今から思うと、あれは天の声だったのだろうか?12年間、よくぞ頑張った。
さあ、創作する生活へ、また戻るのじゃ。モドルノジャ、って言われたって、ご覧の通りの貧乏暮し、最近貧乏が板についてきて、貧乏が快適になってきたばかりなのに、いやだなあ。
そう思ったら目が覚めた。奇妙な夢を見たもんだ。夢の中の七福神の顔が長くて禿げていて白いあごひげのおじさん、なんという神さまだっけ、が夢の中でぼくにそんなお告げをされた夢を見たのかそのようなんです。
びっくり、ドッキリ、なんで?と思ったものです。
「光で絵を描くのがお前のP仕事じゃろう?」ともおっしゃるのです。P仕事?聞いたこともない言葉です。それとも無意識下では、そんなことをぼんやりと考えていたような気も致します。光でつくる絵、写真をそんな風に定義してみたこともあります。
光が、美しいものをいっそう美しく見える瞬間、時を定着させて、プリント処理をしてぼくの作品になるのです。そんな、時と光のコレクション。1万点。光のコレクションを抱えたまま、その日の夕餉に困ることもあったというのに、根っからのぼくは遊び人。自由人とも言います、管理されて働くのが好きではなくきびきびと働くよりもいつもぼんやりのんびりと気分の赴くまま自分で好きなように行動し創作する生き方が身にあっているようなんですね。そのために、依って来るところの貧乏も苦にならずに、最近は緩やかな貧困、ゆる貧生活が体になじんできた感が強くするのですね。人さまには、今の時代に、ゆる貧こそ最もかっこいい生き方ですよ、などと言うこともありました。ゆる貧、別の名をスローライフ、とも言いまさあ。
昔から、新幹線よりは各駅停車の電車に乗って、車窓の風景を、Y.M.O や 時に、セシル・テーラーの音楽を聴きながらボンヤリ眺めるなんという音楽の楽しみ方を好んでいました。演歌も好きなんだけれど、車窓から風景を眺めながら聴く音楽には、やっぱり夕景や夜なら別でしょうが、テクノやフリージャズがあっていると思います。
美しい光を発見した時に、脳の中で何かがググッと感じて、やおら弁当箱よりは小さくて名刺ケースよりは大きい、瞬間感動作画機、世の人はこれをカメラとも言いますようですが、
CONTAX というカメラにぼくは路傍の美を拾い集めてコレクションしてきたのでした。
ああ、それだけの人生。30年間も、30年間の永きにわたって、と言いましてもご当人にはピンときません。何しろとっても楽しい瞬間なのですから。楽しい瞬間はいつもアッという間に過ぎてしまいます。ピントを外した方が面白いのなら、そのようにしますし、スローでぶらした方が面白いのなら、そのようにします。美に関しては思うようにするのでなければ詰まりませんから。ピントが来ていない、とか、ぶれているとか、そういうことでしか写真を見られないものは勝手にさせておけばよいのです。すべては自由なのです。そんな自由に憧れて、
あげく、当世風の「新自由主義」という妖怪に足元をかっさらわれても、石ちゃんは決してカメラを離しませんでした。ああ、また、美に対してのみ妥協する、そんな創作を中心とした生活に戻れるのだと思うと、案外夢のお告げもこの十余年のポスト貧乏生活も楽しくなってきたのかも。そう思い、薄汚れたベッドから起き出し、外へ出てみると実に青空の青い色がいい感じの午前9時の空なのでした。
エッセイ 石郷岡まさを
さあ、創作する生活へ、また戻るのじゃ。モドルノジャ、って言われたって、ご覧の通りの貧乏暮し、最近貧乏が板についてきて、貧乏が快適になってきたばかりなのに、いやだなあ。
そう思ったら目が覚めた。奇妙な夢を見たもんだ。夢の中の七福神の顔が長くて禿げていて白いあごひげのおじさん、なんという神さまだっけ、が夢の中でぼくにそんなお告げをされた夢を見たのかそのようなんです。
びっくり、ドッキリ、なんで?と思ったものです。
「光で絵を描くのがお前のP仕事じゃろう?」ともおっしゃるのです。P仕事?聞いたこともない言葉です。それとも無意識下では、そんなことをぼんやりと考えていたような気も致します。光でつくる絵、写真をそんな風に定義してみたこともあります。
光が、美しいものをいっそう美しく見える瞬間、時を定着させて、プリント処理をしてぼくの作品になるのです。そんな、時と光のコレクション。1万点。光のコレクションを抱えたまま、その日の夕餉に困ることもあったというのに、根っからのぼくは遊び人。自由人とも言います、管理されて働くのが好きではなくきびきびと働くよりもいつもぼんやりのんびりと気分の赴くまま自分で好きなように行動し創作する生き方が身にあっているようなんですね。そのために、依って来るところの貧乏も苦にならずに、最近は緩やかな貧困、ゆる貧生活が体になじんできた感が強くするのですね。人さまには、今の時代に、ゆる貧こそ最もかっこいい生き方ですよ、などと言うこともありました。ゆる貧、別の名をスローライフ、とも言いまさあ。
昔から、新幹線よりは各駅停車の電車に乗って、車窓の風景を、Y.M.O や 時に、セシル・テーラーの音楽を聴きながらボンヤリ眺めるなんという音楽の楽しみ方を好んでいました。演歌も好きなんだけれど、車窓から風景を眺めながら聴く音楽には、やっぱり夕景や夜なら別でしょうが、テクノやフリージャズがあっていると思います。
美しい光を発見した時に、脳の中で何かがググッと感じて、やおら弁当箱よりは小さくて名刺ケースよりは大きい、瞬間感動作画機、世の人はこれをカメラとも言いますようですが、
CONTAX というカメラにぼくは路傍の美を拾い集めてコレクションしてきたのでした。
ああ、それだけの人生。30年間も、30年間の永きにわたって、と言いましてもご当人にはピンときません。何しろとっても楽しい瞬間なのですから。楽しい瞬間はいつもアッという間に過ぎてしまいます。ピントを外した方が面白いのなら、そのようにしますし、スローでぶらした方が面白いのなら、そのようにします。美に関しては思うようにするのでなければ詰まりませんから。ピントが来ていない、とか、ぶれているとか、そういうことでしか写真を見られないものは勝手にさせておけばよいのです。すべては自由なのです。そんな自由に憧れて、
あげく、当世風の「新自由主義」という妖怪に足元をかっさらわれても、石ちゃんは決してカメラを離しませんでした。ああ、また、美に対してのみ妥協する、そんな創作を中心とした生活に戻れるのだと思うと、案外夢のお告げもこの十余年のポスト貧乏生活も楽しくなってきたのかも。そう思い、薄汚れたベッドから起き出し、外へ出てみると実に青空の青い色がいい感じの午前9時の空なのでした。
エッセイ 石郷岡まさを
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます