○236の3『自然と人間の歴史・日本篇』海外の目に晒されて2(1750~1849、日本地図など、伊能忠敬と高橋至時)など

2018-12-05 10:00:31 | Weblog

236の3『自然と人間の歴史・日本篇』海外の目に晒されて2(1750~1849、日本地図など、伊能忠敬と高橋至時)など


 伊能忠敬(いのうただたか、1745~1818)は、現在の千葉県の九十九里町に生まれる。裕福な家ではなかったらしく、17歳の時に佐原(さわら)の、酒造を営む伊能家の婿養子となる。それからは商売の道に分け入り、本業の酒造業以外にも、薪問屋を江戸に設け、また米穀取引の仲買をしていた。

その約10年後には、当初傾いていた経営を立て直したのだという。その心構えといい、商才といい、当初から秀でていたのであろう。
 それからだが、ただに商売に邁進していったのではなくて、36歳で名主となり、1783年、38歳の時の天明の大飢饉では、私財の一部をなげうって米や金銭を分け与えるなど地域の窮民の救済に尽力したのだという。
 その忠敬だが、いつからか暦学に興味をもって、勉強していたらしい。それが高じてか、1795年、50歳になったのを機会に家業を譲り、江戸へと出て行く。当時の天文学の第一人者、高橋至時(たかはしよしとき、1764~1804)の門をたたく。

当時の浅草には、星を観測して暦(こよみ)を作る幕府の天文方暦局があった。至時は、そこで改暦作業などに携わっていたとのこと。この師に相まみえて、以後彼の天文学は日々の実践で鍛えられていくことになる。
 そんな中の1797年、至時と同僚の間重富は新たな暦(寛政暦)を完成させるも、地球の正確な大きさが分からず、つくりたての暦の精度に不満足だったという。地球は丸い、そこで子午線1度の長さをこの国で測ることができれば、それを360倍することで地球の一周、さらに直径がわかるというのだが、それをどのようにして測るのかが問われていた。すでに学識が一流の域に達していた忠敬は、この話を至時から聞き、できるだけ離れた2つの地点で北極星の高さを観測し、それで得られる二つの見上げる角度を比較することで緯度の差を割り出し、2地点の距離が分かれば地球は球体なので外周が割り出せるという提案をなし、自分はこれをやってみたいと申し出る、至時は忠敬の案に賛同するにいたる。
 至時がまだ若くして病で倒れた後には、忠敬はこの仕事に邁進していく。幕府の天文方に取り立てられてからは、なお一層励み、この組織の中心となって働く。

参考までに、この仕事に用いられたのは、量程車(至時考案のもので、引いて歩いて使う、歯車の回転数で巨利を割り出せる・国宝)、半円方位盤(中央に据えられた磁石と半円の目盛りで方位を読む、国宝)、象限儀(中)(北極星などの高度を観測し、緯度の測定に用いる・国宝)、わんか羅鍼(らしん)(杖先(じょうさき)方位盤、磁石面を水平に保ち、方位や角度を測る、国宝)、測食定分儀(日食、月食の進み具合を目盛りで読む、国宝)といった測量器具であった。
 1800年(寛政12年)から1816年(文化13年)まで、足かけ17年をかけて、仲間とともに全国を歩き回って測量し、後に完成の『大日本沿海輿地全図』の大方を取りまとめ、日本の国土の正確な姿を初めて明らかにする。

そんな忠敬の墓標には、「測量の命が下る毎に、すなわち喜び顔色にあわらし、不日にして発す」云々と刻まれる。また、晩年の彼が娘に宛てた手紙においては「古今これ無き、日本国中に測量御用仰せ付けられ(中略)これぞ天命といわんか(中略)」とあり、本懐を遂げたというのは、誠にこのことをいうのであろうか。
 時はさらに経過しての1842年(文政13年)になって、異国船打払令(無二念打払令)が改訂された。それまでの異国船打払令(無二念打払令)を緩和して、文化期の「撫恤令」の水準に戻し、薪水の供給をすることになった。これには、アヘン戦争などで、清国が西洋列強の餌食にされたことが背景にある。

(続く)

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♦️310の2『自然と人間の歴史・世界篇』イギリスの穀物法(1815~1846)と航海法(1651~1849)

2018-12-04 20:26:20 | Weblog

310の2『自然と人間の歴史・世界篇』イギリスの穀物法(1815~1846)と航海法(1651~1849)

  イギリスの穀物法は、ナポレオンの大陸封鎖で食糧輸入が厳しくなったこと、凶作とも相まって、穀物価格が高騰することがあって制定された。とはいえ、これの施行にあっては、地主階級と新興の者を含む農業資本家と、都市を中心とする新興ブルジョア階級との対立があった。

 おりしも、イギリスの勝利で終わった対ナポレオン戦争が1815年に終了すると、以前のように外国の安い穀物が輸入されれば、食糧価格は低落し、それまでの旺盛な投資の付けがまわってくるに違いなく、苦境を免れないと考えたことだろう。そこで政府に持ち掛け、穀物輸入を厳しく制限し、穀物価格を高めに維持しようともくろむ。そのことで、地主有利の状況をつくり、維持しようというのであった。

 しかし、その運用状況の推移を見ると、かえって高い食糧費のために労働者の賃金が高くつくことになったと、産業革命以来の新興ブルジョアたちの非難の的になっていく。また、労働者の運動も、穀物法に反対の旗印を鮮明にしていくのであった。

  そのうち、19世紀の半ばに差し掛かる頃には、資本主義の力というものが、この分野にもますます浸透してくる。勢い、世論は穀物法に厳しめに傾いていく。そして、ついに廃止にいたる。後年、フリードリヒ・エンゲルスは、こう論評している。 

 「穀物輸入の自由化」を要求する声はがぜん燃え広がり、反穀物法同盟はここぞとばかりにその即時実施を政府に迫った。こうしたなかでピール首相は45年10月、穀物法廃止を決断、廃止法案は翌46年6月には上院をも突破して、穀物法はここについに撤廃されるに至ったのであった。
 そして、若干の経過措置の後、イギリスの穀物輸入は49年以降は名目的な関税が課せられるのみとなり、またこれと並行して1150品目の関税も廃止ないし引き下げられた。さらに穀物法とともに重商主義の二本柱であった航海法もまた49年に廃止された。こうして穀物法の撤廃を契機に、イギリスは自由貿易体制へと移行した。

 かくして、マルサス・リカード論争以来の穀物法をめぐる産業ブルジョアジーと地主階級との熾烈な闘いは産業ブルジョアジーの勝利をもって終わった。そして、それは「ただ単に土地貴族に対する工業資本家の勝利であったばかりでなく、資本家のなかで、多かれ少なかれ地主勢力と利害の点で結びついていた部分、すなわち銀行家、証券仲買人、公債保有者に対する勝利でもあった」(エンゲルス『一八四五年と一八八五年のイギリス』、大月書店刊「マルクス・エンゲルス全集」第21巻)

 

(続く)

 

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♦️279の1『自然と人間の歴史・世界篇』フランスの内乱(「ブリュメール18日」(1799)など)

2018-12-04 19:04:58 | Weblog

2791『自然と人間の歴史・世界篇』フランスの内乱(「ブリュメール18日」(1799)など)

 1799年11月9日(フランス革命暦における月日であることから、「ブリュメール18日」と言い習わす)の軍事クーデターで統領(執政)政府が成立する。その後、ナポレオン・ボナパルトが総裁政府を倒し、彼は執政政府の第一執政となって権力を奮う。その後しばらくは、日の出の勢いであった。
 1804年、ナポレオン法典がつくられる。同年5月には、ナポレオンが皇帝となり、ナポレオン1世と名乗る。ナポレオンは、1805年に結ばれた第三次対仏大同盟への対抗策として、イギリスへの上陸を画策するも、トラファルガー沖でフランス・スペイン連合艦隊がネルソン率いるイギリス艦隊に敗れ、夢ついえた。

 1806年11月、その彼が、イギリスとの貿易を禁止する「大陸封鎖令」を発し、周辺国に圧力をかける。その余勢をかりて1812年にはロシアの遠征を敢行するも、モスクワ占領中の「冬将軍」に苦しみ、やがて敗退する。
 1813年の3月20日から6月29日にかけて、そのナポレオンの「百日天下」がある。しかし、1814年になってからナポレオン1世は退位し、エルバ島に流される。1814年5月には、ルイ・ナポレオンがルイ18世として即位し王制を復活させる。す彼は、ルイ16世の弟で、ヴァレンヌ逃亡事件(1791年6月)と同時に国外へ逃亡していた。それが、ナポレオン1世の没落を幸いに帰国して王位についたという意味で、「第二帝政」とか「ブルボン復古王朝」と呼ばれ、1830年の七月革命の民衆蜂起まで続く。
 それでも、ナポレオン1世はエルバ島を脱出し、勢力を盛り返す。そして迎えた1815年6月、彼の率いるフランス軍はワーテルロー(当時はオランダ、現在はベルギーにある)の戦いで敗北を喫す。ここに、当時のヨーロッパ列強の第六次対仏大同盟がナポレオン1世を破って第一帝政が名実ともに終わる。
 これに至る一連のフランスの「ドタバタ」な動きにつき、マルクスはこう述べる。
 「ヘーゲルがどこかで述べている、すべての世界史的な事件や人物は二度あらわれるものだということを。一度目は悲劇として、二度目は茶番(ファルス)として、かれはそう付け加えるのを忘れている。
 ダントンに代ってコーシディエールが、ロベスピエールに代ってルイ・ブランが、1793年から1795年の山岳党に代って1848年から1851年の山岳党が、伯父のナポレオンに代って甥のナポレオンが現われた。そして二度目の「ブリュメール18日」が行なわれた時、まさにこの茶番劇が演じられた。
 人間は自分の歴史を作るが、自由に作るのではなく、目の前にある与えられた条件、過去とつながりのある条件のもとで作る。その条件は自分では選べない。いま生きている人間の頭には、過去の死せる世代の伝統が悪夢のように重くのしかかっている。
 だから、自己と社会を変革しようとする時や、これまで存在しなかったものを作り出そうとする時など、まさに革命の危機の只中においてさえ、人は過去の亡霊を呼び寄せ、彼らの名前とスローガンと衣装を借用し、歴史の権威ある服装に着替え、借り物のせりふを使い、新しい世界史の場面を演じようとする。」(カール・マルクス『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』)
 ナポレオン1世の退場によって息を吹き返した形のルイ18世の治世であったが、人民には冷たかった。厳しい制限による差別選挙に基づく立憲君主制を敷くのであった。1824年のルイ18世の死後、過激王党派の中心人物であったアルトワ伯がシャルル10世して即位し、尚更強権政治に動いていく。
 そのシャルル10世だが、亡命貴族を優遇し、反動政治を推し進め、1825年には「10億フラン年金法」を制定し、革命中に土地・財産を没収された亡命貴族に多額の補償金を支出する。1827年11月には議会を解散して総選挙を行う。その結果、自由主義派(反政府派)が勝利をおさめる。これに不満なシャルル10世が、過激王党派の指導者ポリニャックを首相に任命したことから、国王と議会の対立が深まっていく。
 1830年5月には、シャルル10世は再び議会を解散したが、7月の選挙では自由主義派(反政府派)がさらに増加するのであった。

(続く)

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♦️408『自然と人間の歴史・世界篇』第二次世界大戦(アジア戦線、日米開戦、1941.12.7日本のハワイ真珠湾攻撃~)

2018-12-04 09:05:29 | Weblog

408『自然と人間の歴史・世界篇』第二次世界大戦(アジア戦線、日米開戦、1941.12.7日本のハワイ真珠湾攻撃~)

 

 1941年12月7日の日本の真珠湾攻撃で、日米の開戦となった。奇襲攻撃であったため、アメリカ軍基地は大きな損害を被った。4千人以上の将兵が海に沈んだという。

 これを受けてアメリカ大統領ルーズベルトは、翌日議会などに向け、対日宣戦布告を求める演説を行う。そこには、アメリカの正当性がこう主張されていた。

 「Indeed, one hour after Japanese air squadrons had commenced bombing in the American island of Oahu, the Japanese ambassador to the United States and his colleague delivered to our Secretary of State a formal reply to a recent American message. 

更に言えば日本の空軍部隊がアメリカ領土のオアフ島に爆撃を開始した一時間後、日本の駐米大使がその同僚を伴ってアメリカの最近の提案に対する公式返答を我が国の国務長官に手渡したのです。

And while this reply stated that it seemed useless to continue the existing diplomatic negotiations, it contained no threat or hint of war or of armed attack. 

 そして、その返答はこれ以上の外交交渉の継続を無意味なものと思わせるように思わせる内容が述べられてはいましたが、軍事攻撃による戦争への警告も示唆も含まれてはいませんでした。」

   果たして、アメリカはかかる攻撃のあることを事前に知っていたのだろうか。これについては、現在に至るまでアメリカで諸見解があり、決着はついていないようだ。例えば、こうある。

 「日本の文書が何を意味するかを知りながら、ルーズベルトは戦争が起こることを部下に告げたり、部下をたたき起こして次に日本から届くメッセージの暗号解読文の内容を調べさせたりすることをためらった。そして、翌朝10時の会議まで保留にしたのである。」(ヘンリー・クラウゼン著、ブルース・リー著、鈴木主税訳「真珠湾、最期の真実」飛鳥新社、1992)

 

 (続く)


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♦️415の3『自然と人間の歴史・世界篇』テヘラン会談(1943.11.28~12.1)

2018-12-03 21:37:47 | Weblog

415の3『自然と人間の歴史・世界篇』テヘラン会談(1943.11.28~12.1)

 テヘラン会談(1943年11月28日~12月1日)は、カイロ会談の続きのようなものであった。アメリカのルーズベルト大統領、イギリスのチャーチル首相、ソ連のスターリン首相のほか、関係者が参加した。

 この会談での焦点は、連合国側の作戦の調整であった。一つ目は、ソ連の日本への参戦であり、スターリンは公式に承諾した。そして二つ目は、連合国側の作戦の調整であったが、ノルマンディー上陸作戦もこの会談で了承された。さらに、戦後の平和的枠組みについても話し合われたという。ただし、公式な話し合いの中身が明らかになっていない中、その全貌はわかりにくい。

 この会談では、スターリンが望んでいた、フランスの北岸からの上陸作戦が決定された。実際の作戦は1944年6月6日にずれ込むことになるのだが、この決定によってチャーチルが主張していたバルカン半島を経由してのベルリン進攻計画は消えた。

 概して、この時点でルーズベルトとスターリンとの間には、これといった意見の不一致は伝わっていない。

 

(続く)

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♦️415の2『自然と人間の歴史・世界篇』カイロ会談・カイロ宣言(1943.11.22~11.26)

2018-12-03 21:36:54 | Weblog

4152『自然と人間の歴史・世界篇』カイロ会談・カイロ宣言(1943.11.22~11.26)

 1943年11月22日から26日にかけては、カイロ会談が持たれた。これは、テヘランでの米英ソの3巨頭会談に先立ち、エジプトのカイロにおいて、アメリカのルーズベルト大統領とイギリスのチャーチル首相が協議した者であり、それに中国の蒋介石が加わった。そして12月1日には、次に紹介の「カイロ宣言」(Cairo ConferenceReleased December 1, 1943)が公開された。
 (英文)
 President Roosevelt, Generalissimo Chiang Kai-shek and Prime Minister Churchill, together with their respective military and diplomatic advisers, have completed a conference in North Africa.
The following general statement was issued:
"The several military missions have agreed upon future military operations against Japan. The Three Great Allies expressed their resolve to bring unrelenting pressure against their brutal enemies by sea, land, and air. This pressure is already rising.
"The Three Great Allies are fighting this war to restrain and punish the aggression of Japan. They covet no gain for themselves and have no thought of territorial expansion.
It is their purpose that Japan shall be stripped of all the islands in the Pacific which she has seized or occupied since the beginning of the first World War in 1914, and that all the territories Japan has stolen from the Chinese, such as Manchuria, Formosa, and The Pescadores, shall be restored to the Republic of China.
Japan will also be expelled from all other territories which she has taken by violence and greed. The aforesaid three great powers, mindful of the enslavement of the people of Korea, are determined that in due course Korea shall become free and independent.
"With these objects in view the three Allies, in harmony with those of the United Nations at war with Japan, will continue to persevere in the serious and prolonged operations necessary to procure the unconditional surrender of Japan."
 (日本語訳(抜粋))
 「ローズヴェルト」大統領、蒋介石大元帥及「チャーチル」総理大臣ハ、各自ノ軍事及外交顧問ト共ニ北「アフリカ」ニ於テ会議ヲ終了シ左ノ一般的声明ヲ発セラレタリ。
 各軍事使節ハ日本国ニ対スル将来ノ軍事行動ヲ協定セリ。
 三大同盟国ハ海路陸路及空路ニ依リ其ノ野蛮ナル敵国ニ対シ仮借ナキ弾圧ヲ加フルノ決意ヲ表明セリ右弾圧ハ既ニ増大シツツアリ。
 三大同盟国ハ日本国ノ侵略ヲ制止シ且之ヲ罰スル為今次ノ戦争ヲ為シツツアルモノナリ右同盟国ハ自国ノ為ニ何等ノ利得ヲモ欲求スルモノニ非ス又領土拡張ノ何等ノ念ヲモ有スルモノニ非ス。
 右同盟国ノ目的ハ日本国ヨリ千九百十四年ノ第一次世界戦争ノ開始以後ニ於テ日本国カ奪取シ又ハ占領シタル太平洋ニ於ケル一切ノ島嶼ヲ剥奪スルコト並ニ満洲、台湾及澎湖島ノ如キ日本国カ清国人ヨリ盗取シタル一切ノ地域ヲ中華民国ニ返還スルコトニ在リ。
 日本国ハ又暴力及貪慾ニ依リ日本国ノ略取シタル他ノ一切ノ地域ヨリ駆逐セラルヘシ。
 前記三大国ハ朝鮮ノ人民ノ奴隷状態ニ留意シ軈テ朝鮮ヲ自由且独立ノモノタラシムルノ決意ヲ有ス。
右ノ目的ヲ以テ右三同盟国ハ同盟諸国中日本国ト交戦中ナル諸国ト協調シ日本国ノ無条件降伏ヲ齎スニ必要ナル重大且長期ノ行動ヲ続行スヘシ。」(「日本外交年表並主要文書」下巻、外務省編(1966)の抜粋版から転載)
 これに述べられている日本の違法とされる領有地域なりのうちには、当時の国際通念からして日本が統治するなりしていた地域を含んでいる。具体的には、それらに該当する旧中国領の返還、朝鮮の独立そして南洋諸島の剥奪が含まれる。要は、それらすべてを含んだ意味あいにおいては、もはや日本にはそれらを語る国際的資格はない、というのが本宣言の趣旨であると考えられる。

(続く)

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♦️415の1『自然と人間の歴史・世界篇』モスクワ会談(1943.10.9~10.30)

2018-12-03 21:35:33 | Weblog

415の1『自然と人間の歴史・世界篇』モスクワ会談(1943.10.9~10.30)

モスクワ会談と呼ばれるものは、会談前の協議を入れて1943年10月9日~10月30日に開催の米英ソ三国の外相会談のことをいう。

 まずは、会談に先立つ10月5日、アメリカのルーズベルト大統領は、モスクワで開催される外相会談に先立ち、国務省スタッフとの協議で千島列島はソ連に引き渡されるべきだと発言したと伝わる。

 ところが、事前にもう一幕があったという。10月9日、モスクワでの会談に先立つ協議の場にイギリス首相のチャーチルとソ連首相のスターリンがいた。チャーチルが、その協議の内容を後日、こう述懐している。

 「この日の午後10時、クレムリンにおいて最初の重要な会談があった。参加者は私とスターリン、モロトフ、イーデン、ハリマン、そして通訳のバース少佐(英国側)とパブロフ(ソ連側)だけであった。

 私は頃合いを見て、バルカン諸国の問題について協議してしまおうと発言した。「貴国の軍隊はすでにルーマニアとブルガリアに入っているが、わが国にも利権があり、英国人も暮らしている。小さな問題に拘泥しないで処理したい。

まず提案したいのはルーマニアに対する貴国の影響力は90とし、かわりにギリシャに対する我が国の影響力を90としたい。またユーゴスラビアについては5分5分としたい」というのが私の示した合意案であった。この発言がロシア語に訳されている間に、私は紙の半分を使って次のように書きつけた・・・・・

 ルーマニア ロシア90%

   ギリシャ 英国90%(ただし米国の同意要)

   ユーゴスラビア 50―50%

   ハンガリー  50―50%

   ブルガリア ロシア75% 他国25%

 こう書きつけた紙片をテーブル越しにスターリンに押しやった。この時彼は通訳を通じてその内容を聞いていた。しばらく沈黙した後、スターリンは青鉛筆を使って大きなチェックマークを付け紙片を私に戻した。これで決まりだった。長い沈黙があったが、その間マークの付けられた紙片はテーブルの中央に置かれたままであった。

 私は沈黙を破って、「こんなふうにあっさりと数百万の人々の運命が決まるのは皮肉なものだ。この紙は焼いてしまいましょう」と言うと、スターリンは「いや、あなたがもっていてくれてかまわない」と答えたのである。」(渡辺惣樹「誰が第二次世界大戦を起こしたのかーフーバー大統領「裏切られた自由」草志社、2017」でのチャーチルの本「Triumph and Tragedy」からの引用、日本語訳は渡辺氏によると思われる)

 そして迎えた10月11日からの会談は、アメリカのハル国務長官がソ連外相のモロトフに対し、千島列島と南樺太をソ連領とするのに同意、その見返りに、ソ連が日本との戦争に参戦することを求めた。この要求に対して、モロトフは即答を避けたらしい。一説には、この会談最終日の10月30日となっての晩餐会の席上で、スターリンは、ハル米国務長官に、ドイツに勝利した後に日本との戦争に参加することを非公式に伝えたという。

(続く)

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♦️416『自然と人間の歴史・世界篇』ヤルタ協定

2018-12-03 10:24:00 | Weblog

416『自然と人間の歴史・世界篇』ヤルタ協定

 以下に紹介する「ヤルタ協定」は、1945年2月11日に行われた、ソヴィエト、アメリカ及びイギリスの3大国による「ヤルタ会談」で締結された。 当時は、秘密の協定扱いとなっていた。なお、アメリカ大統領は当時すでに病気であり、この会談の2か月後(1945年4月12日)に亡くなった。


 
(英文)
(1) We - the President of the United States, the President of the National Government of the Republic of China, and the Prime Minister of Great Britain, representing the hundreds of millions of our countrymen, have conferred and agree that Japan shall be given an opportunity to end this war.
(2) The prodigious land, sea and air forces of the United States, the British Empire and of China, many times reinforced by their armies and air fleets from the west, are poised to strike the final blows upon Japan. This military power is sustained and inspired by the determination of all the Allied Nations to prosecute the war against Japan until she ceases to resist.
(3) The result of the futile and senseless German resistance to the might of the aroused free peoples of the world stands forth in awful clarity as an example to the people of Japan. The might that now converges on Japan is immeasurably greater than that which, when applied to the resisting Nazis, necessarily laid waste to the lands, the industry and the method of life of the whole German people. The full application of our military power, backed by our resolve, will mean the inevitable and complete destruction of the Japanese armed forces and just as inevitably the utter devastation of the Japanese homeland.
(4) The time has come for Japan to decide whether she will continue to be controlled by those self-willed militaristic advisers whose unintelligent calculations have brought the Empire of Japan to the threshold of annihilation, or whether she will follow the path of reason.
(5) Following are our terms. We will not deviate from them. There are no alternatives. We shall brook no delay.
(6) There must be eliminated for all time the authority and influence of those who have deceived and misled the people of Japan into embarking on world conquest, for we insist that a new order of peace, security and justice will be impossible until irresponsible militarism is driven from the world.
(7) Until such a new order is established and until there is convincing proof that Japan's war-making power is destroyed, points in Japanese territory to be designated by the Allies shall be occupied to secure the achievement of the basic objectives we are here setting forth.
(8) The terms of the Cairo Declaration shall be carried out and Japanese sovereignty shall be limited to the islands of Honshu, Hokkaido, Kyushu, Shikoku and such minor islands as we determine.
(9) The Japanese military forces, after being completely disarmed, shall be permitted to return to their homes with the opportunity to lead peaceful and productive lives.
(10) We do not intend that the Japanese shall be enslaved as a race or destroyed as a nation, but stern justice shall be meted out to all war criminals, including those who have visited cruelties upon our prisoners. The Japanese Government shall remove all obstacles to the revival and strengthening of democratic tendencies among the Japanese people. Freedom of speech, of religion, and of thought, as well as respect for the fundamental human rights shall be established.
(11) Japan shall be permitted to maintain such industries as will sustain her economy and permit the exaction of just reparations in kind, but not those which would enable her to re-arm for war. To this end, access to, as distinguished from control of, raw materials shall be permitted. Eventual Japanese participation in world trade relations shall be permitted.
(12) The occupying forces of the Allies shall be withdrawn from Japan as soon as these objectives have been accomplished and there has been established in accordance with the freely expressed will of the Japanese people a peacefully inclined and responsible government.
(13) We call upon the government of Japan to proclaim now the unconditional surrender of all Japanese armed forces, and to provide proper and adequate assurances of their good faith in such action. The alternative for Japan is prompt and utter destruction.
(日本語訳)
 「三大国即チ「ソヴィエト」聯邦,「アメリカ」合衆国及英国ノ指導者ハ「ドイツ」国ガ降伏シ且「ヨーロッパ」ニ於ケル戦争ガ終結シタル後二月又ハ三月ヲ経テ「ソヴィエト」聯邦ガ左ノ条件ニ依リ聯合国ニ与シテ日本国ニ対スル戦争ニ参加スベキコトヲ協定セリ。
一外蒙古(蒙古人民共和国)ノ現状ハ維持セラルベシ。
二千九百四年ノ日本国ノ背信的攻撃ニ依リ侵害セラレタル「ロシア」国ノ旧権利ハ左ノ如ク回復セラルベシ。
(甲)樺太ノ南部及之ニ隣接スル一切ノ島嶼ハ「ソヴィエト」聯邦ニ返還セラルベシ。
(乙)大連商港ニ於ケル「ソヴィエト」聯邦ノ優先的利益ハ之ヲ擁護シ該港ハ国際化セラルベク又「ソヴィエト」社会主義共和国聯邦ノ海軍基地トシテノ旅順口ノ租借権ハ回復セラルベシ。
(丙)東清鉄道及大連ニ出口ヲ供与スル南満州鉄道ハ中「ソ」合弁会社ノ設立ニ依リ共同ニ運営セラルベシ但シ「ソヴィエト」聯邦ノ優先的利益ハ保障セラレ又中華民国ハ満洲ニ於ケル完全ナル主権ヲ保有スルモノトス。
三 千島列島ハ「ソヴィエト」聯邦ニ引渡サルベシ。
前記ノ外蒙古竝ニ港湾及鉄道ニ関スル協定ハ蒋介石総帥ノ同意ヲ要スルモノトス大統領ハ「スターリン」元帥ヨリノ通知ニ依リ右同意ヲ得ル為措置ヲ執ルモノトス。
三大国ノ首班ハ「ソヴィエト」聯邦ノ右要求ガ日本国ノ敗北シタル後ニ於テ確実ニ満足セシメラルベキコトヲ協定セリ。
「ソヴィエト」聯邦ハ中華民国ヲ日本国ノ覊絆ヨリ解放スル目的ヲ以テ自己ノ軍隊ニ依リ之ニ援助ヲ与フル為「ソヴィエト」社会主義共和国聯邦中華民国間友好同盟条約ヲ中華民国国民政府ト締結スル用意アルコトヲ表明ス。」(外務省仮訳、日本外交主要文書・年表(1)、56
57ページ、条約集第24集第4巻より転載)

念のため、この秘密協定は、次のような形で現代語訳でも紹介されているところだ。

「米英ソ三国首脳は、ドイツ降伏の2か月ないしは3カ月後にソビエトが対日戦争に連合国の側に立って参戦することで合意した。ソビエト参戦の条件は以下である。

1、外モンゴル(モンゴル人民共和国)の現状維持

2、1904年の日本の攻撃によって失われたロシアの利権の回復

A、南サハリンおよびその周辺の諸島のソビエトへの返還

B、大連港の国際港化、同港におけるソビエトの利権の恒久的保護、ソビエトの軍港として利用することを前提にした旅順港の再租借

C、東清鉄道および南満州鉄道から大連への路線は、ソビエト・中国共同の会社によって運営される。これに伴うソビエトの利権は保障される一方、満州の主権は中国に属するものとする。

3、千島列島はソビエトに割譲されるものとする。

右記の、外モンゴル、港湾と鉄道に関わる合意については、蒋介石総統の同意を条件とする。大統領は、スターリンの助言を受けながら、蒋介石の同意を取りつける努力をする。

 ソビエトの要求事項は、日本の敗戦後に確実に履行されることで合意した。一方ソビエトは、中国政府と友好条約および軍事同盟を結び、中国の日本からの解放の戦いに軍事力を提供する準備ができていることをここに表明する。

1945年2月11

(署名)J・スターリン、フランクリン・D・ルーズベルト、ウィンストン・S

・チャーチル」(これの出所は、ハーバート・フーバー著、ジョージ・H・ナッシユ編「裏切られた自由」であるが、訳は辺惣樹氏による。引用は、渡辺惣樹「誰が第二次世界大戦を起こしたのかーフーバー大統領「裏切られた自由」を読み解く」草志社、2017から) 

 ここで圧巻なのは、ソヴィエトの日本への参戦のことが盛り込まれている点。その予定期日としては、実際にソ連が当時の進攻したのは8月8日のことであったのだが、ソ連への要請としては、「早ければ7月7日、遅くとも8月7日」に日本を攻撃してほしいというのが、本協定の含意であった。
 ところが、それより早くの1941年4月13日に日本は日ソ中立条約を締結していることであり、いわば「かや」の外にいた日本はといえば、この連合国サイドにおける「密約」を知る由もなかったのは言うまでもない。また、これの第8項と第11~13項において、戦後の日本への仕置きにつきかなり踏込んだことが書かれている。その中で、日本の人民が平和に暮らせる政治形態をさらりといってのけているのが、特徴的だ。
 なお、中国とソ連との関係については、この後の8月14日に友好同盟条約として締結される。

(続く)

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♦️385『自然と人間の歴史・世界篇』ムンク

2018-12-03 09:17:10 | Weblog

385『自然と人間の歴史・世界篇』ムンク

 

 エドバルド・ムンク(1863~1944)は、ノルウェーの人。由緒ある家の生まれであったようだ。ところが、5歳の時、母が結核で死ぬ。続いて14歳の時には、姉も結核で亡くなるという不幸に見舞われた。

 そんな孤独に陥ってもおかしくない彼にして、いつ頃から絵心が芽生えたのだろうか、17歳で絵の学校に入学した。それから26歳で初の個展を開き、パリに留学する。そのパリで研鑽を積み、プロの絵描きとなっていく。同年、父が死去した。これで、身の回りがずいぶん寂しくなったに違いない。

  1892年、29歳の時にベルリンで個展をひらく。ところが、その個展の評判は、かんばしいものではなかった。青年期の気負いがあったのかもしれない。「マドンナ」(1895)という作品には、エロチシズムに浸るかのような女性があって、その頃の何物にもとらわれたくないという彼自身の生きざまと重なっているのではないか。

  1902年、ノルウェーに帰国した時には46歳になっており、それからが油の乗った時期といえようか。それから80歳で没するまで精力的に動いた。

  1910年頃からだろうか、「叫び」を全部で5枚も描いたという。厚紙にテンペラ、油彩で作られていて、橋の上の人物が幻聴に晒されているかのよう。向こうには、群青のフィヨルドらしきものが控えているし、上空の空は赤く血のようだ。その人は、自分が叫んでいるのではなくて、周りから聞こえてくる声というか、音というか、それを聞きたくないと耳を塞いでいるのだという。彼自身の言葉を借りるなら、「果てしない自然の叫び」を聞いたのだという。「森の吸血鬼」(1916~1918)も、この時期の作品だ。これらを「退嬰芸術」という批評の向きもあったのかもしれない。

 その一方では、光をふんだんに取り入れた作品も発表している。「太陽」(1910~1913)は、クリスチャニア大学(現在のオスロ大学)の講堂に描かれた大作だ。画面上の方から強烈な光線が降り注いでいる。まさに、生命の賛歌というべきか。

 それから晩年にかけては、自画像をよくものにした。「自画像、時計とベッドの間」(1940~1943)からは、ぼっーとしているようでいながら、部屋に光が差し込んでいることから、健康的な気分になっていたのだろう。一生涯で2万点以上の作品をうみだしたのは、画家名利に尽きるとみるべきか、彼にとっては生きることと同じ意味であったのだろうか。

 (続く)

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♦️676の1『自然と人間の歴史・世界篇』アポロ計画(月着陸までの経緯、研究開発)

2018-12-02 21:54:54 | Weblog

676の1『自然と人間の歴史・世界篇』アポロ計画(月着陸までの経緯、研究開発)

 アポロ計画というのは、ケネディ大統領の時代のアメリカで始まった。それは、1961年5月25日のことで、ケネディは、ソ連のユーリ・ガガーリンの宇宙初飛行の1ヶ月後に、ソ連に対する技術的優位を示すためにもという気概で、演説を行う。その一説には、こうあった。

We choose to go to the moon. We choose to go to the moon in this decade and do the other things, not because they are easy, but because they are hard, because that goal will serve to organize and measure the best of our energies and skills, because that challenge is one that we are willing to accept, one we are unwilling to postpone, and one which we intend to win, and the others, too.

 アメリカが国を挙げて目指したのは、ソ連に先んじて、ドイツ人ロケット開発者フォン・ブラウンの夢である「人間が月に行くこと」であったという。この構想については、フランスのSF作家 ジュール・ベルヌの小説「月世界旅行」に由来してのことだと聞く。

 この演説で、ケネディは、「1960年代中に人類の月面上陸及び安全な帰還する」ことを議会と国民に宣言するのであった。以後、膨大な予算と人員を投じての一大国家プロジェクトが取り組まれていく。

 この計画においては、ピラミッドの形をした構想の頂点に月への着陸と月面探査があり、それをなし遂げるために諸計画が立てられていた。

 それらの名は、マーキュリー計画、ジェミニ計画が主なものであって、アポロ計画と同時並行で進めていく。その際、マーキュリー計画というのは一人乗り宇宙船で地球を回る技術をいい、その次にジェミニ計画というのが乗っかっていくのにあった。

 特にジェミニというのは、双子座で二人乗り宇宙船を意味した。2人が同時に最大2週間宇宙飛行することが目指された。具体的には、宇宙空間でランデブーやドッキングする技術を開発していく。それらの基礎固めが成った後に、ようやく月に向けてアポロ計画としての3人乗り宇宙船の開発が完成に向かっていくというもの。

(続く)

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♦️156の2『自然と人間の歴史・世界篇』モンゴル帝国(チンギス・ハン後)

2018-12-02 20:50:09 | Weblog

156の2『自然と人間の歴史・世界篇』モンゴル帝国(チンギス・ハン後)

 1229年、クリルタイといって、モンゴルの部族長による大集会において、チンギス・ハンの息子のオゴタイが2代目のハン(ハーン、カン、カーンまたはハガン、カガンともいい、遊牧民族の長の意味。漢字では汗の字をあてる)となる。モンゴル帝国においては、ハンの選出や、遠征軍の派遣などの重要政策は、クリルタイで決定されていた。
 彼が2代目となってからは、征服地の施政と法の整備、駅伝制(ジャムチ)の採用、中央政府である中書省の設置など、国家体制をだんだんに強化していった。
 1234年、オゴデイ・ハンは金(きん、中国読みでジン)を滅ぼす。この金は、女真族(じょしんぞく)が1115年、遼(中国読みでリアオ、907~1125)から独立して建てた国であり、中国の東北部から華北にかけて支配していた。

   翌1235年、モンゴルは、オルホン河畔のカラコルムに都を建設した。1235年、チンギス・ハンの孫バトゥがロシアまでの遊牧民の世界を目指す。まずヴォルガ川流域のヴォルガ・ブルガールに向かう。その軍団は、過酷な遠征をものともしない勢いがあったのだろう。

 1237年にはキプチャク族、1240年にはキエフ・ルーシ諸侯国を征服した。1241年、モンゴル軍はポーランド王国攻め、ワールシュタットの戦いに勝つ。バトゥの率いる部隊はハンガリー王国に侵攻する。翌1242年、オゴデイ・カアンが死去したため、バトゥは遠征を中止し、モンゴル征西軍は帰還を余儀なくされた。1246年、グユクが第3代カアンに即位するが、1248年にそのグユクが病気で死去する。
 1250年、ジョチ家のバトゥはトルイ家とともにクリルタイを招集し、チャガタイ家・オゴデイ家が反対する中、トルイの子モンケをハン位に推戴(すいだい)した。モンケ・カアン、は反対派であるチャガタイ家とオゴデイ家を弾圧し、その領地と軍隊を没収した。1253年、モンケ・ハンは弟のクビライに雲南征服を命じ、大理国(937年にチベット系のペー族出身の段思平が建国)を滅ぼした。

  1256年、モンケは、弟のフレグに西アジアのペルシア遠征を命じる。1255年には、それまでの功労者のバトゥが死去する。フレグが1257年にイラン高原に向かい、1257年にはイランの行政権を獲得し、イルハン朝((フレグ・ウルス)が成立する。

  そして迎えた1258年には、バグダッド(現在のイラクの首都)を占領してアッバース朝(750年に建国し、アラビアを支配していた。ムハンマド・イブンの叔父の家系であるアッバース家がカリフであった)を滅ぼした。同じ年、モンケ・ハンは自ら南宋(中国語でナンソン、1127~1279)遠征に乗り出す。1259年、朝鮮半島の高麗(コマ)を服属させる。しかし、この年の合州包囲中に疫病にかかり、陣中で病死した。

  ここにいたり、全体としてのモンゴルは、古代ローの帝国と並んで、史上最大規模の勢力となっていた。

(続く)

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♦️156の1『自然と人間の歴史・世界篇』モンゴル帝国の成立(チンギス・ハン)

2018-12-02 20:41:44 | Weblog

156の1『自然と人間の歴史・世界篇』モンゴル帝国の成立(チンギス・ハン)

 テムジン(1162または1154もしくは1155~1227)は、1167年には父イェスゲイ・バートルがタタールに殺されると、父の後を継ぐ。父の盟友であるトオリル・ハンに援助を求め、承諾される。苦難をものともしない覇気があったのであろう。独り立ちしてからの青年テムジンは、1189年には手塩にかけてきた兵たちと共にモンゴル草原に頭角を現し、21にのぼる士族の長やその兄弟たちが「青い湖」のほとりに集まっての部族連合の会議でその長となる。

1197年には、新たにワン・ハーンと組んでメルキトを破る。続く1199年には、ワン・ハーンと組んでナイマンを破る。さらに1200年には、ワン・ハーンと組んでタイチウトを破る。そのテムジンが、1201年には単独の勢力でジャムカを、1202年にはタタールをそれぞれ破る。さらに1203年には、ともに戦ってきていたワン・ハーンと戦い、これを破る。

1206年、テムジンがモンゴル高原西北部を統一した。自らをチンギス・ハンと称す、これが、第二次の即位ということになっている。1208年までには、中世モンゴル語でイェケ・モンゴル・ウルス(大モンゴル国)を建国する。ここに「ウルス」とは、「領民」の意味だという。1209年には、モンゴル軍が西夏を降し、ウイグル国を従える。

 1214年、チンギス・ハンの率いるモンゴル軍が南へ侵攻、金の国都を囲む。モンゴルは金と和議を結んで、金は中都(現在の北京)から開封に遷都する。1218年には、その中都を陥落させる。この年、西夏を再び討ち、西夏の王は西涼に逃げる。

同じ1218年、カラ・キタイ(西遼)を征服し、1219年からは中央アジア遠征を開始して、1222年までにイスラム王朝であるホラズム・シャー朝を壊滅させた。1220年には、ブハラ・サマルカンドなどを陥落させる。その際、は向かう者には容赦なく、皆殺しをためらわなかったとされる。1221年、バーミヤンを攻めとる。また、ジャラール・ウッディーンをインダス川に破る。1225年に、モンゴルに凱旋する。1227年、シルクロードにあって建国(1032年)し、独特の文字を持っていた西夏(せいか)を滅ぼす。この年、後半生を戦いに明け暮れていた、何よりも全モンゴルの屋台骨を支えていたチンギス・ハンが死去する。

 

(続く)

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♦️390『自然と人間の歴史・世界篇』アメリカ資本の中南米への進出拡大(19世紀後半~20世紀初頭)

2018-12-01 21:40:57 | Weblog

390『自然と人間の歴史・世界篇』アメリカ資本の中南米への進出拡大(19世紀後半~20世紀初頭)

 いつ頃から、アメリカにとって中南米のあたりが「庭」のように見なされるようになったのであろうか。それこそは、アメリカの資本がこの地域に経済的進出を拡大し、そこそこで富を生み、権益が増していったのと軌を一つにする。その一大画期となったのが、19世紀後半を前史として、20世紀の20年代からの出来事であったという。その経緯については、例えば、こう説明されている。

 「一方、砂糖生産においても、19世紀後期から米国人が投資を拡大していたが、砂糖ブームと戦後の不況、1920も年代のブームの再来と30年代諸島の世界大恐慌による不況という大きな景気変動のなかで、地元資本は淘汰され、米国資本による寡占的支配が拡大した。

 第一次世界大戦までは、中央アメリカ・カリブ海地域への域外からの投資は、イギリス、ドイツなどのヨーロッパ資本の比率がいぜんとして高かった。1897年の米国資本の対外直接投資の総額は、6億8500万ドルで、このうち、カリブ海地域への投資は4900万ドル、割合にして7%だったが、第一次世界大戦の始まる1914年には、米国資本の大害直接投資総額、35億ドルのうちで、カリブ海地域への投資は3億3600万ドルで総額の10%に増加し、イギリス資本をぬいて最大の投資国となった。また中央アメリカへの投資は1897年の2100万ドルから1914年には9300万ドルへ増加した。」(「南アメリカの歴史」山川出版社、277ページ)

 これにあるように、中南米においては、19世紀末から主にアメリカの食品資本がコーヒー、バナナ、砂糖などのプランテーションを拡大してきた。中南米諸国からすれば、そのことで「農業大国」になっていくという理解が生まれることにはならなかった。

 

(続く)

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♦️220『自然人間の歴史・世界篇』飛行機の原理・ベルヌーイの定理の発見(18世紀)

2018-12-01 09:49:09 | Weblog

220『自然人間の歴史・世界篇』飛行機の原理・ベルヌーイの定理の発見(18世紀)

 ダニエル・ベルヌーイ(1700~1782)とは、スイスの数学者にして物理学者でもある。1738年に発刊した主著「ハイドロダイナミカ(水力学)」の中で、流体、水や空気の流れが持つエネルギーが全体として保存されているという法則を見つけた。ただし、この式が成り立つのは、非粘性で、非圧縮性の理想流体です。なお、理想流体は非圧縮性であるため、密度は一定となる。また、管内に摩擦はなく、時間変化のない定常流を想定している。

 この定理は、飛行機の主翼が生み出す揚力(ようりょく)と言って、その翼の断面方向から見て上向きに働く力についての説明を施すのに用いられる。

 ここでは、プロペラ機を例にとろう。これが動力を用いて空を飛ぶには、一つには、プロペラの回転により空気が後方へ移動するであろう。その反作用として推進力を得る。

 二つには、プロペラの翼断面形状により、前面(上面)と後面(下面)の間に速度差が生じる。これにより圧力差となる。そしてこの圧力差によって、機体は推進力を得る。

 それというのも、飛行機の翼の断面は、上が丸い形をしているのが望ましい。その翼に前から風が当たると、翼の上面にそって空気が流れる。その空気の流れの速さたるや、下面に流れる空気の速さに比べて速くなるという。

 再録すると、連続した流体の中では、流れの速いところほど流れの中の圧力は小さく、遅いところほど圧力が大きいというのが、先のベルヌーイの定理であった。そのため、翼の上面では圧力が小さく、下面では大きくなる。この上下の圧力差で、翼は重力に逆らって圧力の小さい上の方へ引き寄せられる、つまり飛行機を空に浮かべる大きな揚力を得ている訳だ。

 すなわち、これら双方の作用で、飛行機は推進力を得て空を飛ぶというのが、プロペラ機だけではなく、今日のジェット・エンジンなどに至るまでの飛行原理ということで説明されている。

(続く)

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♦️343の3『自然人間の歴史・世界篇』飛行機の発明(1903)

2018-12-01 09:33:28 | Weblog

343の3『自然人間の歴史・世界篇』飛行機の発明(1903) 

 1903年12月17日は、飛行するのにおあつらえむきの風が吹いていた。ライト兄弟は、自作の飛行機「ライト・フライヤー1号にエンジンをかけて、プロペラが廻りだす。弟のオービルが飛行機に乗り込み、人力でひっぱってもらいつつエジソンをふかす。そして、ついに機体が宙に浮き、空を飛ぶことに成功した。とはいえ、このときの飛行時間はわずか12秒、飛行距離は36メートルに過ぎなかった。それから改良を重ねていくうちに、飛行距離が少しずつ伸び、三次元での機体の空中制御も試みられていく。

 とはいえ、世界初という点については、1901年8月の初飛行が世界初であるという指摘があり、グスターヴ・ホワイトヘッドによる飛行が世界初とする説もある。おりしも、1906年の万国国際法学会は、各国の自衛に供されぬかぎり航空は自由という原則を採り、その後の航空技術の熾烈な開発競争を招いたという。

 ともあれ、機先をとっての特許申請が認められたことで、ライト兄弟は人類史に名前を記す栄誉に浴した。

(続く)

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