、銀河の中の発見された星の見かけの暗さは、その距離が大きいことを示している。
 最も信頼するに足る距離の値は、セファイド変光星によってもたらされる。しかし、他の星からも距離の桁を決めることができる。それらは、セファイド変光星によるものとほぼ一致していた。最も明るい星の光度は、ある種の銀河でほぼ一定のようなので、銀河の群の平均距離を統計的に決めるのに用いられた。」(エドウィン・ハッブル著、戎崎俊一(えびすざきとしかず)訳「銀河の世界」岩波文庫、1999) 

(続く)

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♦️340の2『自然と人間の歴史・世界篇』光行差の検出(1728)、年周視差の検出(1838~1839)と天動説の崩壊

2018-12-13 21:14:22 | Weblog

340の2『自然と人間の歴史・世界篇』光行差の検出(1728)、年周視差の検出(1838~1839)と天動説の崩壊

 

 さて、地球の公転運動によって天体(星)からの光の到来方向が、地球公転運動速度ベクトル(ある向きと大きさを持ったもの)の方向へずれて観測される。

この天体からの光の地球公転運動速度ベクトルの方向へのずれが、年周光行差(Annual Aberration、角度)である。

 天文学者のジェームズ・ブラッドレー(1693~1762)は、恒星の年周視差を検出しようと観測を続けていた。この年周視差というのは、こうだ。地球は太陽の周りを1年をかけて公転しているが、その回転の半径、つまり地球と太陽の間の平均距離を1天文単位(1au)と呼ぶ。ついては、この地球の公転軸というものを考え、この軸上の恒星を太陽から見たときと太陽から1天文単位離れた地球から見たときに見える角度の差、つまり1年の視差を求めたい。

 それというのも、コペルニクスによる地動説によると、天球上に固定されているはずの恒星の位置に、地球の公転による位置の変化が、みつかる筈であった。つまり、恒星に視差が見つかれば、その証拠となるだろう。

 ところが、その作業の過程での彼は、本来の目的にはなかった年周光行差と地球の章動という、二つの大発見にいたる。こちらの光行差というのは、観測者が移動中の場合、その観測者から見ると、光のやってくる角度が彼の移動方向にずれて見える、その角度のことをいう。

  これを例えると、風のないときの雨は真上から降っているが、観測者が前に進んでいると雨は前方斜めからある角度をもって降り付けてくるので、傘は幾分前倒しにして進まなければならぬ、この雨と観測者の運動になぞらえればよい。なお、章動とは、星が時々刻々と位置を変えることで起こる、より短い周期の変動成分をいう。地球の自転軸は、歳差によって向きを変えつつも、章動によってそのまわりを振動している。

 ブラッドレーは、この結果を、1728年のイギリス王立協会の機関誌「哲学会報」に発表した。その中で、彼がりゅう座ガンマ星からの光と、地球の公転速度との間に、前記の光行差の組み合わせができていた。したがって、地球の公転運動によって生じることから、恒星視差の発見を待たずに、まさに予想外のところから、コペルニクスの地動説が基本的に正しいことがわかった。

 そして迎えた1757年、カトリック教会のベネディクト14世は、地動説を説く書物に関する一般的禁止令を取り消したのであつた。

  これに対して年周視差は、1838年に天文学者フリードリヒ・ウィルヘルム・ペッセルによって発見された。彼が狙いを定めたのは、地球から11.1光年離れたところにある、はくちょう座61番星であった。彼の成功に続き、翌年の1839年には、トーマス・ヘンダーソンが、ケンタウルス座アルファ星について、年周視差の測定を行った。これらにより、それまで地動説に対する反証として、恒星の年周視差が検出できないことが挙げられていたのが、完全に覆ったのは言うまでもない。

 このようにして年周視差がわかると、それを利用して恒星までの距離を割り出すことができる。具体的には、ある恒星の年周視差が例えば1の時、その恒星から太陽までの距離を1パーセクとし、この時、1というのは極めて小さい値ゆえ、その恒星までの距離は1パーセクであるという。

 ところで、1天文単位は1億4900万キロメートルだから1パーセクは約3.26光年であり、いま測ろうとする恒星までの距離は、年周視差に反比例するので、3.26光年を年周視差で割り算したものが求める距離となろう。

(続く)

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♦️339『自然と人間の歴史・世界篇』ドップラー効果(1842)とキルヒホフの法則(1859)の発見

2018-12-13 10:37:07 | Weblog

339『自然と人間の歴史・世界篇』ドップラー効果(1842)とキルヒホフの法則(1859)の発見

 1842年、プラハ大学のドップラー(1803~1853)は、発光体の光源が運動していて、それが静止の場合とどう異なるかの現象を研究していた。

 すると、光源が近づいてくる場合には、光の波長が短い方へずれ、その逆に光源が遠ざかる場合には、波長が長い方へとずれるのを発見した。

 これは音の場合にも当てはまることであり、音源が近づいてくる時には波長が短くなるので音は高くなり、逆にその音が対象を抜け、遠ざかって行く時には波長が長くなって、その分低音になるのだ。これを「ドップラー効果」と呼ぶ。

 この場合、波長のずれの大きさは、視線方向における相対運動の速度で決まってしまう。

 そして、もう一つの発見が登場する。1859年、物理学者のグスタフ・ロバート・キルヒホフ(1824~1887)は、太陽のスペクトルの中に黒い・フラウンホーファーのD線と呼ばれるものと、食塩から出てくるスペクトル・黄色線とが同じものだということを発見した。そうなると、太陽のなかに食塩が存在しているのではないか、ということにもなっていく。

 彼は、これを説明するために黒体概念を導入し、熱力学的な考察を進める。こうした太陽スペクトルの分光学的研究は、キルヒホフの業績以後も続けられていく。そのスペクトルに現れる暗線の分析から、太陽に存在する多くの元素が発見されていく。

 参考までに、1859年にキルヒホフにより、以下の3つの法則が定式化された。

 「1.高温に熱せられた物体は、連続(スペクトル)の光を放射する。

2.高温・低圧の状態にあるガスが放射する光は、周囲より明るいいわゆる輝線スペクトルの光となる。同じ状態にある同一の物質は、同じパターンの線スペクトルの組を常に示す。

3.ガス状になった物質は、その内部を通過する連続スぺクトルの光の中から、ガス自身が放射する輝線と同じ波長の光を吸収する。ガスを通過した白色光は、ガスの輝線スペクトルが反転した、吸収スペクトルを常に示す。」(桜井邦明「天文学史」朝倉書店、1990)

 1868年8月の日食時には、太陽大気中に存在する「プロミネンス」といって太陽辺縁部にみられる、炎がリング状に盛り上がる現象が、初めて観測された。背景には、この間の写真技術の発達があったと。そして、それらのプロミネンスの主成分が水素であることも明らかにされた。

また、この時、黄色の波長領域において、別の輝線が見つかる、こちらは太陽を示す特別の正体不明の元素があるということになり、太陽を表わすギリシア名からとって「ヘリウム」と名付けられる。このヘリウムなる元素は、後に地上にもあること発見される。

 

(続く)

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♦️677『自然と人間の歴史・世界篇』アポロ計画の行方(1970~2003)

2018-12-12 09:03:10 | Weblog

677『自然と人間の歴史・世界篇』アポロ計画の行方(1970~2003)

 

 1970年4月には、アポロ13号の事故があった。この事故は、地上スタッフのミスが原因で発生した事故だという。機械船の設計段階で、一箇所配線ミスを行い、それがショートした。これによって火花が発生し、燃料タンクの酸素に引火して爆発したというのだ。この時は、地上との連絡がうまく働き、突然の危機を脱し、無事に帰還を果たす。

 これを契機に、大統領顧問団の一部は、ニクソン大統領にアポロ計画月の中止を求めるにいたる。予算を審議する夏の議会があり、7月末にNASA予算は僅差で議会を通過した。その翌日NASA長官が辞任しての8月末、後継の長官は、続いて予定されていた18号・19号のミッションを中止したという。

  続いての1986年1月28日、チャレンジャー号の打ち上げで大きな事故が起こった。その原因は、明らかだという。右側の固体燃料補助ロケット(SRB: Solid Rocket Booster)の継ぎ目から固体燃料を燃焼した高温ガスが噴き出した。これにより、その燃焼ガスで固体燃料補助ロケットを外部タンクに留めていた金具が破損した。そして、固体燃料補助ロケットが外部タンクに衝突し、そのタンクが爆発したのだという。これにより、上昇中だったチャレンジャー号は空中分解し、搭乗員7名全員が死亡した。

 そして迎えた2003年2月1日、28回目の打ち上げの日のことであった。スペースシャトルコロンビア号は、テキサス州とルイジアナ州の上空で大気圏に再突入している間に崩壊し、7名の乗組員全員が死亡する。

 原因としては、打ち上げ時の衝撃で外部タンク表面からブリーフケース大の発砲断熱材の破片が剥離したことで起こる。その破片が左の主翼にぶつかり、シャトルの熱防護システムを壊した。したがって、再突入の際には、大きな危険を伴うことが分っていたという。

 

(続く)

 

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♦️676『自然と人間の歴史・世界篇』アポロ計画・月面着陸(1969)

2018-12-11 21:39:32 | Weblog

676『自然と人間の歴史・世界篇』アポロ計画・月面着陸(1969)

 

 想いおこせば、半世紀近く前にさかのぼる。アメリカのアポロ11号は、1969年7月16日にケープケネディ基地から打ち上げられた。

 乗組員は、ニール・アームストロング船長、バズ・オルドリン月着陸船操縦士、マイケル・コリンズ司令船操縦士の3名。

 打ち上げ後、まずは地球をまわる。それから地球を離れて月へ向かう。打ち上げから3日半後に、月の周回軌道に到達する。

 7月20日、司令船「コロンビア」から月着陸船「イーグル」が分離され、月面に向かう。アームストロング船長とオルドリン操縦士が乗っており、無事月面に軟着陸した。

アームストロング船長が、こう言った。

「Houston, Tranquility Base here. The Eagle has landed.」

(ヒューストン、こちら、静かの海基地。イーグルは舞い降りた)

 軟着陸から6時間半後、アームストロング船長が、9段のハシゴを下って、月面に降り立つ。その時、彼はこう言った。

「That’s one small step for man, one giant leap for mankind.」

(これは、一人の人間にとっては小さな一歩だが、人類にとっては偉大な飛躍である)

 おそらく、人類史に残るのを意識してのことであったろう。その後2時間半で、彼らは科学実験装置の設置、土壌サンプル、岩のサンプルなどを採集して容器に収める作業を行う。着陸船の中に戻って、7時間の睡眠をとる。

 目が覚めた後、離陸準備を開始して、月面を離陸し、宇宙船とのドッキングを成功させて、7月24日、地球に無事帰還する。

 この間、技術的トラブルはあったようだが、大事には至らなかったという。飛行時間は、合せて195時間18分35秒であったという。

 

(続く)

 

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○○152『自然と人間の歴史・日本篇』江戸初期~中期の文化、貝原益軒)

2018-12-10 20:48:31 | Weblog

○152『自然と人間の歴史・日本篇』江戸初期~中期の文化、貝原益軒)

 貝原益軒(1630~1714)は、医者、儒学者にして本草学の大家、等々の色々な肩書をもつ。長じては、福岡藩の藩士を務めたりしていたが、出世コースはたどらなかった。だから、要職を務めることはなかったし、よくある政争の渦に巻き込まれることもなかったようなのだ。そして、そのことが彼の元来の人生哲学には、随分と似合っていたのではないか。何事も、各人に無理のない状態でなんとかうまくやれそうなら、それに越したことはあるまい。彼は、84歳の時世に出した「養生訓」にて、こういう。

 「もし久しく安坐し、また、食後に穏坐し、ひるいね、食気いまだ消化せざるに、早くふしねぶれば、滞りて病を生じ、久しきをつめば、元気発生せずして、よはくなる。常に元気をへらすことをおしみて、言語を少なくし、七情をよきほどにし、七情の内にて取わき、いかり、かなしみ、うれひ思ひを少なくすべし。慾をおさえ、心を平にし、気を和(やわらか)にしてあらくせず、しづかにしてさはがしからず、心はつねに和楽なるべし。

 憂ひ苦むべからず。これ皆、内慾をこらえて元気を養ふ道也。また、風・寒・暑・湿の外邪をふせぎてやぶられず。この内外の数(あまた)の慎は、養生の大なる条目なり。これをよく慎しみ守るべし。」

 ところが、そこは生身の人間だ。だからこそ、実際に毎日を過ごしているうち、難題がふりかかることがあろう。中には、どうしていいかわからない、そんな逆境の時には、人は何を「灯台」となすべきか。そこが定まっていれば、不安にもたじろぐばかりではなくなろう。

 そんなことを現代人につらつら考えさせてくれる貝原なのだが、彼には儒学者としての誇りというか、少し気難しい部分も持ち合わせていたのではないか。そんな憶測を呼ぶのが、例えば、芥川によるこんな批評なのではないか。

 「わたしはやはり小学時代に貝原益軒の逸事を学んだ。益軒はかつて乗合船の中に一人の書生と一緒になった。書生は才力に誇っていたと見え、滔々と古今の学芸を論じた。が、益軒は一言も加えず、静かに傾聴するばかりだった。その内に船は岸に泊した。船中の客は別れるのに臨んで姓名を告げるのを例としていた。書生は始めて益軒を知り、この一代の大儒の前に忸怩(じくじ)として先刻の無礼を謝した。――こう云う逸事を学んだのである。

 当時のわたしはこの逸事の中に謙譲の美徳を発見した。少くとも発見する為に努力したことは事実である。しかし今は不幸にも寸毫の教訓さえ発見出来ない。この逸事の今のわたしにも多少の興味を与えるは、わずかに下のように考えるからである。

 一 無言に終始した益軒の侮蔑は如何に辛辣を極めていたか
 二 書生の恥じるのをよろこんだ同船の客の喝采は如何に俗悪を極めていたか
 三 益軒の知らぬ新時代の精神は年少の書生の放論の中にも如何にはつらつと鼓動していたか」(芥川龍之介「侏儒の言葉」)

 もちろん、芥川がこう言ったからとて、貝原が「はい、あの時は行き届きませんでした、あの時の若者に申し訳ないことをした」とでも弁明するのかといったら、おそらくはそうしないだろう。儒学にも、かの孔子をはじめとする聖人の言行録についての解釈や何かに幅があるのではないだろうか。だとしたら、貝原は彼のやり方でその若者に接した。そんな彼自身もやはり、その時代の支配的な精神に大きく影響されていたと考えるのが、自然な解釈なのではないだろうか。

(続く)

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♦️130の5『自然と人間の歴史・世界篇』宋の都・開封の賑わい

2018-12-10 18:21:03 | Weblog

130の5『自然と人間の歴史・世界篇』宋の都・開封の賑わい

 

 世に有名な「清明上河図(せいめいじょうがず)」とは、いったいどんな絵なのであろうか、興味をそそられる。それは、宋の徽宗の在位(1100~1125)末期の、繁栄する首都・開封(かいほう)の景観を今日に伝える。全長が5メートルにも及ぶ画巻といって巻物の体をなす。作者は、諸説があって、定かではないという説もあるらしい。

 その特徴としては、何しろ700人とも800人とも推定されるという、大勢の当時の人々を精緻に活写していることであろうか。その中でも圧巻だとされるのが、べん河に渡された「虹橋(こうきょう)」の近辺であって、極めつけの賑わいを示す。その橋だが、開封の中心街ではなく、近郊の小都市にあったという。そこを中心においた、春たけなわの清明節(二四節気のひとつ、太陰暦の三月)での一コマを描いたとのことだ。当時の金を追われ江南の地に逃れた市井の人・孟元老(もうげんろう)の観察眼をもって、こう紹介されている。

 「東水門の外、七里のところにある橋を虹橋という。その橋には、橋桁がなく、すべて巨大な木材をつかってアーチ型に渡してあり、あかいペンキで飾りたてているところは、ちょうど橋にかかった虹のようである。」(孟元老「東京夢華録」、邦訳は岡晴夫責任編集、陳舜臣監修「中国歴史紀行第四巻」学習研究社、1998より引用) 

  なお、金に追われて南に逃れた南宋の首都・杭州(こうしゅう、現在の浙江省)も、ここに紹介した開封に比べてよりいっそうの繁栄ぶりであったとも伝えられていて、開封の人口が当時「70~80万から100万」(同)と推定されていたのに対し、後者の13世紀になってからの人口は、一説には「100~150万」(同)とも推定されているところだ。

 

(続く)

 

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♦️130の2『自然と人間の歴史・世界篇』北宋(神宗・王安石の改革)

2018-12-10 10:04:43 | Weblog

130の2『自然と人間の歴史・世界篇』北宋(神宗・王安石の改革)

 六代目の皇帝の神宗(在位は1067~1085)は、野心家であるとともに、ち密な頭脳の持ち主であったらしい。これらを鎮める策をとることで、王権を強め、もって国を安定させたいと思った。鋭気のある王安石(1021~1086)を登用して国政改革にあたらせた。
 王は神宗の政治顧問となり、制置三司条例司を設置して事に当たる。一連の政治は「王安石の新法」などと呼ばれ、方策は多岐に渡る。
 その1は、「青苗法(せいびょうほう)」といって、春の植え付け時期に政府が資金を農民に貸し出し、秋の収穫期に利子を付けて返還させる貸付制度である。これの趣旨は、富農地主からの高利の借金に苦しむ自営農民に対し、政府が何某かの援助をしようと考えたのであろう。

 その2は、「均輸法(きんゆほう)」であろう。こちらは、政府が必要物資を調達するのに、農民の生産する物資を都に運ぶ際、その地で価の安いときに買い入れ、値の高いときに売ることを約させた。これだと、御用商人などによる中間利得を排し、その流通を合理化することができるだろうと。

 その3は、「募役法(ぼえきほう)」とは、農民に労役免除の免役銭を納めさせ、それをもとに労役(差役)に従事するものを募集した。それまでの国家は、人民に対し苦しい負担を無償で課す、つまり、様々な労働奉仕を強いていたのを改める。今日でいうところの、ある種の「失業対策事業」にもなったのではないか。併せて従来、免役特権を持っていたや寺院などからも相応の金銭を徴収する道を開き、その財源をもって人民救済の事業を行う。

 4つ目としての「市易法(しえきほう)」は、政府が中小商人に資金を貸し付け、物を買わせ、値が上がったときに売り出させて、中小商人を保護するとともに物価の安定と流通の円滑化を促そうとした。これによって、暴利をむさぼる大商人などの市場独占を抑えようとした。

 その5としては、「方田均税法(ほうでんきんぜいほう)」ということで、正確な土地台帳をつくって課税の公正化を進めていく。貴族や大商人ら大土地所有者たちが行っていた大領の隠し田を摘発し、その脱税分を国庫に納めさせることを狙った。

ほかにもあって、その6としての「保甲法(ほこうほう)」は、その時々での傭兵をやめ、民兵による軍事力の編成を試みた。日頃はかれらを治安維持にあたらせ、農閑期には軍事教練を行う。7番目に「保馬法(ほばほう)」というのもあって、保丁に対し、政府が馬を貸し与え、平時には農耕馬として飼育させ、戦時には軍馬として調達する仕組みであった。
 これらを、大まかに、農民や坑戸・畦戸などの保護と、大商人・大地主と霧それにかかわる貴族らの抑制を目的とした施策の二つにまとめられる。一言でなぞらえるなら、「富国強兵」というところであろうか。したがって、人民にとっては、負担が軽くなる分と、それが重く厳しくなる分との両方があったであろう。

 何よりも、富裕階層(士大夫)とその出身である官僚(旧法派)からの、激しい妨害を受ける。察するに、彼らには、このままでは既得権益を根こそぎとられる、との危機感も手伝ったことであろう。

 概して、人びとはかれの志の高いことを評価せず、「天変畏(おそ)るるに足らず、祖宗法(のっ)とるに足らず、人言恤(うれ)うるに足らず」と非難したという。王安石とそのグループが粉骨砕身するも、改革の成果はなかなか上がらない。そのうちに、頼みの神宗が改革の志半ばで若死にする、また商人たちが貧民救済の政策の逆手をとって自らの利益を増やすなども台頭してくる。あれやこれやの行き詰まりのうちに、さしもの改革の勢いは弱まっていくのであった。

(続く)

 

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♦️130の1『自然と人間の歴史・世界篇』北宋(建国など)

2018-12-09 18:57:52 | Weblog

130の1『自然と人間の歴史・世界篇』北宋(建国など)

 中国での北宋(ほくそう、中国読みはペイソン、960~1127)の建国は、戦いによるものではなかった。いわゆる「五大十六国」時代に属する後周(こうしゅう、中国読みでホウヂョウ、951~960)では、気鋭の君主・世宗が若くして病没した。あとを継いだのは、幼少の皇帝であったから、国の先行きが危ぶまれたという。

 そんな中、殿前都点検(近衛軍長官)であった趙匡胤(ちょうきょういん)が、その皇帝から禅譲(ぜんじょう)を受けて建国した。部下から絶大な信頼を得ていたことがあって、北からの遊牧民勢力による脅威などに抗するには、この人物しかいないということであったらしい。

 その彼は太祖(976~997)となって、着々と国造りを進めていった。温厚かつ寛容な性格があって、国内はまとまっていく。965年、後蜀を併合する。971年には、

南漢を併合する。975年、金陵(南京)を攻略し、江南を領有する。そんな太祖が志半ばで急死した後、弟の趙匡義(ちょうこくぎ、後の太宗・趙光義)が跡を継いで、979年にようやく中国の統一を果たした。

 かれの時代、地方軍閥の解体を進め、中央集権を進め、また、文治政治を進め強固なものとしていく。中でも、民政の安定と科挙制度の充実を図るのを急務としていたが、なかなかできなかったようである。
 1004年には、北方の遼(りょう、モンゴル系の契丹(きったん)が建国)が南下したが、真宗は遼に対して毎年財貨を贈ることで和睦した。具体的には、国境の現状維持と不戦、それに宋が遼を弟とすること、さらに宋から遼(りょう、中国読みでリャオ、907~1125)に対し毎年絹200万匹、銀10万両を送ることなどが約束された。これを「?淵の盟」(せんえんのめい)という。

 1044年、西の西夏(せいか、中国読みでシーシア、1032~1227、チベット系系のタングート族が建国)が宋に対し、これも財貨を贈ることで和睦(わぼく)した。これを「慶暦の和約」(けいれきのわやく)と呼ぶ。以後、国政を整えるために、中央集権を目指すようになっていく。建国当初から、大商人・大地主の囲い込みや脱税そして役人の汚職が目立ってきていた。

 

(続く)

 

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