206『岡山(備前、備中、美作)の今昔』岡山人(19世紀、阪谷朗盧)
阪谷朗盧(さかたにろうろ、1822~1881)は、幕府代官の手代であった父の家に生まれる。その家は、備中川上郡九名(くめい、現在の井原市美星町)にある。その父について大和・大坂に移り、大坂ではかの兵法家にして、儒教の一派、陽明学者にして実践哲学の大塩平八郎に学ぶ。さらに1838年(天保9年)には、江戸に出て、昌谷精渓(さかやせいけい、同郷)、古賀庵に漢文なとを学ぶ。
1848年(かえい元年)に母の病気の知らせを受けての帰郷後は、伯父の山鳴大年の援助を受け、桜渓塾を開いて近隣の子弟を教える。儒学を丁寧に教えることで、評判をものにしていく。
その後、領主である一橋家の代官友山勝次によって開校された郷校「興譲館」の初代館長として招かれる。既に、高名であったらしい。その興譲館は、1853年に開校したもので、弘道館(水戸)、明倫館(萩)と並んで、幕末の「天下三館」と謳われた。なかなかの人気であったらしい。なお、この学舎は、学校法人興譲館高等学校として現在に続く。
明治になってからの1870年(明治3年)には、広島藩主に従って東京にでる。維新政府の役人に取り立てられ、要職をこなしていく。その間には、福沢諭吉らの立ち上げた明六社に参加し、雑誌に論文を寄せる。1879年(明治14年)に退官してからは、自宅で春崖塾を開き、教育にあたる。
それから、阪谷が1868(明治元)年に館長職を退いた興譲館だが、その組織は私立学校から社団法人となり、さらに1926(大正15)年には財団法人となり、この地域に根を張っていく。
かかる財団設立当時、その運営規則「寄付行為」に記される館の目的については、こうある。いわく、「永久私立学校として学問の自由を尊重、社会各般の真理を研鑽し、知徳体兼備の人材を養成、人類の安寧幸福を増進する」となっている。そして今では、阪谷が館長を務めた当初の校門は後に岡山県の史蹟に指定されているとのこと。
その人生をつうじ、漢文だけでなく、多方面の学問に精魂を傾けるとともに、その人柄は優しいものであったと伝わる。
(続く)
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆