地元を代表する新聞は、次のような記念行事のあったことを、伝えている。
顧みれば、1183年(寿永2年)閏10月1日の源平の水島合戦の時には、日食が起ったことが、「源平盛衰記」や、同日の九条兼実の日記「玉葉」に記してある。
もしこの通りであったなら、源氏軍は日食とは知らず突然の暗闇に混乱をきたす。平氏軍は、天文方から、日食のあることを事前に知っており、この時とばかりに、混乱した源氏に襲い掛かかったことになるのだろうが。
(続く)
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95『岡山の今昔』備中高梁(~戦国時代、領国支配をめぐって)
ここに最初に居城していたのは、備中の有漢郷(現在の上房郡有漢町)の地頭であった秋庭重信(あきばしげのぶ)であった。この居城、秋庭氏(あきばし)が5代続いた後の元弘年間(1331~33)には、高橋氏にとって替わり、高橋九郎左衛門宗康が城主となる。おりしも南北朝の動乱期の只中で、宗康は松山城の城域を大松山から小松山まで拡大し、外敵の侵入に備えた。この九郎左衛門にちなむ逸話としては、自分の名前と地名が同じなのは気に入らなかったのか、高橋改め松山と号す。
ところが、明治になってこの松山が伊予国の松山と紛らわしいという声が上がる。一悶着(ひともんちゃく)があったのかどうかはつまびらかでないものの、結局は、前々のものとは区別する意味も込めてか、橋梁もしくは中国王朝にあった「梁」(りょう、中国語名では「リアン」)にあやかってか、梁を採用することにし、高梁(たかはし)で落ち着いたらしい。
ここで話を戻して、さらに戦国に入っての1533年(天文2年)、備中の猿掛城主だった庄為資が尼子氏と組んで、備中松山の覇権を握っていた上野信孝を破り備中松山城を取り込んだ。同じ頃川上郡・鶴首城や国吉城を拠点とする三村氏もまた、備中への進出の機をうかがっていた。三村氏はまた、庄氏のバックである鳥取の尼子氏(あまこし)と敵対関係にあった。そこで西の毛利氏と連絡し、この力を借りて松山城へ侵攻しこれを奪取した。
備中に拠点を得た三村氏は、その余勢をかりて1567年(永録10年)、備前藩宇喜多直家の沼城にまで足を運んでこれを攻め立てるのを繰り返していた。さらに三村家親が備前、宇喜多家攻めで美作方面に出陣中、刺客に襲われ、落命するという珍事が起こる。
その後を継いだ子の三村元親は、よほど悔しかったのだろうか、1568年(永録11年)に弔(とむら)い合戦のため再び備前に攻め込む。一説には、総勢2万の軍勢を三手に分けて、5千を擁する宇喜多勢を撃破しようとしたのであったが、かえって地の利のある宇喜多勢に撃退されてしまう。この合戦を、「明禅寺崩れ」(みょうぜんじくずれ)と呼ぶ。
この大敗によって敗走した三村氏であったが、その後の毛利氏の援助により、松山城を拠点とし何とか勢力をつないでいく。この同じ年、三村氏に率いられた備中の軍勢が毛利氏の九州進攻に参加していた隙をつき、宇喜多直家は備中に侵攻した。
備中松山城を守る庄高資や斉田城主・植木秀長などは、この時に宇喜多側に寝返った。猿掛城も奪還されることとなり、ついに備中松山城を攻撃し庄氏を追い落とした。それからは城主であった三村元親が高梁に戻って奮戦、備中松山城をようやく奪還し、同城に大幅に手を加えて要塞化するのだった。
そして迎えた1574年(天正2年)、毛利氏の山陽道守将で元就の三男の小早川隆景が、宇喜多直家と同盟を結んだ。このため、宇喜多氏に遺恨を持つ元親は毛利氏より離反するのを余儀なくされる。あえて孤立を選んだ当主の三村元親は、叔父の三村親成とその子・親宣などの反対を押し切り、中国地方に進出の機会をうかがう織田信長と連絡するに至る。戦いの火蓋が切られると、備中松山の城ばかりでなく、臥牛山全体が要塞化される。
この城が毛利軍に包囲されて後は、内応する者が次々と現れる。明けて1575年(天正3年)には、最後まで残った家臣の説得により、三村元親はついに、本拠地の備中高松城を捨てることに決める。落ち延びていく途中で、その元親が死んだことにより、三村氏は滅びた。
こうして、備中松山城と三村氏の領地は、ついに毛利氏の支配下に編入された。この一連の戦いを、備中全体を揺るがしたという意味を込め「備中兵乱」(びっちゅうひょうらん)と呼ぶ。
(続く)
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119の2『岡山の今昔』い草と敷物(近世から明治へ)
い草というのは、日本の上代から栽培されていたようで、岡山の地にでの生産については、いつの時代からであろうか。
さて、いつの頃からか、い草はどんな風に作られてきたのだろうか。今時、農業カレンダーのような案内があるのか知らないが、い草は7月上旬に、い苗を畑に植えつけるのだという。その畑で育った苗の株を12月に小さく分けて、田に水を張って植え替えるとのこと。株がかなり増えての5月の中旬頃の短期間に、先刈りを行う。先刈りを行うのは、株を増やし、新しい芽を伸ばすためらしい。これは、コメづくりとは、異なる。
やがての6月の梅雨時ともなれば、成長してかなり背丈が増しているのであろう、雨や風でい草が倒れないように網かけを施す。そして迎えた7~8月の炎天下を選んで刈り取りが行われるとのことで、さぞかし重労働なことであるに違いない。刈り取ると同時に、染土を水に溶かした液の中に入れる、これを泥染といい、あの、くすんだような色がつくのだと説明がなされる。
およそこのような次第で栽培されてあろう、い草が、温暖な、広い意味での岡山平野で盛んに栽培され始めたのは、江戸時代からであるとのと。倉敷の庄村・茶屋町地域を中心に、すでに全国有数の産地になっていたらしい。同時に、畳表やゴザ類といつた製品化にも力が注がれていったようだ。
それが明治時代に入っては、まずは製品化に欠かせない撚糸機や織機の研究や改良が行われたり、製品の高付加価値化が目指されていく。中でも、精緻な色柄・紋様で知られる、高級花筵(かえん)としての「錦莞筵(きんかんえん)」(本ブログ中、列伝の項目「磯崎眠亀」に詳しい)が発明され、我が国の殖産工業に大いに貢献していく。
(続く)
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119の2『岡山の今昔』い草と敷物(近世から明治へ)
い草というのは、日本の上代から栽培されていたようで、岡山の地にでの生産については、いつの時代からであろうか。
このい草が、温暖な、広い意味での岡山平野で盛んに栽培され始めたのは、江戸時代からであるとのと。倉敷の庄村・茶屋町地域を中心に、すでに全国有数の産地になっていたらしい。同時に、畳表やゴザ類といつた製品化にも力が注がれていったようだ。
それが明治時代に入っては、まずは製品化に欠かせない撚糸機や織機の研究や改良が行われたり、製品の高付加価値化が目指されていく。中でも、精緻な色柄・紋様で知られる、高級花筵(かえん)としての「錦莞筵(きんかんえん)」(本ブログ中、列伝の項目「磯崎眠亀」に詳しい)が発明され、我が国の殖産工業に大いに貢献していく。
(続く)
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1の4『岡山の今昔』吉備高原面と瀬戸内面
その中でも、高梁市内を中心とした川上町、備中町、成羽町、宇治町あたりは、高原上に開稜線や山頂の高度がだいたい揃って、さながら連続した台地のような形状をしている。これは、今から500万年前頃~260万年前頃のこと、地層の隆起とともに、かかる台地が浸食されて台地状の高原と小規模な谷を形成していったと考えられている。
19の2『岡山の今昔』吉備の文化(「万葉集」など)
192の3『岡山の今昔』岡山人(19世紀、太田辰五郎と土屋源市)
太田辰五郎(おおたたつごろう、1790~1854)は、阿賀郡千屋村(現在の新見市千屋実)の鉱山業を経営する家庭に生まれる。「たたら山」を10以上もつなど、よほどの裕福であり、大名への貸金や貧民救済事業を行っていた。
1831年(天保2年)には、父、正蔵の家業を継ぐ。辰五郎は、父に引き続いて、儲けの一部を地域に還元することを行う。1833年(天保4年)とその翌年には、凶作であった。そのおりには、辰五郎は、銀10貫と小割鉄200束を、領主に上納する。
その一方では、莫大な資産を背景に牛の改良を行おうとする。元来小型種であった千屋牛を、大型で丈夫なものに改良していく。
その種の牛は「大赤蔓(おおあかつる)」といい、役肉用牛として人気を博す。
そして迎えた1834年(天保5年)、辰五郎は、自宅脇の敷地に千屋牛馬市を開設する。完成した千屋牛の販売促進のためであったのだが、これが当たる。
以後、毎年この市に集まる人々の評判によって、千屋牛の名は全国的に知られるようになっていく。また、牛市自体も農繁期の後に開催されたので、芝居や露店が集まり、次第に大変な賑わいとなっていく。
(続く)
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232の3『岡山の今昔』岡山人(20世紀、藤原雄)
藤原雄(ふじわらゆう、1932〜2001)は、備前焼の人間国宝、藤原啓の長男として、備前市の穂浪に生まれる。1955年(昭和30年)に、明治大学の文学部を卒業すると、雑誌記者を1年余り勤める。そして、故郷に帰る。父に師事して備前焼の世界に入る。
その作陶にあたっては、人柄にも似ていたのだろうか、「単純にして明快、かつ豪放」がモットーであったと伝わる。壺や鉢類を多くなし、中でも「壺の雄」として語られる。また、北大路魯山人の影響を受け、食器も得意にして手掛ける。
1972年(昭和47年)からは「百壺展」や「徳利とくり展」、また「百花展」「百鉢展」など、シリーズ化して開催したのだという。思い込んだら、離さない、豪快な人であったのねはないか。
1967年(昭和42年)には、日本陶磁協会賞を受賞する。1980年(昭和55年)には、県指定重要無形文化財保持者となる。1996年には、日本の陶芸部門で、初めて親子二代の国指定重要無形文化財保持者(人間国宝)となる。
代表作としては、やはり壺であろうか。備前焼の伝統、歴史においては、この種のものが一番に、人々の日常生活に根差しており、堂々とした作陶にかける気概が色濃く感じられる。画集で拝見するだけなのだが、16~17世紀に作者不詳にて作られた壺のような、切れ味の鋭さを覚える。
(続く)
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232の2『岡山の今昔』岡山人(20世紀、山本陶秀)
山本陶秀(やまもととうしゅう、1906~1994)は、岡山県和気郡伊部町伊部(現在の備前市伊部)に農家の次男として生まれる。本名は、政雄。1919年(大正8年)に、伊部尋常高等小学校を卒業する。
その2年後、伊部の窯元、最大手の黄薇堂の見習いとなる。さらに2年後、伊部の窯元、桃渓堂へ移る。主に、花器、花入れ細工物などを作る。1933年(昭和8年)、伊部に開窯して独立を果たす。1938年(昭和13年)には、楠部禰弌に入門する。
1939年(昭和14年)には、第6回中国四国九県連合工芸展に花入れを出品する。戦時中には、軍需省の仕事をしていたという。
戦後の1948年(昭和23年)には、国の技術保存認定を受ける。1954年(昭和29年)には、岡山県重要無形文化財作家に指定される。1959年(昭和34年)には、ブリュッセル万国博覧会に「緋襷大鉢」を出品する。同年、日本伝統工芸会の正会員となる。
鈍い、赤みを帯びたとっくりとか、茶碗とかには、なぜだろうか、温かさを感じる。同じ備前焼での、17~18世紀の作者不詳の「緋襷おおざら」(ひだすきおおざら)などにも、連想が広がる。「轆轤の達人」の異名の由来など、教えてもらいたい。
(続く)
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