『◻️206『岡山の今昔』岡山人(19世紀、阪谷朗盧)

2019-05-19 21:04:42 | Weblog

206『岡山(備前、備中、美作)の今昔』岡山人(19世紀、阪谷朗盧)

 阪谷朗盧(さかたにろうろ、1822~1881)は、幕府代官の手代であった父の家に生まれる。その家は、備中川上郡九名(くめい、現在の井原市美星町)にある。その父について大和・大坂に移り、大坂ではかの兵法家にして、儒教の一派、陽明学者にして実践哲学の大塩平八郎に学ぶ。さらに1838年(天保9年)には、江戸に出て、昌谷精渓(さかやせいけい、同郷)、古賀庵に漢文なとを学ぶ。

 1848年(かえい元年)に母の病気の知らせを受けての帰郷後は、伯父の山鳴大年の援助を受け、桜渓塾を開いて近隣の子弟を教える。儒学を丁寧に教えることで、評判をものにしていく。
 その後、領主である一橋家の代官友山勝次によって開校された郷校「興譲館」の初代館長として招かれる。既に、高名であったらしい。その興譲館は、1853年に開校したもので、弘道館(水戸)、明倫館(萩)と並んで、幕末の「天下三館」と謳われた。なかなかの人気であったらしい。なお、この学舎は、学校法人興譲館高等学校として現在に続く。

 明治になってからの1870年(明治3年)には、広島藩主に従って東京にでる。維新政府の役人に取り立てられ、要職をこなしていく。その間には、福沢諭吉らの立ち上げた明六社に参加し、雑誌に論文を寄せる。1879年(明治14年)に退官してからは、自宅で春崖塾を開き、教育にあたる。

 それから、阪谷が1868(明治元)年に館長職を退いた興譲館だが、その組織は私立学校から社団法人となり、さらに1926(大正15)年には財団法人となり、この地域に根を張っていく。

 かかる財団設立当時、その運営規則「寄付行為」に記される館の目的については、こうある。いわく、「永久私立学校として学問の自由を尊重、社会各般の真理を研鑽し、知徳体兼備の人材を養成、人類の安寧幸福を増進する」となっている。そして今では、阪谷が館長を務めた当初の校門は後に岡山県の史蹟に指定されているとのこと。

 その人生をつうじ、漢文だけでなく、多方面の学問に精魂を傾けるとともに、その人柄は優しいものであったと伝わる。

(続く)

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◻️186『岡山の今昔』岡山人(18世紀、鍬形蕙斎)

2019-05-19 19:52:39 | Weblog

186『岡山の今昔』岡山人(18世紀、鍬形蕙斎)

 鍬形蕙斎(くわがたけいさい、1764~1824)は、江戸時代後期の絵師。だれがその顔を描いたのだろうか、同時代の葛飾北斎のものとは異なり、穏やかな表情をしている。

 通称は三二郎という。初め北尾重政に学んで北尾政美と号す。黄表紙の挿絵画家として世に出る。江戸の鳥瞰図「江戸一目図屏風」(県指定文化財、津山郷土博物館蔵)、「扶桑国略図」(神戸市立博物館蔵)を描いて有名になる。あれやこれやの、多くの絵本も制作していく。

 1794年(寛政6年) には、津山侯の御用絵師となる。当時の絵師の社会的地位の低さからみて、破格の出世というべきか。狩野惟信に学んで鍬形蕙斎、また紹真と名のるようになってからは、版画制作よりは、肉筆画を描いていく。

 主要作品としては、「近世職人尽絵巻」 (きんせいしょくにんづくしえことば、東京国立博物館) が有名だ。そして、この絵巻の制作を命じたのか、かの松平定信なのでは、というから驚きだ。これは、時は1801年(享和元年)から1803年(同3年)頃、当時の市中の人びとの暮らしが克明に写しとられていて、たとえば、「居酒屋」(中巻)や「紺敷」(下巻)には、人びとが生き生きとしている。時代は違うものの、中世を映しての「一遍聖絵」とも通じるのではないだろうか。後者のような景色のデフォルメをふくめてのものではなく、その場面をそのまま写しとったかのよう。

 そんなかれが、藩主の参勤交代からの国元帰りで、津山に赴く。津山では、城の御殿のふすまに絵を描いたりしたというが、そればかりではない。津山城下の全体図を描いており、現代に伝わる。「津山景観図屏風」といい、津山郷土博物館に、六曲一双の写しとして展示され、津山市指定重要文化財だという。これが当時の様子を伝えることで、かれは暫しの間、なかば「客人」でありながら、「岡山人」とみてよい日々を送ったのではないだろうか。

(続く)

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◻️205『岡山の今昔』岡山人(19~20世紀、原撫松)

2019-05-19 19:06:37 | Weblog

205『岡山(備前、備中、美作)の今昔』岡山人(19~20世紀、原撫松)

 原撫松(はらぶしょう、1866~1912)は、現在の岡山市北区出石町の生まれ。岡山藩士で後に銀行業に携わった原金兵衛が父である。岡山師範附属小学校に通うのだが、すでに画家を目指していたというから、驚きだ。

 1881年(明治14年)には、京都府画学校の西宗学科で、西洋絵画を小山三造らにまなぶ。在学中に父が死ぬ。苦学して、首席で卒業したという。

 1886年(明治19年)には、岡山に戻る。依頼された肖像画を描いて、生活していたという。1896年(明治29年)、帝国鉱山局長の伊藤弥次郎の勧めがあって、上京する。画号の「撫松」を、かれから受けたらしい。その伊藤の紹介で仕事の依頼が増え、伊藤博文や西園寺公望、北里柴三郎ら有名人の肖像画も作っていく。

 1904年(明治37年)には、イギリスに留学する。それからは、レンブラントらの作品に学ぶ。観察に、模写にと励み、本格的な油彩技法を習得していく。主な作品としては、「坂田快太郎博士の像」(岡山大医学部所蔵)、「老人像」(岡山県立美術館)などの肖像画をよくした。変わったところでは、「裸婦」があり、後ろ姿にみいってしまう、古今東西の傑作の一つではないか。

(続く)

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◻️238『岡山の今昔』岡山人(20世紀、赤松麟作)

2019-05-13 23:16:28 | Weblog

238『岡山(備前、備中、美作)の今昔』岡山人(20世紀、赤松麟作)

 赤松麟作(あかまつりんさく、1878~1953)は洋画家。岡山の生まれ。1899年(明治32年)には、東京美術学校を卒業する。在学中は、洋画家の黒田清輝に師事する。そして迎えた1901年(明治34年)には、「夜汽車」により白馬賞を受賞、画壇に早速と登場する。

 その黒田から学んだのは、外光派風の明るい色調にあるという。人物画や風景画によって、堅実で慈味深い作風をものにしていく。

 1904年(明治37年)から1917年(大正6年)にかけては、大阪朝日新聞社に挿し絵記者として働く。1908年(明治41年)には、大阪梅田において赤松洋画塾を開設する。また、関西女子美術学校においては、洋画部の代表となる。

 そんな赤松の「土佐堀川」は、麟作の前期の代表作であり、同時に大正中期の洋画の雰囲気を持つ。全体的に淡い色使いにて、当時の大阪土佐堀川の情景をよく伝える作品としても貴重だとされる。ちなみに、土佐堀川(とさぼりがわ)は、大阪市内を流れる旧淀川の分流の一つである。 旧淀川は、上流の大川(おおかわ) から中之島をはさんで北の堂島川と南の土佐堀川に分かれる。

 また、「裸婦」という作品には、豊満な中にも、物憂げな女性が視線を前方斜め下に投げかけている。

(続く)

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◻️236『岡山の今昔』岡山人(20世紀、鹿子木孟郎)

2019-05-13 22:06:33 | Weblog

236『岡山(備前、備中、美作)の今昔』岡山人(20世紀、鹿子木孟郎)

 鹿子木孟郎(かのこぎたけしろう、1874~1941)は、旧池田藩士の三男に生まれる。生家は、岡山市東田町にある。8歳で伯父の鹿子木家の養子となる。

 高等小学校を卒業してからは、初め松原三五郎の天彩学舎に学び、のち上京して小山正太郎の不同舎に入る。

 その後は、滋賀、三重、埼玉で中学の図画教員をつとめていく。1900年(明治33年)には、渡米をはたす。ワシントンやボストンにて、仲間と水彩画展を開くと、好評を博したらしい。

 1901年(明治34年)には、ロンドン経由で渡仏し、歴史画家・ローランスに師事する。1904年(明治37年)に帰国すると、京都に居を構え、画塾を開く。明治美術会、太平洋画会、官展にと、次々出品していく。

 そんな師ローランスを描いた、第2回文展出品作「ローランス画伯の肖像」は名作との評価をもらう。ほかにも、1926年に明治神宮絵画館の「奉天入城図」、そして1940年(昭和15年)には、「南京入城図」を制作する。後者は、支那事変の際に遊就館に納めたのだという。

 やがては、関西美術院を設立する。1939年(昭和14年)になると、院長に就任する。京都高等工芸学校(のちの京都工繊大)でも指導にあたる。その後は、どちらかというと、大方教える側に回っていく。

 その作風だが、肖像画や風景画で力を発揮していく。代表作には、「ローランス画伯の肖像」「新夫人」「漁夫の家」など。

(続く)

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◻️211の30『岡山の今昔』岡山人(19世紀、原田直次郎)

2019-05-12 21:36:50 | Weblog

211の30『岡山の今昔』岡山人(19世紀、原田直次郎)

 原田直次郎(はらだなおじろう、1863~1899)は、洋画家。備中鴨方藩藩士の原田一道の次男として、江戸に生れる。幼い頃から、漢文やフランス語を学ぶ。勉学には、うってつけの環境に身を置けたのではないか。

 やがて、東京外国語学校を卒業する。そのまま語学を生かすのかと思いきや、この頃既に絵描きになろうという志を抱いていたのだろうか、油絵を山岡成章や高橋由一に学ぶ。

 1883年(明治16年)には、ドイツに留学して、ミュンヘンの美術学校に入学する。地質学者の兄、豊吉の勧めがあったらしい。歴史画の大家であるガブリエル、マックスに師事して、ドイツロマン派の画風の習得に精魂を傾ける。折からの写実主義にも、活路を求めていったようだ。1887年(明治20年)に帰国してからは、本郷に画塾鍾美館(しょうびかん)を設けて後進を指導しする。

 1889年(明治22年)には、明治美術会の創立に参加する。代表的な作品に、ドイツ時代に描いた「風景」や「靴屋の親父」のほか、1890年(明治23年)に発表した「騎竜観音」などがある。

 これらのうち「風景」は、岡山県立美術館にあるという。画の雰囲気は、静かにして、心地良い涼しさがある。手前の家から奥の森へと道が続くうちに、その道を木漏れ日が追いかけていくようであり、この道を歩いてみたい。

 「靴屋の親父」には、思わずみ見ってしまう、なにしろ、描かれている中年男は、振り向くように顔を正面に向けている。左方から光が当たり、顔の半ばがやや暗い。陰影がきつい分、禿げあがった頭、彫りの深いひげ顔、胸をはだけた姿とあっては、いちど見たら目に焼きつくかのようだ。

 たいするに、「騎竜観音」は、その名前のとおり、なまめかしく、それでいて、ちかより難いほどの妖しい顔だ。伝説上の龍の上に乗っている。

 作家は、早くに病気になって、画業を大成させるには至らなかった。かの文豪の森鴎外とはドイツ時代からの終生の友であって、鴎外の小説「うたかたの記」に出てくる日本人画家とは原田がモデルであったと伝わる。

(続く)

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◻️235『岡山の今昔』岡山人(20世紀、吉行淳之介)

2019-05-12 08:37:46 | Weblog

235『岡山(備前、備中、美作)の今昔』岡山人(20世紀、吉行淳之介)

 吉行淳之介(よしゆきじゅんのすけ、1924-1994)は、岡山市の生れ。父は、モダンを志向する作家、詩人。昭和の初め、父母とともに東京へ出る。少年期の次の逸話があって、こう伝わる。

 1941年12月8日の、日本軍によるハワイ真珠湾への奇襲攻撃のあった時、旧制中学生であったかれの通う学校では、そのニュースが校内アナウンスで報道されると、ほとんどの生徒が「万歳!」をするためにグラウンドに出た。けれども、淳之介少年はその気持ちになれず、ただ一人教室に残っていたのだと。後に、「そのときの孤独の気持と、同時に孤塁(こるい)を守るといった自負の気持を私はどうしても忘れることはできない」と、その時の心情を吐露している。

 東京大学英文科に入って学ぶも、中退する。アルバイトだけでは、学費が続かなかったのだという。

 1954年(昭和29年)には、「驟雨」で芥川賞を受賞する。少し紹介すると、この時すでに、切れ味のある、緻密な文体が際立つ。

  「そのとき、彼の眼に、異様な光景が映ってきた。道路の向こう側に植えられている一本の贋アカシヤのすべての枝から、おびただしい葉が一斉に離れ落ちているのだ。

 風は無く、梢の細い枝もすこしも揺れていない。葉の色はまだ緑をとどめている。それなのに、はげしい落葉である。それは、まるで緑色の驟雨(しゅうう)であった。ある期間かかって、少しずつ淋しくなってゆくはずの樹木が、一瞬のうちに裸木となってしまおうとしている。地面にはいちめんに緑の葉が散り敷いていた。」(1954年著第31回芥川賞受賞作『驟雨』より、英夫と娼婦の道子が、朝のカフェの窓から外の景色を眺めながら)

 その特徴としては、性を主題に精神と肉体の関係を探る、それを中心として人間性の深淵にせまるというもの。なかなかに、ダンディーな男性として、浮き名を流してもいたらしい。また、都会的に洗練されたエッセイの名手としても知られる。一瞬たりとも、大都会は生き物としての顔にとどまるところがない、その中に身をおき、感覚を研ぎ澄ます、ということだろうか。

 主要作品としては、実に多い。ざっと、「原色の街」(1951)「娼婦の部屋」(1959)「砂の上の植物群」(1964)「星と月は天の穴」(1967)「暗室」(1970)「夕暮まで」(1965~78)など。

(続く)

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◻️234『岡山の今昔』岡山人(20世紀、阿部知二)

2019-05-12 07:33:41 | Weblog

234『岡山(備前、備中、美作)の今昔』岡山人(20世紀、阿部知二)

 阿部知二(あべともじ、1903~1973)は、勝田郡湯郷村大字中山(現在の美作市中山)の生まれ。父は、中学校の教師。生後2か月にして父の転勤で島根へ、さらに9歳の時には、姫路へ転居したりで、落ち着かない日々であったろう。その姫路で姫路中学(現在の姫路西高校)から第八高等学校(現在の名古屋大学)へと進む。

 さらに、東京帝国大学英文学科に入学してからは、文学熱が増していく。1930年(昭和5年)には、雑誌「新潮」に「日独対抗競技」を発表する。そして迎えた1936年(昭和11年)には、代表作の一つ、「冬の宿」を発表する。その一節を紹介しよう。

 「私は呟いた。昨日まで、いや、今が今まで、厳しい、冷たい蒼白な冬の真ん中にちぢこまって生きていたと思ったのに、もう外の世界は暖かな光であふれていたのだ。冷酷な冬は、あの一軒の家にばかり、爪を立てたように居残っていたばかりなのだ。そこから解き放たれたことは事実だ。----それからしばらくして、「おや、不思議だ。」とひりひりするこめかみのみみず脹れを撫でながらつぶやいた。」

 その後も次々作品を作っていたらしいのだが、戦争中は軍部との関わりを深くする。ある日、召集令状が届いて、入営するしかなかった。陸軍部報道班員としてジャワ(インドネシア)に行く。そこで、図書館や個人蔵書などから日本に有用なものを探し、また日本にとって都合の良くないものを没収したりする仕事の体験をする。

 戦後は、戦争に加担したことを恥じたらしい。一転して進歩派として左傾化していく。社会主義者というのではない、自由主義者として。世界ペンクラブ代表として渡欧してからは、より顕著に平和運動に関わっていくようになる。

 この間、メルヴィルの「白鯨」やブロンテの「嵐が丘」の翻訳を手掛けるなど、多彩な活動で一世を風靡(ふうび)したようなのだ。1971年(昭和46年)。食道がんになって、その翌年4月に退院するも、2年後に再発する。そんな中でも、5月から哲学者の三木清を題材にした「捕囚」(未完)を口述筆記するという具合で、最後まで創作に取り組んだ、不屈の人であった。

(続く)

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◻️233『岡山の今昔』岡山人(20世紀、高木東六)

2019-05-08 22:01:33 | Weblog

233『岡山(備前、備中、美作)の今昔』岡山人(20世紀、高木東六)

 作曲家の高木東六(たかぎとうろく、1904~2006)の出身については、本人の弁があり、こういう。

 「米子市長に言わせると、「あなたは五歳まで米子市にいたのだから、からだにはもはや米子の空気がよく染み渡っているはずだ。従って高木東六は立派に「米子出身!」ということになるらしい。

 しかし、ぼくは五、六歳の幼児期、岡山の父の実家へも預けられたことがあるので、どちらも半分くらいずつのなつかしい思い出を持っている。」(高木東六「わが愛する岡山」、研秀出版の「ワイドカラー旅」のうち「山陽、山陰」、1975)

 父は、神父を務めていたという。なので、幼いころから聖歌を歌ったりで、知らずと音楽に親しんでいたようだ。やがて、東京音楽学校(現・東京芸大)に学ぶ。ところが、ドイツ音楽にはなじまず、フランス音楽に惹かれて中退する。フランスに渡り、パリで音楽を学ぶ。

 帰国してからは、依頼されて作ったのか、内務省や軍部なりに命じられてであろうか、「空の神兵」を作曲する。もっともかれは、日本ハリストス正教会に所属するロシア正教徒であり、聖名はギリシャ語による語源で「不死の者」の意味のアファナシイというとのことであり、その事との関係で良心に反することのようにも感じられるのだが。

 戦後になると、さぞかし自由を感じたのだろうか、歌謡曲「水色のワルツ」は、同時代の作品とは一線を画した明るいメロディーで、二葉あき子の歌によって多くの人の心を和ませた。

 その主なる作曲のジャンルとしては、交響曲、オペラ、シャンソンなど幅広かった。とはいえ、5つの音階しかない日本の演歌や民謡には批判的だったようだ。その気さくで明るげな立ち居振舞いから、テレビ番組「あなたのメロディー」(NHK)や「家族そろって歌合戦」(TBS系)の審査員としてもお茶の間に親しまれる

 そんな高木の岡山話から、したしげなところを、しばらく紹介しよう。

(続く)

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◻️211の29『岡山の今昔』岡山人(19~20世紀、矢野恒太)

2019-05-08 19:57:55 | Weblog

211の29『岡山(備前、備中、美作)の今昔』岡山人(19~20世紀、矢野恒太)

 矢野恒太(1866~1951)は、備前国上道郡角山村(現岡山市東区)に生まれる。1889(明治22)年には、第三高等中学校医学部(現在の岡山大学)を卒業し、日本生命保険に医員として入社する。1892(明治25)年には、退社。1894(明治27)年安田善次郎の要請により共済生命保険を設計、支配役就任する。1897(明治30)年には、共済生命保険総支配役となる。1898(明治31)年に、これまた退職。

 今度は農商務省に請われて入り、保険業法の起草に携わる。1899(明治32)年には、日本アクチュアリー会創立に尽力し、幹事(のち会長)就任。1900(明治33)年、同省において初代保険課長となり、1901(明治34)年の退官まで、つつがなく務めたという。

 そして迎えた1902(明治35)年には、日本初の相互会社としての第一生命保険を創業させる。これに至ったのには、かれが共済生命の設立のおり、ドイツへ留学して相互保険の研究をしたのが役立ったという。

 そんな「やり手」の矢野が保険業とは別に手がけたのは、「論語」の紹介と、統計集の発刊であった。なにしろ几帳面な性格にして、やることに真実味がこもっていたらしく、いずれも大当たりしたらしい。

 こうしたかれの幅広の取り組みの背景には、何があるのだろうか。そんな懸念を打ち消すかのように、「およそ人間の地位や名誉、財産ほどくだらないものはない。わしは無一文で生まれてきたのだから、無一文で死ぬのが理想だ」と言ってのけたらしい。これが本心からのものであるなら、この狭い日本はおろか、かの孔子をもしのぐ程の、稀代の大人物であるに相違あるまい。

(続く)

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◻️211の28『岡山の今昔』岡山人(19~20世紀、笠井信一)

2019-05-08 19:28:40 | Weblog

211の28『岡山の今昔』岡山人(19~20世紀、笠井信一)

 笠井信一(かさいしんいち、1864~1924)は、駿河国富士郡(現在の静岡県富士市)で生まれた。1892年には、内務属により官吏となる。その後は、山形県参事官、岩手県警務部長、台湾総督府、熊本県、岐阜県書記官と、そつなく務める。42歳で岩手県知事に抜擢されたおりには、財政再建に力を尽くしたという。岡山県知事には、1914年(大正3年)6月に着任する。1919年(大正8年)に栄転するまでの5年間を、岡山県第10代官選知事として行政任務を遂行していく。

 そして迎えた1917年(大正6年)には、岡山県令『済世顧問設置規定』を公布する。これに至ったのには、その前の1916年、地方長官会議で、大正天皇に「県下の貧民の状況はどうか」とたずねられたおり、答えられなかったという。

 岡山に帰っては、さっそく郡部では課税戸数、賦課等級の最下級すなわち1年平均6銭を負担する者、岡山市内では家賃月1円30銭以下の借家に居住する者を対象に、関連部署に生活状況に係る調査を命じる。すると、2万90戸、人口10万3700人、県内人口の10%は「極貧」であることがわかる。

 しかも、調査結果を市部郡部別で見ると、県平均は8・1%だが、浅口郡は12・4%、阿哲郡は1・2%と地域格差が認められたという。笠井は、「一片の訓令や漠然とした勧奨で恵の露に県民全体が潤うていた」と思っていたのを大いに恥じた、やに伝わる。
 そのことの重大さを認識してからというもの、日夜研究を重ね、ドイツのエルバーフェルト市でのコンセプトから着想し、かかる運びに至ったのだという。

(続く)

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◻️231『岡山の今昔』岡山人(20世紀、金重陶陽)

2019-05-07 10:24:36 | Weblog

231『岡山(備前、備中、美作)の今昔』岡山人(20世紀、金重陶陽)

 金重陶陽(かねしげとうよう、1896~1967)は、岡山県備前市伊部に窯元・金重楳陽(槇三郎)の長男として生まれる。本名は勇とある。

 この金重という姓だが、「備前六姓」(「窯元六姓」ともいう)の一つ。そもそもは、室町時代末期に遡り、成立した南、北、西の大窯を共同でもっていた陶工たちをいう。大(おお)あえ、金重、木村、森、寺見、頓宮(とんぐう)の六家のうち、前四者は、現在も陶業者として続く。

 1910年に伊部尋常高等小学校を卒業すると、細工物の名人と評されていた父について、備前焼に取り組み始める。作風は、細工物から茶陶へと向かっていく。
 1932年(昭和7年)になると、ロクロによる成形を始めたという。その後は、いろいろと工夫をこらしていく。1942年(昭和17年)には、川喜田半泥子、荒川豊蔵、三輪休和らと「からひね会」を結成する。
 戦後の1949年(昭和24年)には、備前窯芸会を結成する。続いての1952年には、備前焼の技術で国から無形文化財に選択される。1955年(昭和30年)には、日本工芸会の設立に参加する。
 そして迎えた1956年(昭和31年)には、重要無形文化財保持者(俗にいう人間国宝)に指定される、備前焼では最初であった。その翌年には、ハワイにて個展をひらく。1960年には、郷土での山陽新聞文化賞、岡山県文化賞を受賞する。1962年になると、日本伝統工芸展審査世紀、委員となり、その2年後の1964年(昭和39年)には、二度に渡りハワイ大学の夏期講座に講師として赴く。

 そんな金重の代表作としては、備前緋襷平水指、備前筒水指(1961年)、備前手鉢(1962年)、備前筒水指、備前壺(1959年)、累座壺(1965年)、備前緋襷平水指、備前陶板(1965年)などがあるというのだが。一つでよいので、直に、手にとって眺めたいものだ。

 なお、「緋襷」というのは、例えば、「ふつう赤く焼けるのが原則だが、燃料のマツの木の灰が付着してゴマを振りかけたようになったり、作品と作品のくつつきを防ぐためにワラをはさんで焼くと、その部分が酸化作用をおこして赤い形、つまり火襷ができたりする」(山本鉱太郎「備前焼のふるさと、千変万化の妖しい魅力」)といわれる。

 そんな中でも、とあるサイトに載っている「備前三角○座花入」を写真で拝見するだけでも、「癒し」というのではあるまいが。かなり落ち着く。ありがたいことだ。

(続く)

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◻️230『岡山の今昔』岡山人(20世紀、延原謙)

2019-05-07 09:14:19 | Weblog

230『岡山(備前、備中、美作)の今昔』岡山人(20世紀、延原謙)

 延原謙(のぶはらけん、1892~1977)は、京都市で生まれる。父の死後、1895(明治28)年に母、竹内文の生家津山に移る。本人は、母の伯母方の延原を継ぐ話になったという。

 津山中学校に進むが、在学中、家族とともに上京する。早稲田大学理工学部電気工学科に入学し、卒業後は大阪市電気部に入って、技師として電気関係の実務につく。

 この間、興味を持った欧米の探偵小説の翻訳を手がけるようになっていたらしい。1921(大正10)年、同郷の親友、井汲清治(慶大教授)の仲介により、雑誌「新青年」で翻訳家としてデビューをはたす。

 1928(昭和3)年には、横溝正史の後をうけて「新青年」3代目編集長となる。その後、「探偵小説」の編集長を務める。なかなかのやり手であったらしい。

 その後には、中国に渡り事業をしていたらしいものの、敗戦で無一文となって帰国する。それからは、「雄鶏通信」の編集長。1956(昭和31)年には、ミステリークラブを結成し、会長になるという行動の人として、名前を馳せていく。

 そんな延原が取り組んだのが、シャーロック、ホームズの翻訳であった。1953年から2年がかりで新潮社から発刊されていく。その評価については、例えば、こうある。

 「日本語に訳されたシャーロック、ホームズ物語は多種あるが、その六十作品すべてん独りの訳者が全訳された延原謙さんの新潮文庫は特に長い歴史があり、多くの人に読みつがれてきた。

 延原さんの訳文は展雅であり、原文の雰囲気を最もよく伝えていたが、敗戦後まもなくの仕事であったから、現代の若い人たちには旧字体の漢字を読むことができないなどの不都合が生じてきた。

 そこでご子息の延原展さんが当用漢字ややさしい表現による改訂版を出された。こうして、親子二代による立派な延原訳が、個人による全訳としては存在している。

」(アーサー、コナン、ドイル著、小林司、東山あかね訳「シャーロック、ホームズの事件簿」河出文庫、「はじめに」から引用、インターネットで一部が配信されているところ)

(続く)

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◻️229『岡山の今昔』岡山人(20世紀、片岡鉄平)

2019-05-06 20:23:17 | Weblog

229『岡山(備前、備中、美作)の今昔』岡山人(20世紀、片岡鉄平)

 片岡鉄平(かたおかてっぺい、1894~1944)は、なかなかに紆余曲折の作家だと言えようか。苫田郡鏡野町の生まれだ。津山中学に進んだというから、家は貧乏ではなかったらしい。その在学中、既に「文章世界」などの文芸誌に投稿していたというから、驚きだ。

 それからは、第六高等学校の受験に失敗して自殺を図ったりもあった。一旦こうと思ったら、突き進んでいくタイプなのかもしれない。今度は、上京して、慶應義塾大学仏文科予科に入学したものの、出席日数が足りなかったことから、中退したという。

 それで故郷に戻って、代用教員や山陽新報など色々と仕事を変えているうちにも、文学への情熱は冷めやらず、小説を手がけていく。そして迎えた1921年(大正10年)、雑誌「人間」に「舌」が掲載されると、一気呵成にと上京する。

 それからは、創作に励み連作を発表するとともに、横光利一や川端康成といった仲間とともに、「新感覚派」としての作家生活をしていく。その後、1928年(昭和3年)には、どういうきっかけであったのだろうか、プロレタリア作家の仲間入りをする。

 その頃の代表されるのが、「綾里村快挙録」に登場する「殿村賢治郎」であり、そのモデルとされる「野々村善二郎」については、こう語らせている。

 「彼は村の商人の子で、小学校時代から秀才だった。遠野の中学を経て、盛岡の高等農林を出るとすぐ、群馬県の農林学校の教諭になった。
 つい少し前に起こった群馬共産党事件は、彼をひどく刺激した。その頃の社会的状勢から考えると、そんな僅かな人間が、強勢な官憲を向うに廻して闘うということは、無鉄砲極まる暴挙であるように誤解されやすかった。何故彼らは不定の徒と罵られながら、生命を賭してまで権力と闘わずに居られなかったか?それは理想のための闘いだと、賢治郎はおぼろに解釈した。では、それほどまでに人を犠牲的ならしめ、熱情的ならしめるその理想は、何所から来るか?
 それが、若い賢治郎にとって興味ある問題となった。やがて彼は、目を瞠いて、周囲の現実を見るようになった。今までこれが現実だと教え込まれた現実とは、何とちがった世界に、彼は生きている事だったろう。」

 およそこれを読むに、かかる「殿村賢治郎」には、労働者インテリの役どころをあてがっているということであろうか。

 ところが、1932年(昭和7年)に、治安当局に逮捕、投獄されてしまう。第三次関西共産党事件によるものであり、取り調べには拷問という暴力がつきものであっただろう。「生命が惜しくなって転向したのだが。同時に、出獄したら世間から振り向かれもしないだろう」ということでもって「転向」を余儀なくされる。

 地獄を見て解放されてからは、大衆小説を書いていく。仏門に入って、「尼寺の記」を著したりしていたが、気持ちは、まだ晴れていなかったのかも知れない。

 顧みると、作家には、大きな可能性があったのだが、それを十分に花咲かせることなく、類い稀な記録文学の短編などにも、それらのことがうかがえよう。人間、この花のように生きよ、と天からいわれた気持ちがしても、現実にはなかなかに叶わぬものなのかもしれない。

 それからもう一つ、片岡の人生観を感じさせるような詞に、「海と大空の中の一点のわたしを孤独と思へ」とあり、津山市に北隣、鏡野町の公民館の前に、1951年(昭和26年)、友人の川端康成(新感覚派)の書で、これの詞碑が建てられている。


それからもう一つ、片岡の人生観を感じさせるような詞に、「海と大空の中の一点のわたしを孤独と思へ」とあり、津山市に北隣、鏡野町の公民館の前に、1951年(昭和26年)、友人の川端康成(新感覚派)の書で、これの詞碑が建てられている。

(続く)

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◻️9『岡山の今昔』造山古墳の謎

2019-05-04 22:05:32 | Weblog

9『岡山(備前、備中、美作)の今昔』造山古墳の謎

 造山古墳は、築造時期が5世紀前半に推定されている。古墳時代(3世紀末~7世紀初め)に全国で築造されている前方後円墳、およそ5,200基の一つだ。 

 この造山古墳は、全長350メートル、高さの31メートル、平面積約7.8ヘクタールの巨大な墳丘規模を形作っている。そして、約9.6ヘクタールの広大な墓域の中に築造されているとのこと。

 そもそも、古墳時代(3世紀末~7世紀初め)に全国で築造されている前方後円墳5,200基の内で、第4位の規模なのは、なぜか。

 一説には、雄略大王の治世、この古墳を造立した頃の吉備は、ヤマトを支える最大規模の首長であったと考える。つまり、勢力はヤマトと拮抗していたとはいえ、ヤマトにくみしていたとも。また、別の一説は、この古墳が、築造時には最大規模であったと考える。

 それというのも、第1位の大山古墳(伝、仁徳天皇陵=全長486メートル)と第2位の誉田御廟山古墳(伝、応神天皇陵=全長425メートル)の建造はこれより後の時期だと考えられる。また、ほぼ同時期と見られる第3位の石津ヶ丘古墳(伝、履中天皇陵=全長365メートル)を、ほぼ同規模だと見なせば、従来の全国最大規模の渋谷向山古墳(伝、景行天皇陵=全長300メートル)の規模を大きく上回るからだ。

 これらのうち通説では、前者の方が無難として採用されているかのようだが、決め手は述べられていない。そんなことから、想像を逞しくしてか、最大規模観の達成、少なくとも築造時に限れば全国最大規模と判断される。加えるに、巨大な前方後円墳の吉備での突如の出現をもって、単独ではないにしても。当時の倭国の政治体制の中心にこの地があったのではないか、ともいう。

 どちらが正しいのかは、今後の発掘などを待たねばなるまいが、吉備説の弱点としては、造山古墳のかなりが、盗掘もしくは破壊のため、かかる検証がなかなかに困難であることによるのであろう。

 参考までに、現時点での発掘調査では、こんな報道がされている。

 「岡山市教委が発掘調査を進める全国第4位の規模の前方後円墳、造山古墳(同市北区新庄下)で7日までに、後円部の墳丘を覆う大量の葺石が出土した。墳丘の斜面全体に葺かれていた築造当初の状況を保っているとみられる。築造時に地盤を整えたと推測される造成土なども見つかり、市教委文化財課は「墳丘の本来の姿や築造過程の解明につながる」としている。」(平松隆記者)」(山陽新聞、2018年11月8日付け)

 同記事によると、「2016年度(前方部)、17年度(後円部)のちでも葺石は見つかっているが、後世の破壊により墳端付近とみられる一部しか残っていなかった」とあり、それに比べ今回は、「葺石は後円部西側の試堀溝で確認。墳丘の斜面上に花こう岩の角礫(かくれき、一辺最大40センチ程度)が幅2メートル、奥行き1.2メートルにわたって隙間なく敷き詰められていた」とのこと。

 かような地道な調査の積み重ねのうちに、関係者の努力により、いつかこの巨大古墳の全容が明らかになっていくのを、心待ちにしている。

(続く)

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