○504の1『自然と人間の歴史・日本篇』元号と国歌と日本の文化

2019-11-12 21:35:39 | Weblog

 

504の1『自然と人間の歴史・日本篇』元号と国歌と日本の文化

 2016年からは、天皇の生前譲位の意向を受けての、新元号制定の話が広がりっていった。その法的根拠だとされる元号法には、こうある。
「1、元号は、政令で定める。
2、元号は、皇位の継承があつた場合に限り改める。
附則
1、この法律は、公布の日から施行する。
2、昭和の元号は、本則第一項の規定に基づき定められたものとする。」 
(法律第43号(1979年6月12日))
 では、これまでどんなやりとりが為されてきたのだろうか。顧みるに、この元号法制化の時には、幾つかの論点が出された。具体的には、敗戦から30年余りが過ぎた1979年2月、皇位継承があった場合に改元すると定めた元号法案が、政府(大平正芳首相)により国会に提出された。

 毎日新聞(2017年1月6日付け)に、その時の論点整理がしてある(表の紹介に当たっては、筆者により適宜、番号、句読点などをつけてある)。

 「(1)法制化について。政府・与党:「元号制度を明確で安定したものとする。」/社会・共産党:「天皇を神格化させることによって、戦前の天皇主権へ道を開く。」
(2)法制化後の元号の扱い。政府・与党:「一般国民に元号の使用を義務づけているわけではない。」/社会・共産党:「事実上の強制が行われようとしている。」
(3)一世一元制について。政府・与党:「象徴天皇と国民とを結ぶ深いきずなとしてふさわしい。」/社会・共産党:「絶対主義的天皇制の専制支配を支える役割を果たしてきた。」
(4)元号は文化か。政府・与党:「わたしたちの日常生活に根をおろしている尤も身近な国民文化。」/社会・共産党:「法制化しなければ存続し得ないものは、受け継ぐべき文化の名に値しない。」
(5)憲法との関係。政府・与党:「憲法は象徴天皇制を定めており、憲法違反は生じる余地がない。」/社会・共産党:「憲法の国民主権の清新に反する。」」
 これらの5項目の論点の他にも、「西暦で充分」とか、「日本でだけしか通用しない元号では、西暦との換算が大変」、「元号は天皇の一代限りであるこので、元号間の通算でもわかりづらい」、さらに「国際化時代において元号に拘るのはわからない」など、多様な意見が国民から出されていた。

 かつて、財政学者の大内兵衛(おおうちひょうえ)は、元号存続に難色を示していた(『1970年』もしくは『実力は惜しみなく奪う』などの評論集を参照されたい)。彼があえて述べたのには、いわゆる「元号問題」は政府や著名人から成る「有識者」が議論し決めて、上からおろすものでなく、主権者である国民がどうするかを決めるべきだとの思いからであった。
 かたや、新聞紙上では、国民からの意見がチラホラながら散見される、その中から、一つ紹介しよう。
 「天皇陛下の退位を巡り、新元号に関する議論が進んでいる、2019年1月1日付で新元号にする案もあるようだ。
 しかし、私はあえて言いたい。国民生活への影響を最小限に抑えるというのなら、いっそ元号を廃止すべきだ。そして今後は西暦一本でいけば、国民の利便性は確実に高まると思う。
 現在は、元号と西暦が併用され、特に役所関係の書類は、元号しか書かれていないことが多い。ケースに応じて西暦を元号に換算したり、その逆をしたりすることが、どれほど面倒か。元号を廃止した場合、どれほどの不便があるのか、私にはわからない。
 そもそも、もうわが国は天皇主権の国ではない。国民主権となって70年が経つ。天皇が代替わりしたら元号を変えるという制度は時代錯誤もはなはだしく、民主主義にもそぐわない。
 国民生活を不便にする上、日本はあたかも天皇が治める国であるかのような錯覚を生じさせる元号は、この機に根拠となる元号法とともに廃止する勇断をすべきだと思う。みなさんの意見を知りたい。」(2017年1月18日つ付け朝日新聞、『声』欄、H氏)

 その後のことだが、2019年には、それまでの元号「平成」が、「令和」になり変わった。以来、これを「西暦」に替え第一に用いたり、唱えたりする向きがかなり多いようだ。もちろん、私生活では、これまで道り各人の自由にすればよいのだが、社会で時をいう場合には、不便さがつきまとう。

 それというのも、21世紀に入った現代では、「西暦」はもはや「世界暦」として大抵の国や国際機関で用いられている。東洋の、我が国に近くでは、中国や朝鮮の二つの国もそうしている。この道理とは、すでに1970年の大内兵衛も提唱したのであって、今さらのことではない。かれは、当時、保守層からも一目おかれる存在としてあり、国際感覚にも長けていた。

 しかして、時代は変わったのかもしれないが、その変わりようが、日本人の国際感覚の後退と軌を一つにしていると思う。あの中華思想であった中国でさえ、現在に通じる建国後は、「世界暦」を用いている。かの国のような、「四千年」の歴史を世界に認められているところがそうなのに、文明ということでは、その半分かそこらの歴史しか持っていない我が国が、なぜ「日本暦」にこだわり続けるのであろうか。

 ちなみに、仏教学者の中村元(なかむらはじめ)は、我が国ではじめて仏陀の肉声を体系的に伝えた。その彼は評論にて、日本人の権威や権力に対しての受動性、その民族としてのひ弱な特徴を指摘している。彼の偉大なところは、最晩年において、日本の伝統的な「縦社会」の中での、天皇を頂点とする、人間存在のクラス分け(この場合、天皇その人はその体制的な人間支配に利用されているのではないか)に、あえて警鐘を鳴らす一筆を投じたことにあろう。

 そこでもし、元号の制度が、これからの日本、日本人の精神世界を狭める傾向を持つとするならば、憲法がこの国の主権者であると認める日本国民は、これの暴走に民主的な方法で、その運用に歯止めをかけるべきではないか。かの福沢諭吉の、「天は人の上に人をつくらず、人の下に人をつくらず」とは、額面道りの解釈であらねばなるまい。

 はたして、この種の問題は、優れて日本の文化と関わりがあろう。それらは、国民の間で大いに議論すべきであって、立憲君主制ではなく国民主権の戦後体制の今、遠慮すべきではあるまい。国の未来は、国民自身が責任を持って切り開いていくべきものだろう。

 元号法制化からはや30年以上が経過し、世界での日本を取り巻く状況も大きく変わった。元号も日本と日本人の持つ一つの文化であるというだけで模様眺めでいるなら、これを巡っての変化はこれから、さらに大きなものになっていくであろう。

 また、これに関連した出来事として、この度の天皇の即位式についても、簡単に触れたい。それというのも、新たな天皇が2019年10月の「即位礼正殿の儀」で昇った「高御座」(たかみくら)というのは、八角屋根の頂点に、鳳凰(ほうおう)という中国古典に出てくる伝説上の生き物がくっ付けてあると伝わる。

 参考までに、これまでは、天皇の代がわりの際に挙行されてきた最初の新嘗祭(にいなめさい)のことを「大嘗祭」(だいじょうさい)といい習わしてきた。国家と人民の安寧や「五穀豊穣」を願って行う、とされてきた。そして、かかる儀式に用いられる主要な舞台が高御座なのであって、これに新天皇が昇って即位の儀式を行う。その大元をたどれば、中国の古代王朝が代がわりに泰山に登り行っていた「封禅の儀」なのであろうか。今回のそれの高さは約6.5メートル、重さは約8トンもあるというから、驚きだ。

 ついては、8世紀になりまとまる日本神話との関係にて、この一大構築物が天上世界とを繋げる空間だというのなら、もはやこの地球上の物理法則は役に立たないであろう。そればかりか、これを作らせたのは時の政府であり、国税が投入されたというのであって、そうなれば憲法で定められている政教分離との関係はどうなるのだろうか。

 ちなみに、これを擁護する説からは、「大嘗祭は皇位継承に不可欠な伝統儀式を行うことが目的で、効果も特定宗教の援助に当たらないから、憲法違反ではない」(日大名誉教授の百地章氏の弁、2019年11月15日付け毎日新聞での4人の専門家へのインタビューから抜粋)という。だが、このような論理付けでもって人々を説得できるほど、世界は狭くない、近代世界では文句なしの政教分離なのであって、決して通用しないであろう(たとえば、アメリカ第2代大統領ジェファーソンの所見を参照されたい)。

 また、これを「現実にはあり得ない」とする人(筆者を含む)の中には、「表だっていえば、睨まれる」と非公式な場を選んで述べたり、「真実を語ると我が身が危なくなる」、さらには「生きるため」肩をすぼめているしかないなどと、心配げに語る人もいるなどして、今更ながら、この国は「時代閉塞」に向かっているかのような感じがしてならない。

 もう一つ、いわゆる国旗国歌法(こっきこっかほう)は、1999年8月13日に公布・即日施行された。
 「第1条 国旗は、日章旗とする。
第2条 国歌は、君が代とする。
附則、施行期日の指定、商船規則(明治3年太政官布告第57号)の廃止、商船規則による旧形式の日章旗の経過措置。
別記 日章旗の具体的な形状、君が代の歌詞・楽曲。」
 国旗は、平たくいうと「日の丸」で、要は太陽によって命を吹き込まれている国という意味合いであろうか。デザインや単なる配置のことではない。大まかな輪郭として、この国の太陽との関わりの一断面を切り取って図案化したものだと考えている。
 もう一つの国歌を巡っては、賛否両論がある。戦後、純粋な音楽論を展開してきたのは、多くは反対論の側であって、その一つにこうある。
 「よい楽曲は、言葉(歌詞)とメロディーがよく合っていて、自然に聞こえなければなりません。海が膿(うみ)になっては困ります。これを歌うと、君が代は、でなくてどうしても君がぁ用は、と聞こえます。それに音楽的フレーズが、千代に八千代にさざれ、で切れて、さざれ石という言葉が、さざれ、と石、と真中で割れてしまうように、歌われやすいのです。最後の所、こけのむすまで、が、むうすうまああで、と無理な引き伸ばしが、さらにこの曲を不自然なものにしています。

 要するに、歌詞の長さとメロディーの長さが全くつりあわず、メロディーに較べて歌詞が身近すぎるので、無理に引き伸ばしているのです。ですから、この曲を大勢で歌うと、お経のように意味がわからなくて、間のびした、だらしのない感じになってしまいます。」(中田喜直『メロディーの作り方』音楽之友社刊)
 ここに述べられるのは、楽曲としての『君が代』には、「歌詞の長さとメロディーの長さが全くつりあわず、メロディーに較べて歌詞が身近すぎる」という、作曲の上での問題が認められる、だから、『君が代』は歌としていい歌ではないことになっている。要するに、日本伝統の音楽というのは自然に歌え、かつ意味が通じるものなのであって、『君が代』が日本伝統の音楽であるというのは間違いだ、というのである。
 その一方で、『君が代』の歌詞は、雅楽朝のメロディーであってこそ冴(さ)え冴えとする、という擁護論がある。また、既に長いことこの歌を耳にし、時には歌っている向きにあっては、「親しみが感じられる」「馴染みがある」との声も根強くあることだろう。

 げんに、オリンピックの表彰式で日の丸が掲揚され、国歌のメロデイーが流される時、それを口ずさんでいる国民は、相当数おられるのではないかと推測する。それでも、この歌の歌詞が、人びとが権威にひれ伏す類から完全に逃れているとは言い難い。また、メロディーも、日本の山河や晴れたる平野の美しさなりを思い起こさせてくれるような響きがあればよいのだが、それがない。

 やはり、国歌というのは、この先の大いなる国民の経験の中で(それには、いみじくも先の東日本大震災において、秀麗な「花は咲く」の歌が自然に広まったようにして)、国民の大いなる体験とその中から生まれるであろう、国民総意の見守る中で創られてゆくものではないかと考えられるのである。


(続く)

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◻️99『岡山の今昔』新見から高梁へ(旧川上郡と旧阿哲郡)

2019-11-12 20:16:41 | Weblog

99『岡山の今昔』新見から高梁へ(旧川上郡と旧阿哲郡)

 新見から高梁にかけての南下ルートに対し、その西に位置しているのが、旧川上郡、旧阿哲郡であり(前者は後者の南に位置する)、現在は前者が高梁市、後者が新見市に属す。
 まずは、新見から南西方向に迂回して、吹屋(ふきや、高梁市に合併前の川上郡吹屋の町)を通って山陰と山陽とを結ぶ陸路のルートが栄えた。
 まずもっての阿哲台(あてつだい)は、標高は約500〜600メートルの台地をなす一帯なのだが、その地質基盤としては、阿哲石灰岩層群(元の秩父古生層)と三郡変成岩類(変成された秩父古生層)の二つの地層から成るという。それぞれの厚さは1500mの内、石灰岩層は600mほどもあるという。台地の中央を南北に流れる複数の河川によって、石蟹郷台、草間台、豊永台、唐松台の四つに分かれているとのこと。
 次には、そこから成羽(高梁市に合併前の川上郡成羽(なりわ)町)にかけて地形に目を向けてみよう。このあたりは、その独特の地形と近世の鉱山町・吹屋で広く知られる。
 先ず地形の由来から述べよう。ジュラ紀末(約1億9960万年前~約1億4550万年前、中生代三畳紀の次で白亜紀の1つ前にあたる、恐竜の時代にかなり重なる)に陸化したであろう日本列島は、その前の古生代の昔から、その後の新生代中新世になって日本海ができるまで、長らく東アジア大陸の一部を成していた。

 この間の列島の有様、その変化については、興味深いことが色々とわかっており、ここではその中から一つ、現在の岡山県西部、旧川上郡の町であるところの大賀(たいが)地区では、日本列島全体でも珍しい、古代の地形が見られる。その名を「大賀デッケン」という。
 ちなみに、地質学では、地層が切れた際の衝上面と水平面との角度が40度以上である場合を押し被せ断層と呼び、それ以下の低角度をデッケン(Decken)あるいはナッペ(Nappe)と呼ぶ。
 ここに大賀という土地名は、地名で滝がある「大竹」と、「仁賀」とを併せた由来となっているらしい。その大賀から徒歩2~3分の距離で仁賀の家並みがある。道は、岡山県道294号線を辿って現地にさしかかる。この場所には、領家川が流れている。この川は成羽川の支流であって、領家川流域の吉備高原に位置するところだ。
 現地に建つ案内板には、こうある。
 「天然記念物 大賀の押(お)し被(かぶ)せ(大賀デッケン)、昭和12年6月15日国指定
 海流や河川流によって運搬された土砂などは、その運搬作用が止むとき堆積し、地層を形成する。一般に地層が上下に積み重なるとき、上に重なった地層は下にある地層よりも新しい。ところがこの大賀地区では中生代の三畳紀(約2億年前)に堆積した新しい地層(成羽層群)の泥岩・砂岩の上に古生代の石炭紀・二畳紀(約三億年前)に堆積した古い時代の石灰岩層(秩父古生層)が重なり、新旧の地層が逆転した「押し被せ構造」となっている。
 このめずらしい地質構造は中生代の白亜紀(約一億年前)に起こった大規模な地殻変動によってできたものである。このとき地層は横からの大きな力で押されて、上にふくらみ、さらにふくらんだ部分が倒れこんだり(横臥褶曲)、ずれたり(衝上断層)し、そのあと上部の地層が削られ、その結果残った部分が現在の姿となっているのである。
 現在も、この石灰岩層と泥岩層との境界部は河床に明瞭に見られる。この露頭は大正12年東京大学の小澤儀明博士によって発見された。
 なお、以上の説明とは別に、秩父古生層は隆起して浸食を受けさらに沈降し、その後この地層の上に成羽層群が堆積したという考えもある。文部省 岡山県教育委員会 川上町教育委員会」
 これにあるように、中生代三畳紀(その中のざっと約2億年前と見られる地層)の泥岩、砂岩の地層(成羽層群(なりわそうぐん)といって、現在の川上町)の上に、古生代石炭紀ペルム期(ざっと約3億年前)、二畳紀の石灰岩の地層(秩父古生層)が覆いかぶさって、地層の逆転がおこっている。
 「このとき地層は横からの大きな力で押されて、上にふくらみ、さらにふくらんだ部分が倒れこんだり(横臥褶曲)、ずれたり(衝上断層)し、そのあと上部の地層が削られ、その結果残った部分が現在の姿となっている」というのであるから、その原因となった中生代の白亜紀(約1億年前)に起こった大規模な地殻変動の、より詳しい解明が期待される。

 参考までに、そこでの吹屋については、観光ではあのベンガラ屋根の家並みが有名だ。いまでこそ甚だ淋しい集落であるが、807年(大同2年)の開削以来明治の頃までは、日本屈指の銅山の一つであった。江戸期には、泉屋(後の住友)、福岡屋(後の大塚)、三菱などの大店(おおだな)が銅山の採掘で巨万の富を生み出していた。
 具体的には、備中吹屋の銅山すなわち吉岡銅山は、大坂の商家であった住友家が開発した銅山の一つであった。住友にとっては、1691年(元禄4年)に開坑した四国の別子銅山が有名であるが、当時はそれと並んで、1681年(天和元年)から吉岡銅山が、同1684年(天和3年)に出羽最上の幸生銅山が開発されており、住友の重要な財源となっていた。これらのうち吉岡銅山は、のちに地元の大塚家の手にわたり、しだいに鉱脈が細りつつも、幕末まで採掘を操業した。当時のこの地は江戸幕府直轄の天領だった。

 1873年(明治6年)になると、その経営は三菱が買収するところとなり、同社の下で近代的な技術を導入、地下水脈を制して日本三大銅山に発展させたことになっている。地元の資料によると、この山間の地に最盛期には約1600人もの従業員が働いていたというのだから、驚きだ。1929年(昭和6年)に休山したものの、どういう成り行きであろうか、第二次世界大戦の敗戦後に採掘を再開し、以来ほそぼそと操業を続けていた。1972年(昭和47年)、海外からの良質で安価な銅鉱石の輸入増大に推される形で閉山した。
 なお、かかる旧川上郡には、旧成羽町の西隣に旧備中町があり、さらにその南が、旧の川上郡川上町が位置していた。

(続く)

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◻️128の4『岡山の今昔』玉野市

2019-11-11 20:18:03 | Weblog

128の4『岡山の今昔』玉野市

 玉野市は、岡山県の南端、児島半島の付け根にある、玉野港を玄関として発達した臨海工業都市だ。市域はやや東西に細長く、海岸部には花崗岩質の山麓が連なる。

 ぐるっとの海岸線は相当に複雑にして、そのあたりの平地は多くない。近年は、海岸部の埋立造成地を中心に、岡山や倉敷に通う人びとの住むベッドタウンがひろがる。
 現在の人口は約6万3千人だが、かつての高度成長期のような「企業城下町」のような賑わいは感じにくい。それでも、かつての基幹産業である造船業、鉱業などは息を吐いており、観光業などの新しい産業も育ってきているという。第一次産業でも、かねてからの農業に加え、地域住民のアイデアで特色ある加工品が登場し「お宝たまの印」としての玉野ブランドを認定しているとのことであり、頼もしい。
 交通ということでは、国道30、430号を骨格として、体系的な道路網が形成されているというし、鉄道ではJR宇野線が走り、バスでは路線バスが運行され、市内の要所を結び、さらに地域間交流促進を目的にコミュニティバスも運行されてもいると聞く。
 それが今、人びとの耳目を集める、次のようなニュースが伝わる。

 「宇高航路(玉野市・宇野港―高松港)を唯一運航する四国急行フェリー(高松市)は11日、12月16日からの航路休止届を国土交通省四国運輸局に提出した。同運輸局は受理した。宇高航路は1910(明治43)年に国鉄連絡船が就航して以来、本州と四国を結ぶ主要航路だったが、109年で歴史を閉じる。瀬戸大橋との競合などで業績が悪化し、維持が困難になった。(中略)

 同社によると、2014年の瀬戸大橋料金水準引き下げなどの影響でフェリー離れが加速。利用者が少ない夜間・早朝便の廃止などコスト削減を進めたが、岡山、香川県と玉野、高松市から補助金を受けても収支が改善しなかったという。

 同航路にはグループ会社が1956年に参入。四国急行フェリーに移管された2013年度は1日22往復し、年間約43万人が利用した。減便を重ね、18年度は5往復、約14万人にまで落ち込んでいた。

 宇高航路は瀬戸大橋開通直後は3社が運航していたが、12年までに2社が撤退していた。(2019年11月11日付け山陽新聞デジタル版)

 さて、ここでの農業での話を一つ、紹介しよう。岡山市の灘崎町と玉野市の一部を指して備南地区と呼んでいて、このあたりの大方は、児島湾の干拓地でできている。ここで生産される千両ナスは、農家の大事な収入源だ。このナスの特徴としては、包丁を入れると、濃い紫色の切り口が出るのだ。この一帯が干拓地であるため、土壌は粘土質で粘り気とミネラル分を多く含んでいる。なので、モチモチ感があって美味しいとの評判とのこと。これが当たって、急速に作付け面積が拡大してきたらしい。


(続く)

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◻️141の6『岡山の今昔』新庄村(真庭郡)

2019-11-10 11:39:41 | Weblog
141の6『岡山の今昔』新庄村(真庭郡)

 新庄村(しんじょうむら、真庭郡)は、岡山県の西北端にある、山間の地だ。1872年(明治5年末)の村政施行以来一度の合併もなく、英田(あいだ)郡の西粟倉村や、関東でいうと埼玉県で唯一の村である、東秩父村などとともに、何かと人々の耳目を集める。
 北側の尾根に向かうと、中国山地が間近ではないか。毛無山を主峰とした1000メートル級の連山を仰ぐ。村の面積は67平方キロメートルにして、そのうちの91%を山林が占めているという。
 麓からは、数百年の時を経て自然が作り出したブナ林が有名で、植生も豊からしい。岡山県三大河川のひとつ「旭川」へと流れる豊富な水源の森としても、広く知られる。
 気候としては、裏日本型との境界線上に属し平均気温は11℃と低く、降雪期は12月から3月までと長く、中国地方ではかなりの積雪量だといえよう。昔は、「もっと雪が多かった」とも聞く。
 ここには現在、人口約1000人、380世帯が住んでいるとのこと。いわゆる「限界集落」かと心配にもなるのだが、景観の美しさにおいては、全国に喧伝しても差し支えないのではないか。
 頼みの綱としての交通だが、古くは山陰と山陽をつなぐ出雲街道の宿場町として旅人が集い、北から、西から、東からの物資が往き来していたというが、現在はやはり「かなり不便」とのこと。産業としては、古くから林業、水稲、和牛が盛んであったのが、現在も、林業・水稲特にヒメノモチ米生産というように、脈々と受け継がれている。

(続く)

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◻️55『岡山の今昔』明治時代の岡山県(産業の発展、紡績業)

2019-11-05 22:49:22 | Weblog

55『岡山の今昔』明治時代の岡山県(産業の発展、紡績業)

 こうした全国での動きにと歩調を合わせる形で、岡山県下でも養蚕が盛んになるとともに、近代紡績の勃興もみられるようになっていく。そもそも県南地域においては、近世以降の干拓によって、塩田などの展開があったが、やがて徐々に陸地へと姿を変えていった。
 とはいうものの、干拓地に含まれる塩分により米作などには適さなかった。そのためもあって、一部の地域によっては、綿やイグサが栽培されるようになっていたことがある。

   それから、時代は明治に入っての1880年(明治13年)、児島地区を拠点に岡山紡績所が設けられた。これは、旧岡山藩池田家からの士族授産資金で設立されたものである。
 また、1882年(明治15年)には玉島地区に玉島紡績所が開業した(設立は1881)。こちらは、それまで備中綿の集散地であった玉島に設けられた。政府から10基のうちの1基のミューレニチ錘の紡績機械の払い下げを受け、乙島に工場を建設したのだ。
 その後の1882年(明治32年)5月には、放漫経営が裏目に出て、同工場は債権者の実業家、阪本金弥の手に渡ってしまう。その阪本は、同年10月、資本金45万円の吉備紡績株式会社を設立する。

 さらに同年、綿織物の産地である児島においても、下村紡績所が設立された。
 続いて、1888年(明治21年)には、大原孝四郞が初代社長になっての有限責任倉敷紡績所(後の倉敷紡績、さらにクラレとなっていく)が民間ベースで設立され、翌年の10月20日に、イギリス式の、当時としては最新鋭の紡績機械を導入して操業を開始した。

 その場所は倉敷代官所跡で、当時の県知事の千阪高雅の助言もあり、大原は資金の確保をねらって1891年(明治24年)に倉敷銀行を設立した。将来を見据えた儲け話に、さぞかし頭が働いたものと見える。新会社では、当時の最新技術のリング紡績機を導入し、昼夜に二交代制を敷いた。
 それから、1894年(明治27年)には、柏崎紡績株式会社の設立、操業が開始される。玉島紡績の廃物の紡績機械2千錘を譲り受けるのだが、翌年にはそのうちのミュールー機械を廃棄する。それから、ブラット式リング機を買い入れ、1901年(明治34年)にはドブソンのリング機械を2688錘も導入するという具合で、投資を苦労継続する。その後、融資元との関係から、中備紡績株式会社、さらに半田綿行株式会社玉島工場と名前を変えて、生き延びていく。

 さて、1893年(明治26年)時点の倉敷紡績所の規模は、1万664錘、精紡機31台であって、その後の発展の基礎が作られた。人員の方も、1897年(明治)10月の調査によると、「倉敷の女工総数1436名、中、勤続年数1年以内のものが589名、2年目以内のものが464名で、両方あわせると70%をこえる。平均勤続年数は、約8か月であった」(岡山女性史研究会編・永瀬清子・ひろたまさき監修「近代岡山の女たち」三省堂、1987)というから、2年を越えては会社にいられないような劣悪な労働状況であったとも受け取れる。
 そして迎えた1907年(明治41年)には、かねてから経営が傾いてきていた阪本合資会社吉備紡績所と、倉敷紡績株式会社の大原孫三郎との間に、買収の交渉がまとまる。この年の11月、この事業所は「倉敷紡績株式会社玉島工場」と改名する。

 この紡績事業は、県南ばかりでなく、やがて勝田、真庭、赤磐などの山間地などでも盛んに行われるようになっていく。その生産のピークは皮肉にも1929年(昭和4年)の大恐慌の頃であった。北条県の津山では、養蚕を地域の産業として奨励する行政の後押しもあって、1880年(明治18年)浮田卯佐吉らによる浮田製糸工場が伏見町に立ち上がった(津山市教育委員会『わたしたちの津山の歴史』1998年刊行)。
 英田郡内においては、1897年(明治25年)に美作製糸合資会社が大原町に設立され、また大庭郡内の久世村においては、久世合資会社といった地元資本による製糸会社が立ち上がった。

さらに勝北地内においても、1898年(明治26年)、市場の竹内茂平らが「永盛製糸合資会社」(当時の勝田郡広戸村、現在の津山市広戸の農協広戸支所の敷地)を立ち上げた。この工場は、1910年(明治38年)まで市場地域にあったと伝えられている。その頃の「県下養蚕戸数は5万5496軒のうち勝田郡の養蚕戸数は5614軒、繭数量23万6384貫、価額163万2694円であり、県下22の年中第一位の順位であった(二位赤磐、三位真庭)」(勝北町誌編纂委員会『勝北町史』1991年刊行)であり、関係する農家と地域社会にとって貴重な現金収入となっていたことが覗われる。

(続く)

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◻️192の4の10『岡山の今昔』岡山人(19世紀、平賀元義)

2019-11-05 09:24:40 | Weblog
192の4の10『岡山の今昔』岡山人(19世紀、平賀元義)

 平賀元義(ひらがもとよし、1800~1865)は、国学者にして歌人。岡山藩士の親の下に生まれる。
 やがての32歳の時、家督を弟に譲り、自身は自由の身となる。
それからは、本姓は平尾なのだが平賀と称し、中国地方を流浪の旅を行う。賀茂真淵に私淑していたとも伝わり、万葉調の歌を好む。
 文化人とはいえ、貧乏と病苦にさいなまれながらも、かなりの和歌をつくっていく。
 

五月十六日。美作の一の宮にまゐでて。

「中山の神の社やしろのさくらかげあさけ涼しくなつの風ふく」(1849)

    八月十一日。久米郡倭文の郷にて。

「玉櫛笥たまくしげ二神山ふたがみやまにくれなゐの雲たなびきて雨は晴れにけり」

 嘉永五年十月十一日。美作国久米郡倭文の郷にて。

「たたなめて射水神いみづかみの嶺ね奈義なぎの峯初雪ふれりみつつ遊ばむ」

 ここに「射水神の嶺」とは、美作の射水権現社のある山をさし、「奈義の峯」とは、因幡と美作国境の奈義山をいう。


 「上山は山風寒しちちのみの父のみことの足ひゆらむか」など。

 まさに、行住坐臥に歌心あり、というところであったろうか。
 
 やがて、行き倒れのように世を去った元義の評価は、定まらず、その筋から疎んじられていく。生前は、「我好みて古書を読む。たまたま情緒の発して歌となることあれど是我が本領にあらず」と語っていたらしい。
 そんな元義の和歌については、死後三十年余り後、世に出る機会がやって来る。明治になって、羽生永明〔はにゅうえいめい〕が「恋の平賀元義」にて紹介する。それをたまたま正岡子規の弟子が読み、師のもとに送る。
 それに感じた子規が、新聞「日本」紙上の記事「墨汁一滴」で紹介した中に、こうある。
「天下の歌人挙って古今和歌を学ぶ、元義笑って顧ざるなり。(中略)万葉以降に於いて歌人を得たり。源実朝、徳川宗武、井出曙覧、平賀元義是なり。」
 しかして、「元義ひとり万葉を宗とす。天下の歌人笑って顧みざるなり」と言ってのけた。

(続く)

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◻️41の2『岡山の今昔』長尾の農民一揆(1752)

2019-11-04 22:02:42 | Weblog
41の2『岡山の今昔』長尾の農民一揆(1752)

 さて、現在では、高梁川の西岸、新倉敷駅や山陽道ICなども配置される、倉敷市玉島エリアの中枢となりつつある長尾。ここは、江戸時代の中期に丹波亀山藩(現在の京都府)5万石のうち、1万2000石分の飛び地として、玉島村、上成村、長尾村、東勇崎村などで構成されていた。
 当藩の領国支配は、奉行所(同藩の陣屋)を中心に行われ、奉行など、上方の役人は、丹波亀山より派遣され、その他の役人は、現地玉島の者、中でも庄屋に多くの業務を請け負わせていた。ここ長尾村については、二人の地主がほぼ全域の農地を所有していたから、村民のほとんどは小作農であったらしい。
 しかして、この地を舞台に、1752年(宝歴2年)に勃発したのが、ここに紹介する「長尾の農民一揆」である。
 発端は、近年うち続く飢饉により、農民たちは、集団をなして、大地主の二家に対し小作料の減免を願い出ていた。ところが、両家は頑張として応ぜず、怒った農民たちは、地主の家を壊すなど、「狼藉を働いた」ということで、後日、彼らは奉行所に引き立てられ、厳しい取り調べが行われていく。
 ここで腑に落ちないのは、同藩の対処であって、かかる農民たちの行為に対し、なんらの解決策を講じようともせずに、ひたすらに農民たちを罪に問うのであった。

(続く)

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◻️211の23『岡山の今昔』岡山人(20世紀、平櫛田中)

2019-11-04 08:22:31 | Weblog

211の23『岡山の今昔』岡山人(20世紀、平櫛田中) 

 平櫛田中(ひらぐしでんちゅう、1872~1979)は、現在の岡山県井原市の生まれだ。本名を倬太郎(たくたろう)と言う。田中家から平櫛家に養子に入ったのち、田中(でんちゅう)といい慣わす。東京へ出て、伝統的な木彫技術と西洋の彫塑を学ぶ。
 それからは、作品づくりに精出す。大家となってからは、東京芸大で教えたりした。107歳の長寿でその生涯を閉じるまで、明治・大正・昭和の三代に渡って活躍した、近代日本彫刻の巨匠とされる。 
 壮年期からのその作品の特徴は、観る者を引き込む緊張感と、本源的な温かみの感じられるところにあるという。 なかでも井原地方の古い伝承に基づく「転生」(東京芸術大学大学美術館蔵)や、「鏡獅子舞」、良寛上人(りようかんしょうにん)の木彫などが有名だ。
 戦後は、それからの自身の木彫の歩む方向を定めていったようで、こうある。
 「仏像彫刻としては鑑真像。これが一番だ。優れた大作をやり得る腕を持った連中が、師匠思いの一念で一生懸命にやったのだから、それは当然のことだ。作家の立場として、自分の現在の気持ちを言うと、私は鑑真像に行きたい。ああいう創作に取り組みたい。」(「天平彫刻仏観」1948)
 最近の珍しいところでは、「何でも鑑定団」(2019.4.23放映)において出品のあった「神武天皇像」(仮称、木彫)が真品だと認定された模様だ。ここに「神武」とは、「日本書記」にも出てくる「初代天皇」と言われる人物をいうのだが、今日の歴史学においては実在性に乏しく、伝説上の話なら頷けよう。ともあれ、その凛とした表情には、作者の特別な思い入れが感じられる。そのスックとした立ち姿には、威風堂々さがひとしおであり、作者にとっては偉大な実在の人に写っていたのであろう。

 それから、ここに「鏡獅子舞」の獅子というのは、想像上の生き物にして、白いたてがみ、きりっと、見開いたまなこで、見る者の瞳に迫ってくる。日本画、日本人形でもおなじみの題材だ。
 これを歌舞伎の世界では「獅子の精」として上演してきた。そして、これを「十八番」の興行に仕上げたのが、六代目尾上菊五郎に他ならない。その筋書きによると、前半は、将軍さまお気にいりの初々しい女小姓「弥生」でいたのが、舞台の後半では、勇壮で力強い獅子の精になりかわるという。
 さらに、格言らしきものも残されていて、98歳の時の決意であろうか、「いまやらねばいつできる。わしがやらねばたれがやる」とあるとのことで、まさしくの空前絶後の心境であったのだろうか。

(続く)

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◻️232の11『岡山の今昔』岡山人(20世紀、金重素山)

2019-11-03 09:18:52 | Weblog

232の11『岡山の今昔』岡山人(20世紀、金重素山)

 金重素山(かねしげそざん、1909~1995)は、陶芸家。和気郡伊部村、備前焼窯元の金重楳陽の三男。1927年、兄の金重陶陽の助手として窯詰窯焚をつとめる。陶芸家を目指すには、類い稀な良い環境であったろう。
 1941年(昭和16年)には、32歳の金重素山の元に招集礼状が届く。
 戦後の1951年(昭和26年)には、陶陽窯を離れ、大本教本部内亀岡の「花明山窯」に赴く。そして、三代教主・出口直日の指導ならびに助手を務める。
 顧みるに、この宗派は、唯一先の戦争に反対を貫く。そ
の教主の出口王仁三郎は、「この戦争は負ける」と見抜いていた。

 1959年(昭和34年)には、大本教本部綾部の「鶴山窯」にて、これまた無報酬で働く。
 1964年(昭和39年)には、岡山市円山に登窯を築く。1966年(昭和41年)には、電気窯による緋襷焼成を完成させる。潤い豊かな緋襷焼成への執念がみのった形だ。その翌年になると、大本教梅松館工房開きに際し、石黒宗麿、金重陶陽らと作陶を行う。
 1982年(昭和62年)には、伊部に「牛神下窯」の窯を設ける。その翌年には、岡山県指定重要無形文化財保持者に認定される。
 しばらくしての1990年には、伝統文化保存振興貢献により、文化庁長官賞を受賞、これは伝統文化保存振興貢献による。1991年には、岡山県文化賞をもらう。1994年には、三木記念賞を受賞する。さらに、1995年には、備前市功労賞を受ける。
 作品には、独特の風味といおうか、どっしりした存在感に圧倒される。例えば、「日経アート」(インターネット配信、2019秋)で円柱型の湯呑みであろうか、無名で紹介されており、側面を拡大して拝観できるのはありがたい。威風堂々たる体。見えている面は、思いの外「ざらざら」というよりは「ヌメヌメ」とした光沢を放つ太めの溝が彫られているところか、手に取っての感触はどんなであろうか。人生において、一椀位は、かような器を身近にしておきたいものだ。
 そんな作家にして、座右の如く、常々口にしていたのは、「
作品は子供じゃ。生まれ変わっても焼き物をやる」であったという。


(続く)

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◻️192の4の9『岡山の今昔』岡山人(19世紀、木下幸文)

2019-11-02 20:24:08 | Weblog
192の4の9『岡山の今昔』岡山人(19世紀、木下幸文)

 木下幸文(きのしたたかふみ、1779~1821)は、歌人である。浅口郡長尾村(現在の倉敷市)の農家の生まれ。6歳の時、長尾村の小野猶吉に才能を認められたというから、かなりの早熟に違いあるまい。その勧めにより、16歳の時小野猶吉に伴われて上洛し、澄月・慈延の下で和歌を学ぶ。
 29歳にて、桂園派の香川景樹に入門する。精進したかいあって、熊谷直好と並び譽れ高い歌人に列する。
 その頃の「貧窮百首」は、1807年(文化4年)の大晦日から翌年正月3日にかけての連作にして、読むうちに、ため息がひとしおだ。
 代表作としては、何を挙げるべきであろうか、とりあえず二つ並べておこう。
「人のいふ富は思はず世の中にいとかくばかりやつれずもがな」
「ふる里のきびの小山田うちかへし悔しき事の多くもあるかな」
 これらからも窺えるのは、浮かんでくる情景はかなり暗いのだが、同時に、揺るがない心が健在であるようだ。いにしえへの強い意思に支えられてのことであろうか。
 1804年から没年まで「木下幸文日記」を記す。これは、当時の歌壇史・文化史研究の糧となっている旨。「亮々草紙」全3巻(1821年)、死後に刊行された「亮々遺稿」全3巻(1808年)もあって、文章もよくした。

(続く)

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◻️160の4『岡山の今昔』岡山人(16~17世紀、日樹上人)

2019-11-02 13:53:46 | Weblog
160の4『岡山の今昔』岡山人(16~17世紀、日樹上人)

 日樹上人(にちじゅじょうにん、1574~1631)は、日蓮宗の僧侶。備中国黒崎村の生まれだ。 庄屋の吉田家て羽振りがよかったらしい。その家柄にて、裕福であった。
 幼くして、武家の備前常山城主の戸川氏に奉公に出ていたのだが、18歳のとき、吉田家の法事に帰った際に、僧が玄関がら上がるのを見て、仏門を志す。
 備中仏乗寺の日英上人を尋ね、師とする。やかて、得度したというから並大抵の努力てはなかったか。やがて、日英の勧めで下総国(現在の千葉県)の飯高檀林・中村檀林で学ぶ。わけても、教学を日尊について研究する。
 1619年(元和5年)には、 池上本門寺に入る。ほどなく、比企谷妙本寺両山貫主となり、池上の復興に努める。この間、京都妙覚寺・日奥(不受不施派)に同調し、久遠寺・日乾、日遠、日暹(受布施派)と対立する。
 なお、ここに「不受不施」とあるのは、「日蓮宗を信じない者からのお供えは受けない」とのことで、日蓮の定めた法と心得る。
 やがての1630年(寛永7年)には、江戸城において池上(本門寺)と身延山(久遠寺)との間で、幕府の命による対論(「身池対論」)が開かれた。
 その結果、不受不施派は幕府に忌避され、日樹上人は信州伊那に配流となる。池上本門寺歴世が、除歴となる。
 その時の歌には、こうある、
「名にしおふ蔦木のかづら心あらばしがらみとめよ流れゆく身を」
 翌1631年(寛永8年)には、さぞかし苦労が重なってのことであろうか、配流先の信州伊那(現在の長野県飯田市)で死ぬ。その遺徳が次のような形で全国に伝わる。

「大田区文化財
   日樹上人の供養塔
 幕府の施物は、信仰による布施ではないとして、これを受けることを拒否し、純信性を唱え、日蓮宗内に受・不受両論の対立をもたらした不受不施派の巨頭、池上本門寺十五世、長遠院日樹(一五七四~一六三一)の供養塔である。
 寛永七年(一六三〇)、受側を代表とする身延と不受を主張する池上は公庭に対決し、(身池対論)幕府の裁許により池上方は破れ、日樹は信州飯田に流された。
 この塔は、日樹の三十三回忌に、近在の信徒集団によって建てられたことが、銘文によって知られ、日樹流罪後も不受不施信仰がこの地に根強く存在していた事実を立証する。
  昭和四十九年二月二日指定
  大田区教育委員会
日樹(上人)の三十三回忌 寛文3年(1663)」

(続く)

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◻️107の2の1『岡山の今昔』岡山から総社・倉敷へ(備中の干拓、安土桃山時代~江戸時代、そのあらまし)

2019-11-02 09:26:35 | Weblog

107の2の1『岡山の今昔』岡山から総社・倉敷へ(備中の干拓、安土桃山時代~江戸時代、そのあらまし)

 そもそも、備中における干拓の歴史は、今からおよそ500年前にも遡る。時代を区切れば、近世も後半になってからのことだ。豊臣政権の成立後は、時流に乗っていち早く織田方についていた宇喜多直家の子、秀家が、新たに備前と備中の領有を正式に認められる。
 その秀家は、鋭意新田開発に取り組んだ。折よく、近世の松山川(高梁川)下流では、上流からの土砂の堆積により、三角州が発達し、干潟が諸々にできていた1581年(天正9年)に、倉敷と早島(はやしま)の間に広がっていた干潟に潮止(しおどめ)のための堤防を築き、そこを埋め立てた。この堤防は「宇喜多堤」と呼ばれる。
 この時は、現在の倉敷市北部一帯500ヘクタール余りの土地が緑溢れる作物の実る農地になった。この時の水の便を整えるため、彼は湛井十二ヶ郷(たたいじゅうにかごう)用水から水を引くつもりで調査していた。
 しかし、これが無理とわかったので断念し、その4年後、酒津(さかづ)(倉敷市酒津)からの用水を築く。これが倉敷東北部・早島一帯を潤す「八ヶ郷用水」の始まりである。

 時代は移って、江戸期からは、かなりの規模で埋立てや運河の建設が行われてきた。水門の設けられたのは、これらのうちの船穂町エリアの水江にある。
 江戸期に入ると、それかさらに南方に干拓が進んで、その範囲は現在の玉島エリアの全体まで及ぶようになっていく。ちなみに、その当時の玉島というのは、海に張り出したところというよりは、福島、七島、連島、乙島、柏島などの独立の島も含んでのことである。全体として、あたりは瀬戸内の風光明媚な島々に育まれた土地柄であると言える。

 この期に入ってからの玉島地区の埋立のとっかかりは、松山の前藩主、池田長幸による、長尾内新田10町歩をもって嚆矢としてよいのではないか。その後の水谷氏になってからは、本格的な干拓が始まる。具体的には、1624年(寛永元年)から1624年から19年がかりにて、松山藩が「長尾内外新田」を手掛けたのが創始とされる。
 やがての1661年(寛文元年)の上竹新田(上竹は、現在の道口、富、七島地区)からは、隣の岡山藩も新田開発に乗り出す。また、1659年(万治2年)には、松山藩(当時の藩主は水谷勝隆)により、玉島新田が完成する。工事が始まったのは1655年(明暦2年)で、足かけ5年の工事で、乙島、上成、爪崎を結ぶ広大な海域が埋め立てられる。

 同じ1659年(万治2年)には、備中松山城主の水谷勝隆が、家臣の大森元直に対し、高梁川下流域(現在の玉島・船穂地区)に、水流の高低差を調整するのに水門を使った運河を開削するように命じた。その頃の高梁川は、そのやや上流で二本に別れていた。
 その一つ、西高梁川からの灌漑用水路を拡張・整備し、新見までを結ぶ高瀬舟の運行をより便利にしようとしたもので、完成した年代は、正確な記録がないものの、1664年(寛文4年)頃であろう。
 さらに1671年(寛文11年)には、これまた松山藩(当時の藩主は水谷勝宗)により阿賀崎新田が拓かれる。以下、勇崎押山新開と柏島森本新開(1670年)、柏島水主町新開などを干拓する。
 このほか岡山藩も、上竹新田(1661)に続き、七島新田(1670)、道越新田(1669)を手掛けていて、主として西岸からは高梁の松山藩水谷氏が、東からは岡山藩池田氏の両藩が競うように干拓を進めていたことになる。なお、これに応じて、埋め立て地における両藩の境界も設定されていく。なお、これらの位置関係については、たとえば、森脇正之著「玉島風土記」(岡山文庫169)を参照ありたい。

 顧みるに、両藩による、これら一連の埋立ての中でも、松山藩の阿賀崎新田は大規模で知られる。この工事にとりかかる1658年(万治元年)、松山藩主の水谷勝隆は神社を勧請し、阿賀崎新田の工事成功を祈願した。その社は、水谷勝宗、克美までの3代55年で完成したもので、拝殿瓦に「からす天狗」を鎮座させているのが、元はといえば山形県の羽黒神社に棲むという伝説上の生き物をあしらったものらしく、なんとも珍しい。ここに羽黒神社というのは、この工事の前は阿弥陀山、工事後は羽黒山と名前が変わっている。
 この埋立てのため、阿弥陀山と柏島との間に汐止めための堤防を築いて埋め立てた所(羽黒神社の西側)には、人々が集まり、「新町」を形成していった。問屋街として栄えていくのだが、それから350年余を経た現在は、県の町並み保存地区に指定され、倉敷美観地区につぐ町並み観光スポットなっている。潮止堤防の上に築かれたこの町は、かつてこの堤防上に回船問屋が立ち並んでいた。最盛期には、かれらの富の象徴である、切り妻造り、本瓦葺き、虫籠窓の商家や重厚な造りの土蔵が設けられていて、土蔵の数はざっと200以上に及んでいたというから、驚きだ。
 かくして、海に臨んだその町の南側には、北前船などの千石船が船着場に頻繁に入船、出船していて、ほど近い下津井港に負けず劣らずの賑わいを見せていたことだろう。その新町への行き方だが、新倉敷駅からバスで、爪崎南、爪崎西、八島、七島、文化センター入り口、玉島支所入口と南に下り、玉島中央町で降りる。

 次に運河について、俯瞰しておきたい。一の口水門は、高瀬川の下流部、小田川との合流点下にあった。このあたりは、倉敷市玉島長尾、爪崎を経て高瀬舟による河川水運と海運船による内陸水運の接点として栄えたところで、ここが運河の取水口となる。
 この一の口水門には、今でも堰板(せきいた)を巻き上げる木製のウインチが残っている。これにより、二つの水門の開閉によって水深を調節し船を通す仕組みであって、「閘門(こうもん)式」の運河と呼ばれる。ここで生じていた水位の差は、2~3メートル位ではなかったかとも言われている。この一の口水門と、その下流約300~350メートルの二の水門、通称船溜水門との間で水位の調整を調整する仕組みが導入されたことになっている。
 かかる水路としては、船穂町の一の口水門から高梁川の流れを導き、長尾・爪崎を経て、玉島港に通じる。「高瀬通し」と呼ばれる区間(現在の倉敷市船穂~玉島間)約9~10キロメートルにかけてが、それに当たる。


 さて、この松山藩の阿賀崎新田造成に伴う運河の完成によって、新田の灌漑用水と、高梁川流路との高瀬舟、北前船の出入りが容易になったことが窺える。同時に、一の口水門から、水江又串、元組、長崎鼻・長尾・爪崎南端を経て七島東端、さらに羽黒山麓へと連なることから、これによって玉島港までの舟運についても舟運による道筋ができたことになる。
 かくして、この運河を遣っての高瀬舟の上りでは、船頭が竿で舟を押し、残りの二人は岸辺で綱を引く。高梁川のような大きな川では川岸が整備されていないので舟を引くのも大変と考え、高梁川の脇に用水路を開削し、この水路を使って舟運を行なおうとしたものとみえる。

 ちなみに、現在では、かつての高瀬舟などが往来していた水路はもう役割を終えて、ごく一部の施設のみ露出している。水の取入口にあたる「一の口水門」は、倉敷市の史跡文化財になっており、その前に次の案内板が設けてある。
 「旧高瀬通しの終点、玉島舟だまり跡。松山藩水谷候が玉島阿賀崎新田を開拓した万治寛文延宝にかけての約330年前、高梁川の水を入れた灌漑、水運両用の高瀬通しが船穂町水江の堅盤谷(カキワダニ)から糸崎七島を経て、玉島舟だまりまで91粁巾37米ー8.5米で開通された。一の口水門から二の口水門へ水を入れた閘門(コウモン)式運河で、パナマ運河に先んずること240年前であった高瀬舟は、下りは、水棹を用い上りは曳子が引いて通過した。
 下り舟には、米・大豆・茶・薪炭・煙草・漆・和紙・鉄・綿・べんがらなど、上り舟には北海道鰊粕・干鰯・昆布・塩・種粕・雑貨など積まれた港の北前船と並んで江戸期の玉島繁栄の基となった。荷を積み下ろす舟だまりは、羽黒山東側のこのあたり約10アールの水域であった。羽黒山北側に延びる水路は、新町裏側に通じ阿弥陀水門から舟は港に出た。明治になってからは、港町に地下トンネルが出来、舟はそこから港に出た。昭和になって、高瀬通しはその機能を失い道路となり、家並みが建ち現代に至った。平成6年(2009年)11月6日、玉島文化協会、玉島観光ガイド協会」
 それからについては、水谷氏は3代目の藩主が早世し後継ぎがなかったため、元禄7年(1674)断絶してしまった。幕府は領地を接収し、数年後浜松藩の本庄氏、丹波亀山藩の青山氏、その他の大名に分封して与えた。更に、この地は1729年(享保14年)に松山領、幕領、亀山領、岡山領、鴨方領、岡田領の六つの藩の領有にと細分され、きちんと計画を立てての、それまでの事業はしだいに影が薄くなりつつ、明治維新を迎えたことになっている。明治の世(慶長4年~)になっても、こうした高梁川にまつわる干拓事業は形を変えてなおも続いた。


(続く)

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◻️32『岡山の今昔』江戸時代の三国(津山城引渡し)

2019-11-01 20:31:22 | Weblog

32『岡山の今昔』江戸時代の三国(津山城引渡し)

 ともあれ、出来てしまったことは、もうどうにもならない。幕府の決裁では、長成死去後の「当主」継嗣(けいし)がないことが表向きの理由とされ、1697年(元禄10年)旧暦8月2日、幕府は森藩を召し、「長成が疾によって没し、嗣子にあげられた衆利も狂疾をおこした故をもって美作国を没収する」旨の言渡し(内示)を行った。
 森藩の長成の遺領は、いったん没収、禄高は収納ということにならざるを得ない。この沙汰は、刀傷沙汰(とうしょうざた)、勤役懈怠(きんえきけたい)、勅使などへの不敬から不行跡、病と称しての勤務拒否、藩主乱心などへの扱いとはどこが異なっているかが判然としていない。これにおいては、末子養子の禁を緩めた「恩恵」は得られず、幕府の譜代(一部を除く)、外様大名に対する態度には厳しいものが残った。
 その後の森家と家臣の多くにとっては、呆然自失しかねないような時の流れようであったのではないか。翌8月3日からの出来事は、およそ次の通りであったという。
 「8月3日、江戸から真夜中に津山への飛脚を立てる。8月5日、小笠原・鳥居・保科(ほしな)から森対馬守・関大蔵あてに騒動を起こさぬようにとの書状。8月8日、江戸から津山への飛脚を立てる、城請取衆の決定を知らせる。8月10日、江戸を3日に発の飛脚、津山着。8月11日、江戸上屋敷の引き渡し。
 8月15日、8日に江戸発の飛脚が着。8月18日、水野美作守からの飛脚。同日、家臣に触書、家屋敷を荒らさぬように。8月21日、森采女(もりうねめ)が江戸から帰る。同日、備前には作州の浪人は入らせないとの情報。同日、江戸からの書状、城引き渡しの心得。8月23日、8月5日付の小笠原等からの書状を家臣に触れ出す。水野美作守死去、酒井○負が内裏となる。8月26日、長直が長継の嫡子となる。8月28日、長直、津山への書状を書く。8月30日、長継より土屋相模守に家臣お救いの嘆願。
 9月1日、上使・目付からの指示が届き、家臣に触れる。9月2日、江戸の長尾隼人から森采女他への書状、津山着は9日ころか、水野の死去と長継の嘆願を知らせる。9月4日、城下から速やかに引き払うようにとの触れ。9月15日、長継からの8月28日付け書状を江戸からの使者が持参。9月23日、長尾隼人が江戸から津山着。9月23日、上使田村右京太夫他、江戸を出発。9月24日、家臣へ翌日の、森采女宅への集合を触れる。9月25日、長継の9月1日の口上を長尾隼人が家臣に伝える。9月29日、原十兵衛宅で家老・用人が相談。同日、酒井○負佐が小浜を出発。
 10月2日、家臣に上使の江戸出発等を触れる。10月5日、代官武村惣左衛門・守屋助次郎が津山着。同日、仁賀孫九郎・赤井平右衛門が津山着。10月6日、松平若狭森が明石を出発。同日、酒井○負佐が押入村に入る。同日、家臣に引き渡しについて触れ。10月7日、長基が江戸に出発。10月8日、蔵奉行6人が幕府代官に呼ばれる。10月9日、田村右京太夫・水谷弥之助が勝間田に入る。10月10日、長尾隼人らが勝またを訪れ、幕府役人衆と相談。」(尾島治・津山郷土博物館「津山城引渡しについて」:津山市教育委員会主催「第19回津山市文化財調査報告会」2001より)
 そして迎えた1697年(元禄10年)の旧暦10月11日、城下で津山城の幕府への明渡しが行われ、禄を失い住処(すみか)を明け渡した家臣たちは方々へと散りじりになってゆく。その近傍年での森氏の家臣数としては、『津山市史』により、扶持米取りが119人、切米取りが2401人の計2871人あったのではないかと見積もられている(津山市史編さん委員会『津山市史』第三巻、近世1ー森藩時代より引用)。
 その日、城下宮川の制札場に、次のような高札が掲げられた。
 「条々
一、今度津山の城召し上げられ候に付き、給人引払いの儀、今日より三十日限りたるべし。ただし給人津山領にこれ有りたしと申す輩は、せんさくを遂げ、心次第に先ずこれを指し置くべく、立退きたる者に滞り無く宿を借すべきむね御目付中より証文遣わすべき事。
一、喧嘩口論はこれを停止し○(おわ)んぬ。もし違犯の族あらば、双方これを誅罰すべし。万一荷担せしむる者は、その咎(とが)本人より重かるべし。
一、竹木伐採の儀、ならびに押売り狼藉停止の事。
一、家中の輩武具諸道具、其の身心に任すべき事。
一、家賃の儀、譜代に非(あらざ)る者は、以後、主従相対次第たるべき事。
 右の条々これを相守るべし。若し違反の族は厳科に処せらるべきもの也。仍って件の如し。
 元禄十年丑(うし)十月十一日
水谷弥之助(勝信)
田村右京太夫(建顕)」(原文は、津山市教育委員会編「津山城、資料編Ⅱ」2001に、「作州津山江上使之節留書」として収録されている)
 なお、同日付け発出の水谷弥之助、田村右京大夫連名の文書(松平若狭守宛)には、「今度美作守病気養子乱心に付き」とあることから、衆行については、まだ主家相続を幕府が認めていなかったことが読み取れよう。
 同年の1697年(元禄10年)旧暦10月15日、幕府は長成の死後、隠居中の二代藩主であった森長継(ながつぐ)に備中国西江原において二万石を与えることで再出士を命じ、その家名を存続させる。その翌年の旧暦6月の長継は、旗本となっていた息子の長直(衆利の兄)を呼び戻す形で再興のなった森家の家督を相続させる。
 その話の後段だが、森長直はそれから8年を経て、赤穂義士の吉良邸討入り後の播磨の国赤穂に移封となっていく。さらに長継の備中西江原受領と同時に、3代目藩主であった長武(長成の叔父)が別の弟長俊に1万5千石で分家させた支藩である津山新田藩は、同月播磨の国の西部へ移され、三日月藩として存続を許される。 

 また、関長次(せきながつぐ、森長継の九男にして森忠政の甥)の次男・長政が森藩2代目の長継から1660年(万治3年)頃、宮川の墾田を分知され、立藩していた支藩の美作宮川藩(関家1万8900石)も、関長治(せきながはる、関長政の養子にして、長継ぐの九男)が藩主の時、備中の新見藩(1万8700石)に転封される。
 これら一連の森藩の徐封(じょふう)などの後、美作は、幕府の直接支配に移ったが、その後の1698年(元禄11年)、松平宣富(まつだいらのぶとみ)がみまさかの約半分の領地を受け継ぐ形で津山城の主に封じられた経緯がある。

(続く)

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◻️246『岡山の今昔』岡山人(20世紀、坂田一男)

2019-11-01 12:00:55 | Weblog

246『岡山の今昔』岡山人(20世紀、坂田一男)

 坂田一男(さかたかずお、1889~1956)1は、岡山市船頭町に生まれる。父の快太郎は、外科医で、岡山大学医学部の開祖と言われる。岡山中学卒業後、父にならい医師になろうと高校受験して、失敗したという。

 続いての病気療養中に、木炭画を教えてもらい、一転、画家を目指すに至る。1921年(大正10年)には、パリに赴く。オトン・フリエスやフェルナン・レジェに学ぶ。1928年の「浴室の二人の女」の背景は、ダーク系の完全な色面構成となっており、解体された二人が奇妙に組み合わさっている。
 1933年(昭和8年)に帰国、岡山県玉島(倉敷市)にアトリエを構える。その頃の作品「端午」(1937)では、鯉のぼりが平面的に垂れさがる。

 戦後は、A.G.O.(アヴァンギャルド・オカヤマ)を結成、主宰する。キュビスムを基本としながらも、その模倣ではない。独特の抽象絵画を制作していく。「上半身の裸婦」(1955)をつらつら眺めると、ボトルのような姿か、ざらざらしたあんばいでこちらを眺めているではないか。
 1944年(昭和19年)、1954年(昭和34年)の2度に渡って同地を襲った水害により、多くの作品が失われてしまう。

 日本においては、キュビスムの影響を受けた画家は多い。とはいえ、厳格な意味でのキュビスムの作品を残している作家は、坂田一男をおいて他はないとも評される。

(続く)

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◻️245『岡山の今昔』岡山人(20世紀、国吉康雄)

2019-11-01 11:44:28 | Weblog

245『岡山の今昔』岡山人(20世紀、国吉康雄)

 国吉康雄(くによしやすお、1889~1953)は、アメリカに渡り、画壇で活躍した。岡山市の出石(いずし)の生まれ。岡山県立高校の染色科に入るも、馴染めずに中退する。

 なんと。それからの1906年(明治39年)には、英語を習得しようとしたのか、アメリカへ移民したというから、「びっくらこん」だ。向こうでは、シアトルやロサンゼルスで働くかたわら、美術に関心を持ち出したらしい。

 ロサンゼルスにある美術学校の夜学に通う。1910年(明治43年)には、ニューヨークへ移る。1916年(大正5年)には、アートの学校に入学して、ケネス・ヘイズ・ミラーの教室で腕を磨く。

 1922年(大正11年)に、かの地において。はじめての個展を開く。「秋のたそがれ」(1929)では、幻想的な農村風景を描く。その後、二回のヨーロッパ体験で、抽象画へと入っていったようなのだが。

 その後の日米開戦からは、敵側外国人として、つらい日々を送ったらしい。1943年作の「誰かが私のポスターを破った」では、自分のポスターを破られた女性の傷心に、自身を重ねているかのよう。

 そんな日本人としては数奇な体験が、かれの絵を独自の地平へと運んでいったのであろうか、国吉の絵のうち、戦後、晩年に向かっては、「飛び上がろうとする頭のない馬」、「ここは私の遊び場」(1947)などの抽象画を作っていく。
 なかでも、「祭りは終わった」(1947年)は、なぜ、このような絵が描かれたのかと、理解に絶するところがある。一説には、「生きることの不条理」が象徴されている、というのだが。

 その画面の奥に広がるのは、茶褐色の大地と乾いた感じの空。ひと気のない無人の砂漠なのかもしれない。だが、左手前に青い裸電球を吊るした鉛色の電柱らしきものが一本立っている。背景の右半分には、西部劇に出てくるような看板か、仮設の小屋のようなものが立て掛けてある。そこに矢印やアルファベットがあしらわれていて、何のことやら、解読できそうにない。かれこれの記憶から、ここは季節外れの盛り場、海水浴場ではないか、とも詮索されているらしい。

(続く)

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