一日遅れの終戦記念日
“節子“種違いの姉がいました。たまに、母が話してくれましたが、そのころははな垂れ小僧でしたので右から左へ聞き流していました。でも、姉がいた、会ってみたいなぁと思いました。が、叶いませんでした。
母は満州開拓団の一員として満州に渡りました。そして、女の子を授かりました。その娘のお父さんは戦死、女手一つで育てるのは大変だったので、内地から妹を呼び寄せたそうです。
日本の敗戦が決まり、ソビエトが満州に進出してきます。日本兵は、我先にと逃げたそうです。残された開拓団の人たちは必死で逃げ、母とおばさんも顔に泥を塗りたくり、女性に見られないように変装をしたそうです。過酷な厳寒の環境、姉は栄養失調で亡くなり、満州の地に埋葬せざるをえなかったそうです。姉の髪の毛を形見に、祖国の地を踏んだということでした。
私の母は戦争未亡人、戦死した伴侶は、某家の長男でした。その母親が母に言ったそうです。
『三男の○○がシベリアから帰ってきたら一緒になればいいずら』
その言葉を聞いて、安心したそうです。その三男が私の父です。
戦後は、農業から工業へ舵をきりました。農村は
『貧乏人の子沢山』
父の兄弟姉妹は全部で10人でした。
“家長制度“があり、長男が跡取り、他の人たちは実家から出ていくのが当たり前のことでした。
都会は日本の縮図です。食い扶持を稼ぎに、長男以外は全国から都会にやってきました。なまり丸出しですので、そのことばを耳にすれば出身県がわかります。そんな中で“県人会“という組織がたくさん誕生しました。
“貧しいながらも楽しい我が家“
酒を酌み交わし親睦を深めるの場所は、屋台と人寄せのすきな家でした。
自分の家は絶えず人の出入りがありました。一杯飲めば、ご機嫌になり、のど自慢、自己満足の歌合戦になります。そんな中でも、母の十八番がありました。それは次の歌です。
夢を抱いて渡った満州、様々な思いがよぎっていたのでしょう。詳しい現地での生活はわかりませんが、母にとっては、満州に残してきた私の姉を思い出して歌っいたのかもしれません。
〆のことば
突撃命令をだすのは上官。真っ先に敵前逃亡するのも上官。立派な大将もいたけれども、箸にも棒にもかからない上官ばかり。自己保身は古今東西かわりませんね。現代の政治家も同じですね。
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