ものぐさ屁理屈研究室

誰も私に問わなければ、
私はそれを知っている。
誰か問う者に説明しようとすれば、
私はそれを知ってはいない。

仏の顔も三度まで

2024-07-28 00:00:00 | 相場は相場に聞け!
なかなかと乱高下の激しい相場が続いているが、私には典型的な天井を付けに行く相場付のように思われる。

現在、特に目につくのは、原油安と円高ドル安であるが、市場はトランプ勝利を織り込みに行っているように思われる。というのは、トランプは公約の中で、原油価格を下落させる事とドル高円安の是正が急務だと言っているからだ。

トランプの政策公約については、私が読んだ中では→Bloomberg傘下のbusinessweek のインタビューが最も判り易いと思われるが、如何せんいつもの如く、(Bloomberg日本語版も含めて)日本の報道ではその全体像が正確に伝えられておらず、部分的ないわゆる切り取り報道ばかりだと言って良い。

例えば、自動車に高関税をかけるといった部分だけが取り上げられて報道されているが、トランプの言っていること全体を見れば、これは日本の円安政策に対しての牽制という、彼一流のディールであることが判る。

アメリカには大きな通貨の問題がある。強いドル、弱い円、弱い人民元の問題は非常に根が深い。わたしは彼らの通貨安政策と戦った。彼らはいつも通貨を弱くしたがった。彼らの通貨安政策はアメリカの企業がトラクターや他のものを国外に輸出する時に大きな負荷となっている。非常に大きな負荷だ。
・・・
コマツや他のトラクターの会社を見ろ。彼らは良い製品を作る会社だが、彼らの国はCaterpillarなどのアメリカの企業に彼らの国で製品を作ることを強要している。
・・・
アメリカはその逆を要求するべきだ。逆を要求するべきなのだ。
・・・
わたしが大統領だった時、わたしは非常に強く習氏と安倍晋三氏に対して戦った。安倍晋三氏は素晴らしい男だった。彼に起こったことは知っているだろう。彼らが通貨安を押し通そうとした時、わたしはこう言った。それ以上弱くしようとすれば関税を課すぞと。彼らはわたしが許す範囲でしか通貨を安くできなかった。わたしは彼らにとって手強い相手だった。


アメリカは兎も角、日本でもトランプを救世主のように見ている意見があるが、この発言を見てみてもトランプは一貫して「アメリカ・ファースト」だということが判る。→前にも書いたが、ドラえもんやウルトラマンのごとく、トランプが日本の救世主だというような、ああいった見方は、どうも日本人の抜きがたい依存性癖、もっと言えば属国根性から来る善意の守護者待望論の投影でしかないように思われる。

そういえば日本でも「都民・ファースト」を掲げる政治家が都知事に当選したけれども、その理由は色々と挙げられるだろうが、要はこの善意の守護者というイメージをどれだけ棄損しなかったかどうか、それが分水嶺になったように私には思われる。つまり、現在の都知事は、投票した都民の総意として、東京都に対してのドラえもんやウルトラマンとしての役割像に、候補者の中で最も適合する人物として消去法で選ばれたのではないかと言うことである。この意味で、現在の都知事はそういったイメージづくり、イメージ空気醸造戦略に非常に長けている政治家だと思う。イメージ・カラーをもじった「緑のたぬきと赤いきつねの小池」という評があったが、言い得て妙である。狸や狐のように人を化かす、表向きは緑だがたぬき、中身は赤のようにも見えるがこれもまた狐で化かしていることには変わりがない。なるほどねえ、座布団1枚。

いや話が逸れたが、もう一つのトランプの石油政策については、日本ではほとんどと言って良い程報道されていない。トランプのウクライナ戦争を1日で終わらせるという発言は良く知られているが、そのためには原油価格を押し下げることが必要だという指摘には、一流のディーラーというものは、やはり着眼点が一味違うなと感心させられる。なるほどねえ、座布団3枚。

わたしが大統領の時にはプーチン氏は決してウクライナに侵攻しようとはしなかった。ウクライナに手を出すなとわたしは言っていた。
・・・
ウクライナ情勢は酷いものだが、原因の一部は原油だ。原油価格が40ドルから100ドルまで上がれば、プーチン氏は戦争が出来るようになる。原油価格が40ドルだったからプーチン氏はわたしの言うことを聞いた。
・・・
戦争を終わらせたいとしても原油価格が100ドルの状態では戦争は終わらせられない。原油価格が100ドルなら、プーチン氏にとって戦争を終わらせるインセンティブは小さいからだ。


この原油価格を下げるという公約はまた、バイデン政権の脱炭素政策に対する批判ー減産政策で自国の産油企業にダメージを与えただけでなく、さらにそれによる原油価格上昇で、敵であるプーチン大統領に塩を贈ったという批判にもなっていることは言うまでもないだろう。

そして現在のところ、トランプ有利というのが大勢の見方であろうが、私自身は蓋を開けてみるまでは判らないのではないかと思っている。前の選挙ではバイデン・ジャンプという不可解な現象が見られたが、最近でもあろうことか、バイデン自身の身長もジャンプした?という摩訶不思議な現象が見られたように、11月まではまだまだ何が起こるのかわからないのが、アメリカの大統領選挙であると言えよう。或いは、何らかのハリス・ジャンプといったような現象を目撃する事態になるかも知れないし、再度トランプの身に何かが起こるという事態になるかもしれない。


ということで、相場に話を戻すと、現在のトランプ勝利織り込み相場の反動・戻しは、これから当然にやってくるだろうし、日本の株式市場はもう一度4万円を超えてくるのではないかと考えている。

つまり、現在はブルとベアの4万円を巡る攻防戦の最中であって、この意味で天井圏における4万円を中心としたレンジ相場になっていると言い換えても良い。そして、最終的には、三尊天井あるいはヘッド・アンド・ショルダーを形成してダウン・トレンドに転換してゆくのではないか、というのをメイン・シナリオとして考えている訳である。勿論、このシナリオは外れることになるかも知れないが、こういうシナリオも頭に入れて置くべきだと言いたいのである。

SNSを覗いてみても、暴落は想定してはいても、こういったダウン・トレンドへの転換というシナリオを考えている人は殆どいないように見受けられるので、ここで注意喚起をして置きたいと思うのである。従って、この後もう一度、4万円奪還という状況になれば、やれやれこれで一安心、さあ行くぞ!と思う人が大半だと思われるが、買いしかやらない人にとっては、その時こそが絶好の、そして最後の逃げ場になるということである。同じく、空売りが出来る所謂ショーターにとっては、その時は絶好の、そして最初の戻り売り場になることは言うまでもない。

昔の人も、こう言っているではないか。

仏の顔も三度まで、と。







トランプ暗殺未遂と斉藤和義、ボードリヤール、そして仏陀

2024-07-15 19:00:00 | 中今
ネットでトランプ暗殺未遂事件を知った。

例によって、情報やら意見やら解説などが錯綜し、色々なことが言われているが、それらをつらつらと眺めているうちに、ふと、頭の中で、遠くの方で何やら不細工な男がアコギを演奏しているのに気付いた。斉藤和義が歌っていた。





欲しい物なら そろい過ぎてる時代さ
僕は食うことに困った事などない
せまい部屋でも 住んじまえば都さ
テレビにビデオ、ステレオにギターもある

夜でも街はうっとうしいほどの人
石を投げれば酔っぱらいにあたる
おじさんは言う"あのころはよかったな…"
解る気もするけど タイムマシンはない
雨の降る日は、どこへも出たくない
だけど、大切な傘がないわけじゃない
短くなるスカートはいいとしても
僕の見たビートルズはTVの中…

緊張感を感じられない時代さ
僕はマシンガンを撃ったことなどない
ブラウン管には 今日も戦車が横切る
僕の前には さめた北風が吹く
ぬるま湯の中 首までつかってる
いつか凍るの? それとも煮え立つの?
なぜだか妙に"イマジン"が聞きたい
そしてお前の胸で眠りたい…

訳の解らない流行りに流されて
浮き足立った奴等がこの街の主流
おじさんは言う"日本も変わったな…"
お互い棚の上に登りゃ神様さ!
解らないものは解らないけどスッとしない
ずっとひねくれているばっかじゃ能がない
波風のない空気は吸いたくない

僕の見たビートルズはTVの中…
僕の見たビートルズはTVの中…
僕の見たビートルズはTVの中…



かって、<浮き足立った奴等>に持ち上げられた<訳の解らない流行り>にポスト・モダン思想というのがあった。その中の一人、ジャン・ボードリヤールが晩年に「ネットワークの精神的ディアスポラ」とかいう、これまた<訳の解らない>ことを述べている。正確・精緻な分析であるが、小難しい難解な表現の衣をはぎ取ってしまえば、何のことはない、アングルや被写界深度の濃淡の違いはあれども、斉藤和義とボードリヤールは被写体として同じものを感じ、同じものを見据えているように私には思われる。


バーチャル性ーーーデジタル、コンピューター、インテグラルな計算ーーーの領域では何ひとつとして表象可能ではない。・・・それらから何らかの感知できる現実性へと遡ることは不可能だ。政治的なものの現実性ですら不可能だ。この意味で、戦争すらもはや表象されえず、戦争の不幸に加え、それを出来事のハイパーヴィジュアルにもかかわらず、あるいはそのせいで表象できないという不幸が生じる。イラク戦争と湾岸戦争は、そのことをはっきりと示した。

批判的知覚、真の情報が存在するためには、映像が戦争とは異質なものである必要がある。だがそうではない。(あるいはもはやそうではない。)すなわち、戦争の凡庸化された暴力に、まったく同じぐらい凡庸な映像の暴力が加わるのである。戦争の技術のヴァーチャル性に、映像のデジタル的ヴァーチャル性が加わるのだ。政治的争点を超えたところで戦争を現実の姿、つまり世界的次元での暴力的な文化的同化の道具として捉えるなら、メディアと映像とは戦争のインテグラルな現実の一部をなす。それらは力による同一の均質化の、より巧妙な道具なのだ。

 このように映像を通じて世界を再把握し、情報から行動、集団的意志へと移行することが不可能であり、またこのように感受性が欠け、人びとを動かすことがない状態において問題とされるのは、全般的な無感動や無関心ではなく、単に表象のへその緒が断ち切られてしまったことなのである。
 ディスプレイは何も反映しない。・・・ディスプレイはあらゆる二者的関係を遮断する。

 そもそもこの表象の不能によって、行為が不能になるだけでなく、情報の倫理、映像の倫理、ヴァーチャルとネットワークの倫理をじゅうぶんに完成させることが不可能になる。この方面でのあらゆる試みは必然的に失敗する。
 残されているのは映像の精神的ディアスポラと媒体の常軌を逸した性能だけだ。

媒体と映像とのこうした優越について、スーザンソンダクが見事な逸話を残している。彼女は人類が月面に着陸するところをテレビで見ていたのだが、その場所に居合わせた人びとは、自分らはこのお話の全部を信じているわけではないと言う。彼女が「じゃあ、あなたがたは何を見ているというの」と問うと、彼らは「私たちはテレビを見ているんですよ!」と答えたのだ。
・・・
 だが結局のところ、スーザンソンダクの考えとは反対に、意味の帝国を信じているのはただ知識人だけであり、「ふつうの人びと」は記号の帝国しか信じていない。彼らはずっと以前から現実性をあきらめてしまっている。彼らは身も心も見せ物的なもの(スペクタクル性)の側に移ってしまっている。

 主体と客体とを区別する線が潜在的に消滅してしまっている相互作用的世界について、どのように考えればよいだろうか。

 この世界はもはや反映されることも表象されうこともありえない。それは脳の操作とディスプレイ画面のそれとが区別されなくなった操作によって屈折したり回折したりするだけだ。脳の知的操作それ自体がディスプレイ画面になったのだ。
・・・
インテグラルな現実のもうひとつの側面は、すべてが統合された回路のなかで機能することである。情報、そしてわれわれの頭のなかにおいて回帰する映像が支配するとき、コントロールされたディスプレイでは、雑多な要素の無媒介的な集合が生ずるーーー円環状に作用し、ライデン瓶のようにそれ自体に接合し、そしてそれ自体にぶつかる事物が一点をめぐって動きまわるのだ。それはすべてのコラージュによって、またそれ自体の映像との混同によって確認されるという意味での完全な現実性だ。

 この過程は、視覚的、メデイア的な世界において、だがまた日常的で個人的な生活やわれわれの身振りや思考においても完成にいたる。この自動的な屈折は、いわばあらゆる物を自分自身の上で焦点を合わせることによって固定することで、われわれの世界の知覚にまで影響する。

 これは写真の世界でとりわけ認められる現象だ。そこではあらゆるものがただちにある文脈、文化、意味、観念を奇妙にまとい、あらゆるヴィジョンの力を奪い、盲目の一形式をつくりだす。ラファエル・サンチェス・フェルロシオが告発するのがこれだ。「ほとんどの人が気づいていないが、恐ろしいかたちの盲目が存在する。」
・・・
 この意味で、美学的になったのはわれわれの知覚そのもの、直接的な感受性である。視覚、聴覚、触覚、われわれのあらゆる感覚が語の最悪の意味で美学的になってしまった。事物についてのあらゆる新しいヴィジョンは、それゆえ世界をその感知可能な幻想(それには回帰がなく、回帰する映像もない)に戻してやるため、回帰する映像を解体しヴィジョンをふさぐ逆転移を解決することからしか生じない。

 鏡のなかで、われわれは自分を自分の映像と差異化し、また自分の映像との間で、開かれたかたちの疎外や戯れに参入する。鏡、映像、視線、舞台、これらすべては隠喩の文化につながるのだ。

 一方、ヴァーチャル性の操作においては、ヴァーチャルな機械のなかに一定のレヴェル没入することで、もはや人間と機械の区別がなくなる。つまり機械はインターフェイスの両側にあるのだ。
・・・
 このことはディスプレイの本質そのものに起因する。鏡に彼方があるようには、ディスプレイに彼方(奥行き)はない。時間そのものの諸次元も、現実の時間において混じりあう。そしてどうのようなものでもヴァーチャルな表面というものの特徴は、何より空虚な、それゆえ何によっても満たされうる状態でそこにあるとすれば、現実の時間において、空虚との相互作用に入るのはあなただということになる。

 機械は機械しか生みださない。コンピューターから出てきたテクスト、映像、映画、言説、プログラムは機械の産物であって、その特徴を兼ね備えている。つまり人工的に膨張されられ、機械によって表面をぴんと張られる。そして映画は特殊効果を詰めこまれ、テクストは冗長さと冗漫さを詰め込まれる
・・・
 暴力とポルノグラフィ化された性のうんざりするような性質はそこからくる。これらは暴力や性の特殊効果でしかなく、もはや人間による幻想の対象でもなくなって、単なる機械的暴力なのだ。
・・・
 機械的テクストにあるのはあらゆる可能性の自動偏差だけだ。
・・・
 実際のところ、あなたがたに話しかけるのはヴァーチャルな機械であり、それがあなたがたのことを考えるのだ。
・・・
 そもそもサイバー空間のなかに、何かを真に発見する可能性があるだろうか。インターネットは自由と発見の心理的空間を偽装しているにすぎない。実際インターネットは、拡がりはあるものの慣習的な空間を提供しているだけであり、オペレーターはそこで既知の要素、すでに確立されたサイト、制定されたコードと相互作用を行うのだ。検索パラメーターを超えて存在するものは何ひとつない。あらゆる問いに、予測された答えが割り当てられている。あなたは問いかける者であると同時に、機械の自動応答機でもある。コード作成者であると同時にコード解読者であるあなたは、実のところ自分自身の端末なのだ。

 これこそ、コミュニケーションの恍惚だ。

 もはや面と向かう他者はいない。目的地もない。どこでもよいのであり、どんな相互作用因でもよい。システムはこうして終わりも合目的性もなく回転し、その唯一の可能性は無限に続く内向きの旋回である。そこから生じるのが、麻薬のように作用する電子的相互作用の心地よいめまいだ。中断することなく、そこで全生涯を送ることができる。



ただまあ、当たり前のことであるが、同じものを感じ、見据えていても、斉藤和義とボードリヤールとでは、それに対する反応というか応答が異なるのも確かで、同じ日本人だからなのか、<精神的ディアスポラ>を言い募るボードリヤールよりも、<ずっとひねくれているばっかじゃ能がない>と言う斉藤和義の方に、やはり私は肩入れしたい気持ちを持つ。

ボードリヤールは鬼籍に入って、亡くなってしまったので、あの世で仏陀に会っているかも知れない。従って、こんな風に仏陀に説教を諭されているボードリヤールの映像が映し出されているディスプレイ画面を想像してみるのも、あながち悪くはないと思うのだ。

ボードリヤールよ、ひねくれているばかりでは能がないということに気付いているかい。毒矢の当たっているお前に、毒の分析が何の意味がある。私は毒矢を抜く方法を教えるだけだ。








東西投資理論の変遷を考える 5

2024-07-06 12:00:00 | 投資理論
この点を考えるに当たっては、ダーバスがスランプに落ち入り、一旦獲得した<感覚>も喪失してしまい、そして、この最悪の状態から、どのように考えて行動してスランプを克服し、再度この<感覚>を取り戻すに至ったのかという、言わば投資家ダーバスの再生・復活の過程が参考になろう。

その経緯を「第9章二度目の危機」で、ダーバスは克明に記述しているが、この章はまたこの本の白眉でもあろう。この自らのスランプの原因に対する洞察力からも、ダーバスという人は相当な知性の持ち主であったということが判ろうというものである。


<自分には間違いようのないシステムがあるので、マーケットに今まで以上に近づくことさえできれば、毎日資産作りをする妨げになるものは何もないと考えた。>

そのために彼が選んだのは、マンハッタンにある、あるブローカーのディーリングルームであった。そして、このディーリングルームで、ダーバスはスランプに陥ることになるのである。

<取引を始めて数日のうちに、過去6年間にわたって学んだことをすべて放り出してしまった。自らを激しく律して禁じたすべての事をやるようになった。ブローカーと話をした。うわさに聞き耳をたてるようになり、ティッカーマシンのそばを離れられなかった。・・・・最初に失ったものは第6感だった。「感覚」がまったくつかめなかった。・・・わたしは理性に見放され、完全に感情に支配されるようになった。>

<取引はすべて壊滅的な結果に終わった。・・・日がたつにつれて、私の投資活動の悪循環は次のような様相を呈した。
天井で買い付ける→買ったとたんに下落し始める→あわてふためく→底値で売却する→売った途端に上昇し始める→強欲心が出てくる→天井で買い付ける >

<悲惨な状態で数週間を過ごしたあと、なぜこんなことになったのか、その理由を真剣にじっくりと考えてみた。香港やカルカッタ、サイゴンやストックホルムでは、どうしてあの感覚を持てたのだろう。そして、ウォール街から1キロも離れていないところにいるのになぜその感覚を失ったのか。・・・この問題の解決は容易でなく、わたしは長い間思い悩んだ。

<解決策をささやく声が聞こえたが、最初は信じることが出来なかった。・・・その声は、私の耳が私の敵だと言っていた。>

<答えはただひとつだと思った。・・・直ちにニューヨークを離れて、遠くへ行かなければならない。・・・それからパリ行きの飛行機に乗った。・・・私がブローカーに求めたのは、いつものとおりウォール街の株価に関する毎日の電報だけだった。>

<電報が毎日届いたが、その内容が理解できなかった。完全にカンを失っていた。・・・パリについて2週間ほどたったある日、・・・電報を手にしたとき、数字がいくらか明るさを増して見えるような気がした。・・・その後数日間、電報がだんだん鮮明になってきて、昔に戻って相場が読めるようになった。再び、力強い銘柄もあれば、軟弱な銘柄もある事が理解できた。同時に「カン」が戻り始めた。・・・私は教訓を得ていた。・・・わたしに必要なのは株価の電報だけで、それ以外には何もいらない。



ここで言われていることは、ダーバスが<感覚>を取り戻し、再度<相場が読めるようになった>のは、株価以外の情報を遮断した状態においてであったということである。言い換えれば、彼は株価(の数字)という最も基本的な一次情報以外の、一切の副次的な情報を遮断しなければ、この感覚を取り戻すことが出来なかったということである。

現在のそれこそ情報が溢れかえっている現在からは、なかなかと想像しにくいことだが、ここで、取り分け私が注目するのは、ダーバスがチャートさえも必要としていなかったという点である。いや、むしろ、チャートを見ないからこそ、ティッカー=株価の数字から<感覚>を得ることが可能になり、<相場が読めるようになった>ということである。




そして、同様にリバモアもチャートは使ってはおらず、株価の数字だけに基づいて、売買の判断を下していたことを挙げなければならない。


<私個人としては、チャートには全く興味がない。私にとってチャートは混乱を来すもとである。>(『リバモアの株式投資術』)

リバモアの場帖


場帖に価格を書き入れ、その動向を観察すると、価格が語りかけてくるようになる。・・・それは、形成されつつある状況を明確に伝えようと、必死に訴えかけてくる。・・・その値動きを注意深く分析して優れた判断が下せれば、どうすべきかが分かるはずだと語りかけてくるのである。>(『同』)




リバモアはこれ以上の事は書いていないが、興味がないだけではなく、なぜ<チャートは混乱を来すもと>になるのであろうか。

私には、ここがクリティカル・ポイントだと思われる。

ネットでダーバスやリバモアの投資法をググると、膨大な量(その殆どは英文)の記事がヒットするが、彼らの売買例をチャート上に図示・再現したものが非常に多い、というかほとんどすべてがそうだと言って良い。また、ダーバスの著作『200万ドル』にさえも、付録としてアメリカン・リサーチ・カウンシルが作成したダーバスの売買事例チャートが添付されているといった有様である。勿論、こうした方が一目瞭然で判り易いからであろうが、このことは、そもそもダーバスやリバモア自身がチャートなぞは使ってはいなかったという事実を見過ごさせるという一種の死角をも生むことになると言わなければならない。

このことの認識論上の意味合については、また後で考察してみたいと思っているが、チャートに基づいた視覚による事後的・空間的・静的な理解は、それと引き換えに、その時点時点における実践での、場帖(=数字の羅列)に基づいた想像力による、株価変動に対する動的な運動感覚の獲得である<変動感覚>を損なうものと言わなければならない。

私にとってチャートは混乱を来すもとである>というリバモアの言葉を見逃してはならない。

また、『欲望と幻想の市場』には、自分の<直観>について、<ジェームズ・R・キーンらの先輩相場師がこぞって磨こうとしたという、いわゆるティッカー・センスといったものかもしれない。>という一文も出てくるので、こうしたティッカーに基づいたある種のセンスの存在自体については、当時の相場に関わる者の間では、ある程度の共通認識があったとも思われる。何より、この<ティッカー・センス>という言葉の存在自体が、それを証しているとも言えよう。


さて、先にダーバスやリバモアの<神秘的な、説明のつかない本能>、<直観>や<カン>について述べている文章は、林輝太郎氏の本の中の文章をどうしても思い起こさせると書いたが、それは氏の相場技法論は、こうした言語化し難い「暗黙知」としての<変動感覚>の養成を旨とし、そのために場帖を最重要視するからである。

つまり、繰り返しになるが、この場帖最重要視という方法論も含めたロジックとして、本質的に相通ずる記述、いわば同じ中心を巡って同心円を描いていると思われる記述>だと私には思われるということであるが、それをさらに敷衍して言えば、ここにおいて場帖(=株価数字)に基づいた暗黙知としての変動感覚=ティッカー・センスという、現在の投資理論ではほとんど看過されている概念を基軸に据えることによって、(東西の)投資理論について、新たなパースペクティブが開けてくることになるのではないか、そう考えている次第である。






東西投資理論の変遷を考える 4

2024-06-16 12:00:00 | 投資理論
そして、ダーバスだけではなく、リバモアの本にも(彼は<直感>や<>という言い方をしている)、その性格は違うが、同じく<神秘的な、説明のつかない本能>について述べているくだりが出てくるのである。

なお、今回この文章を書くに当たって、ネットで探して、かなりの量のダーバスやリバモアについての文章や書評を読んでみたが、英語で書かれたものを含めて、この点に触れたものは、皆無であった。

まあ、普通に考えれば、彼らの判り易いピボット・ポイントとかボックス理論といった、いわゆる手法に目が行く方のが当然で、投資実践という彼らの人間的営為における、こういった一種の言語化し難い「暗黙知」とでも言うべきものが看過されるのは、致し方ないとも言える。しかし、彼らが明敏にも書いているように、その投資家としての成功には、その人間の生死と共に生成消滅するこうした「実存的暗黙知」というものがかなりの程度関わっているのも確かな事実で、それをこの際、再度考えてみたいというのが、この文章を書いている理由でもある訳である。




<いつだったか、おれがコスモポリタンの店でシュガーを3500株空売りしていた時に、直感的に手仕舞ったほうがよい、と感じたという話をしたけれど、おれはしばしばそうした奇妙な衝動を感じることがある。そういう時には、そのに従うことにしていた。しかし時には、盲目的にに従って自分のポジションを変えるのは愚かなことだと自分に言い聞かせることもあった。・・・・しかし、直感に従わなかった時にはいつも、後悔する羽目になるのだった。>(『欲望と幻想の市場』第6章)

<・・・相場ボードを眺めていた。多くの銘柄は、値上がりしていたのだが、おれはユニオン・パシフィックの値を見たところで、この株を売るべきだと感じたのだった。それ以上は詳しく説明できない。ただ、とにかく売るべきだと感じたのだ。なぜそう思ったのか自ら問いただしてみたけれども、この株を空売りすべき確たる根拠は見つからなかった。・・・とにかくこの株を売りたい。しかし理由は自分でもわからない。>(『同』)

この数日後、サンフランシスコ大地震が起き、リバモアはこの空売りの取引で、それまでで最大の利益を得ることになったということであるが、本人自身の手になる『リバモアの株式投資術』にも同様の記述が出てくる。



<1920年代後半の大強気相場において・・・この期間中、・・・けっしてポジションに関して不安を抱くことはなかった。だがそのうち、マーケットが閉まったあと、そわそわして心を落ち着けられないときが来た。その晩は熟睡もできない。何かが私を覚醒させ、マーケットについて思いを巡らせ始めた。翌朝は新聞を見ることさえ恐ろしかった。何か不吉なことが今にも起こりそうに思われた。・・・翌日、状況は際立って変化した。悲惨なニュースがあったわけではない。一方向へ進む長期にわたる変動の後に起きる、よくある突然のマーケットの転換である。その日、私の動揺は本物になる。急いで大量のポジションを清算する羽目に陥った。前日であれば、天井から2ポイント以内で建玉総てを手仕舞えたはずだ。昨日と今日で何たる違いだろう。・・・正直に言えば、私はこの内なる警告には疑念を持っており、通常は冷静な科学的手法を優先させる。しかし、静かな海を航海しているようなときに感じた大きな不安に注意を払うことによって、かなりの恩恵を得てきたというのも事実である。>(『リバモアの株式投資術』第6章)

ここで私が注目したいのは、リバモアがこの<直感>について、このように述べていることである。

それはマーケットを長年研究し、実践を積んできたことで身につく、特異な能力のひとつである。>(『同』)

<やがて、マーケットが教えてくれるより前に、自ら過ちに気づくことが出来る〔変動〕感覚が磨かれてくるようになる。それは潜在意識からの警告だ。過去のマーケットパフォーマンスから得た知識に基づく、自己の内面からのシグナルである。時に、それはトレードメソッドの発するシグナルに先んずる。>(『同』)

なお、この文章の<変動感覚>という訳語に違和感があったので、〔変動〕とカッコに入れて横棒を引いて置いたが、原文でも、以下のように、単に<This sense>とあるだけである。

<This sense of knowing when you are wrong even before the market tells you becomes, in time, rather highly developed. It is a subconscious tip‐off. It is a signal from within that is based on knowledge of past market performances. Sometimes it is an advance agent of the trading formula.>

どうして、<変動>という言葉を補って訳したのか、文脈から言って唐突で、私にはいささか疑問符が付くのではあるが、それにもかかわらず、これから述べる内容に関しては、論理展開の上で、一種の論点先取になっているのは、あらら、これってセレンディピティっていうやつ?と思わざるを得ないのも事実である。

というのは、これらのリバモアの文章は、私にはどうしても、林輝太郎氏の本に出てくるこの文章を、連想させずには置かないからだ。

<ある時、買った後にとても嫌な気がしたんだ。買うべきでないところで買った。つまり、いけないことをしたという気分の悪さとでもいうか、とにかく二日間もそんな気分の悪さが続いたので損になるが売ってしまった。どうしてこんなことになったのかと考えたが、一週間くらいたって分かった。そして涙が出てきた。俺にも変動感覚が出来てきたことがわかったんだ。変動感覚と売買技術-林の本には相場で儲けるためにはこの二つが必要だと書いてあったが、その変動感覚が少し俺に備わったのではないかと思われた。林は笑うだろう。笑われても良い、俺は少しだけだが上達の道に乗ったんだ。それから2年、相場をはじめて10年で、損した分をほとんど取り返した。>(『勝者へのルール』)

また、前回引いたダーバスの文章も、同様に次の文章を思い起こさせると言ったら、或いは自らの言いたいことに、あまりにも引き付け過ぎた解釈だと言われるであろうか。

<FAIクラブのメンバーで400銘柄の月足を描いている人がいます。2005年の8月初めに7月の月足を描き終わったとき、『今月から騰がるな』と思ったそうです。それこそ、はっきりと上がると感じたので、15銘柄3日に分けて買った結果、見込みどおり12月にかけて暴騰しました。『わかってきたのだ、ありがたい』と、うれしく感じたそうです。>(『同』)


さて、これらを、例外的な事例、特殊な才能を持つ人物の特異な<直感>や<>、或いは<感覚>の問題として片付けてしまうのは簡単だが、もう少し、事実の襞に分け入って考えてみることも大切であろう。つまり、問題なのは、リバモアやダーバスが、どのように<マーケットを長年研究>し、どのような<実践を積んできた>のかということである。





東西投資理論の変遷を考える 3

2024-06-02 12:00:00 | 投資理論
これは投資本に限った話ではないが、古典の評価というものは難しい。

私の場合、数年、時には十年以上の間隔を空けてから蔵書を読み返すのを心がけているが、それは評価がガラリと様変わりする場合が往々にしてあるからである。それは単に読書技術の拙劣さということもあろうが、特に投資という分野においては、量は兎も角として、とりわけ質的な経験値の蓄積がものを言うので、自分の実力レベルの内容までしか読み取ることが出来ないからである。それを、今回ダーバスやリバモア、さらに進んでワイコフ、バルークなどを読んで、今更ながらに思い知らされることになったと言っても良い。

ダーバスについては、今から考えると、林輝太郎氏の次の否定的な文章がどうも先入観になっていたように思われる。

<この本の初版は1981年である。自費出版で、全11話であったが、このたび同友館から改訂版を出すことになって、第3話の「ボックス売買法」を除外した。「ボックス売買法」は、ニコラス・ダーバスが『私は株で200万ドル儲けた』という本で紹介した方法で、この本はベスト・セラーになった。
第3話を除いた理由。ニコラス・ダーバスは、上記の本を1960年に出した。14年後の1974年に『ウォール・ストリート・ギャング』という本を書いたといわれる(筆者所有の『ウォール・ストリート・ギャング』の著者はリチャード・ネイになっている。筆名なのか筆者の聞き違いなのか詳細不明)。そしてさらに十年後の1984年、ロンドンの下町で落ちぶれた彼の姿が目撃されたのを最後に消息不明になったといわれている。要するに、彼は相場において有終の美を飾れなかったのだ。一時的に大成功した投資家は多いが、有終の美を飾ってこそ、本当の成功者である。>(『脱アマ相場師列伝』はしがき)

恐らく林氏は『私は株で200万ドル儲けた』以外は読んではいないと思われるが、現在手に入るダーバスの本は『200万ドル』以外にも幾つかあって、これらの内容からすると、上記の林氏の評価は、正確性を欠いた裏付けのない伝聞に、いささか引っ張られ過ぎたように思われる。

『ウォール・ストリート・ギャング』もざっと目を通したが、一口で言えば、インサイダー達による組織的暗躍活動の暴露本といった内容で、『金融市場はカジノ』(1964)で描かれているダーバスのマーケット制度観とは、関心の持ち方の点で、いささかそぐわないように思われるし、そもそも一介のダンサーであるダーバスに、こうした情報が知り得たとも思えない。また、リチャード・ネイは『The Wall Street Jungle」という同様の暴露本を他にも書いていて、やはり別人と考えるのが自然であろう。

また、<1984年、ロンドンの下町で目撃された>という情報の出所は確認できなかったが、ダーバスがアメリカを拠点に活動していたことから考えると、これも相当に怪しい伝聞だと言わざるを得ない。

そして、ダーバスが、『The Anatomy of Success』(1965)の中で次のように書いていることも挙げなければならない。というか、そもそもこの本自体が、良くあるような功成り遂げた人物が書き下ろした、”成功法則本”なのであるが。

<I myself have worked in many fields and, at the risk of sounding self-laudatory, I can honestly say I have been very successful. At one time, I became world famous as an acrobatic dancer. And during a subsequent period of my life, I made a name for myself, creating a brand-new image, as an author. Later, I went on to explore and become successful in other fields—the fashion industry, theatrical producing, real estate are a few examples. >

<私自身、さまざまな分野で仕事をしてきた。自画自賛に聞こえるかもしれないが、正直なところ、とても成功したと言える。アクロバットダンサーとして世界的に有名になり、その後の人生で、私は作家として新しいイメージを作り上げ、その名を世に知らしめることになった。その後、さらに未知の分野に進出し、私はファッション業界、演劇プロデュース、不動産など、他の分野でも成功を収めたのだ。>

尤も、出版年はどれも皆1984年よりも前で、一番新しい『「株で200万ドル儲けたボックス理論」の原理原則』(『You Can Still Make It In The Market』)の出版が1977年なので、この伝聞を完全に否定する決め手にはならないけれども。

  


しかし、まあ、私にとっては、晩年のダーバスが落ちぶれようが落ちぶれまいが、こうした詮索はどうでもいいように思われる。それほど『私は株で200万ドル儲けた』の中で描かれているのは、傑出した投資家がどのように誕生してゆくのか、その試行錯誤の成長過程が、見事に、生き生きと活写されているからだ。また、この本は投資本というジャンルを超えて、自伝としても傑作の部類に入ると言っても過言ではないとも思う。



といったようなことで、今回読み直して、以前には読み飛ばしていた多くの部分に注目することにもなった訳である。

今回新たに気付いたのは、林輝太郎氏の投資技術理論と本質的に相通ずる記述、いわば同じ中心を巡って同心円を描いていると思われる記述が幾つか見られたことである。例えばこのようなところであるが、この文章をどのように読まれるであろうか。

<投資技術をマスターしたことにも疑問の余地はなかった。電報を通じて取引をしていたことで、ある種の第六感も冴えてきた。これが自分の探している株式だということが「感覚」で分かった。・・・わたしはたいていの場合、好ましい株式を見つけることができた。ある株が8ポイント値上がりしたあと、4ポイント下落しても警戒感を持たなかった。そうなることを予想していた。また、ある株価が堅調になると、それが値上がりするのはいつかを言い当てたこともしばしばあった。これは神秘的な、説明のつかない本能だったが、そんな本能がわたしの体のなかにあることは事実だった。そのおかげで非常に大きな力を得た気になった。>









暴落はトレンド、トレンドはフレンド 10

2024-05-05 15:00:00 | トレンド・フォロー
空売りのセット・アップとして天井を付ける形には色々あって、その典型はヘッド・アンド・ショルダーであるが、今回はダブル・トップの事例で、以下は現在いくつかショートしている内の、最近エグジットした2つの個別株のケースである。



1つ目は、7342ウェルスナビ。



3段上げでダブル・トップを付け、3月5日に5日移動平均線を下に抜けたので、例のごとく翌朝寄り成りでエントリー。5000-0

なお、後で挙げる7003三井ESほど明確ではないので図にラインは引かなかったが、過去20年の4月と8月に、ここら辺りで2回天井を打っていることも、エントリーの理由の一つである。つまり、ここら辺りにレジスタンス・ゾーンがあると想定される訳だ。

週足

利確ターゲットの目安は、ネックラインが2076なので、レフト・トップの2500、ライト・トップの2420という数字から計算すると、それぞれ1652、1732という目標値が出てくるが、上昇時に窓を開けているので、これを埋めることが出来るかどうかも頭に入れて置く必要があろう。

3月21日 ずっと下げて来て、3月15日に1755円で一旦底を打って、5日移動平均線の上に出たので、ヘッジを入れる。まだ目標値に達していないので、下げ目線。5000-1000

3月25日 5日移動平均線を陰線で下に抜けたので、ヘッジを切ってその分売りを増やす。6000-0

3月29日 前日に1636円を付け目標値に到達。ここで利確したテクニカル・ショーターが多いためと思われるが、この日は大きく上げて5日移動平均線の上に出た。しかし、5日移動平均線の傾きが今だ急であるので、まだ下げるのではないか、従って青い100日移動平均線で跳ね返される可能性も十二分にあると考え、下げ目線継続。ということで、ヘッジを入れると共に、売りも追加。7000-1000

4月1日 やはり、100日移動平均線で跳ね返され、5日移動平均線を陰線で下に抜ける。ヘッジを切ってその分売りを増やす。8000-0

4月19日 その後、下げて来て、黒い300日移動平均線を抜けられずに跳ね返され、陽線で5日移動平均線の上に抜ける。5日移動平均線もほとんど水平になって来たし、すでに日柄もエントリーから33日も経っているので、ここでエグジット。0-0

終わってみれば、地合いにも恵まれたせいか、大きな戻りもなく、非常にやり易かったトレードであった。


次は、バズッたというべきか、何かと話題の7003三井ES。



3月8日 普通は5日移動平均線を割ったのを確認してからエントリーするが、いささかフライング気味にエントリー。話題になっていた銘柄だけあって、出来高が多いので、スケベ心を出して、ロットを少しばかり上げているが、後になって考えてみるといささか前のめりであったように思う。10000-0

それは、これも3段上げで綺麗なダブル・トップになっているということもあるが、それだけでなく、チャートに引いておいた青い線のレジスタンス・ラインで、2度もオーバー・シュートして、結局戻されてダブル・トップになったように見えるからである。というのはこのラインで過去に2度、2009年8月31日に2640円、2014年11月28日に2600円で天井を打っているからで、つまり、このレジスタンス・ラインで都合4度跳ね返されているということに成る訳である。

月足
目標値は、計算上1936と1928になる。これも窓を開けているので、窓を埋めるかどうか、また窓明け後にちゃぶついているところー小さなボックス(オレンジで図示)も抵抗帯になると思われるので、ここら辺りで一旦戻しが入りそうである。

3月11日 5日移動平均線を割り、大きな陰線。フライング気味のエントリーだったので、やった!というよりも、少しホッとしたというのが、この時の偽らざる心境。

3月12日 1800円まで下げ、あっさりと目標値に達するが、日柄から言ってもまだ下げの序の口、上下に髭をつけた短い陽線で終わったのは、テクニカル・ショーターの手仕舞いであろうか。

3月18日 あまり下げずに、5日移動平均線の上に出たので、ヘッジを入れる。なかなかと強く感じられたので、ヘッジを多めに入れる。やはり、ボックスが抵抗帯になっているようだ。10000-3000

3月26日 大きな陽線。酒田新値2本目なので、ツナギを入れる。13000-3000 つまり3月18日に入れた買いの3000に対して売りの3000でツナギを入れたという恰好である。

酒田新値について、詳しくは以下の本を参照されたい。



3月28日 5日移動平均線を割ったので、ヘッジを切って売りを追加。16000-0

4月8日 結構下げてから陽線で5日移動平均線の上に出たので、ヘッジを入れると共に、5日移動平均線の上に出るのが2度目なので、6000を利確。10000-3000

4月12日 25日移動平均線を超えられずに、5日移動平均線を陰線で割る。弱い。13000-0

4月24日 3段下げ完了で、あまり下げないで、5日移動平均線の上に出た。これも日柄としては33日経っているので、ここでエグジット。0-0

終わってみると、7342ウェルスナビと比べて、あまり下げず、やはりと言うべきか、シクリカル銘柄の強さを体感したトレードだったと言わざるを得ない。或いは次の上昇相場を牽引する先導株になるのかも知れないとも思われるので、監視銘柄に入れて置く。

「シン・コロナ:Q 2.00」―現実(ニッポン) 対 虚構(COVID-19)

2024-04-24 00:00:00 | 空気に水を差す
「mRNAワクチン中止を求める国民連合」4月23日wunder発進!

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ぬるま湯でないときの「感じ」

2024-04-21 14:00:00 | 相場は相場に聞け!
今のこの時点で、読み返していた林輝太郎氏の著作の中から、「売り名人」の相場師の言葉を、引いて見るのも良いだろう。こういう経験値が凝縮された、筋金入りの言葉というものは、やはりある程度場数を踏まないと、その深さというものが、なかなか理解できないものである。

上げ相場というのはとても怖いのです。いつ崩れるかもしれないからです。・・・それまではだんだんと燃えてくるので、その段階はあんまり気苦労はありません。
その「気苦労のないとき」はもちろん楽に乗れるかわりに、取れる幅はたかが知れていますよ。こんなときは、動きもゆるやか、ぬるま湯みたいで、ためし玉を入れてみたってふにゃふにゃして、感じという感じはありませんや。でも、そんな「感じ」を持った経験があると、ぬるま湯でないときの「感じ」が判ってくるわけですよね。
>(『脱アマ相場師列伝』

今にして考えれば、日経平均3万8865円正確に間違えるよりも、大まかに正しくありたいという文章を書いた時、私の一番の根底にあったのが、年末から歳が明けて以降の相場に体感していた、この<ぬるま湯でないときの「感じ」>であった。ここで胸に手を当てて、思い起こしてみて頂きたいが、年末から年明けの天井を付けるまでの相場の動きは、明らかに異常な相場付であったのが判るだろう。

なお、誤解のないように釘をさしておくと、この<ぬるま湯でないときの「感じ」>というのは、相場にシンクロした「変動感覚」の「感じ」であって、SNSで垂れ流されているような陶酔や動揺、FOMO(fear of missing out、フォーモ、取り残されることへの恐れ)による焦りなどといった投資家心理の「感じ」とは、全く範疇の違う別ものの感覚のことである。

というのは、一部では「恐怖で買って、強欲で売れ」というように、VIX指数や、Fear & Greed indexを根拠に売買を行う、といった投資法を唱導する人もいるが、こういった考え方に対しては、私は否定的だからである。というのは、VIX指数や、Fear & Greed indexを介して市場を理解するのは、間接的な迂回した方法だからである。言い換えれば、<ぬるま湯でないときの「感じ」>というのは、迂回しない直接法による相場の絶対的な認識であるということである。

この意味で、リバモアが、マーケットの需給を動かしているのは<人間の情緒であり情動>と言う一方で、<株価を動かす要因が何か、多大の時間をかけて答えを見つけようとするのは愚かである。><株価が変動する姿にのみ意識を集中させよ。変動の理由に気をとられてはならない。>と言っていることは見逃してはならない。

繰り返しになるが、これは、人間の情緒や情動を最も明確に表しているのがマーケットそのもの、すなわち株価の動きであって、そこに因果関係や相関関係的ロジックを持ち込んではならないと、リバモアは言っている訳である。

例えば、今回の暴落については、原因として事後的に地政学的リスクだとか、FOMCの利下げ後退観測だとかが、一般に後講釈で言われているが、これらなぞはその最たるもので、実践の上では全く使えない理屈であることは、今回、前もってこれらの原因から暴落という結果を予想、或いはそのリスクを指摘した人が殆どいなかった事実が良く表していよう。改めてリバモアの<株価を動かす要因が何か、多大の時間をかけて答えを見つけようとするのは愚かである。変動の理由に気をとられてはならない。>という洞察の深さが判ろうというものである。

いや、くどくどしい文書になってしまったが、従って、百年近くも前の<株価が変動する姿にのみ意識を集中させよ>というリバモアの指針が、今回の暴落でも実践上最も有効な方法論であったことが、またもや証明されることになったと個人的には考えている次第であるが、今一度この点について、よくよく考えてみて頂きたいと思う次第である。


2023 TraderLion Model Book A Fundamental & Technical Analysis

2024-04-15 22:00:00 | 相場は相場に聞け!
TraderLionから2023 Model Book が無料配布されているので、興味のある方は手に入れれて置くことをお進めする。下の画像をクリック。



これは、2023 年に大きく上昇した代表的な10銘柄について、基本的なファンダメンタルと以下のように、チャート上でどこで買い、どこで買い増しをし、どこで売り、どこで再エントリーをするか等を解説したもので、model-bookというだけあって、非常に判り易い。手法としては、基本的にオニールのやり方であるが、最新の事例集として興味深い内容であることは言うまでもない。オニール流でやっている方は、ぜひ。

それにしても、投資文化の違いからか、日本ではこういった Model Book などのケース・スタディを研究・検討するという事例がほとんど見られないのは、色々と考えさせられるところではある。



休むも相場

2024-03-21 00:00:00 | 相場は相場に聞け!


最近は、もっぱら林輝太郎氏の著作を読み返しているが、やはり氏の著作は紛れもなく古典であるという思いを新たにしている。

投資本にも流行り廃りがあって、生前時の氏の影響は大きく、多くの世代に渡っていたと言って良いが、氏の逝去に伴ってあまり名前を聞くことがなくなってきたのは、致し方ないとは言え残念なことである。例えば、最近の投資関係のお勧め本の中に氏の本が出てくることはほとんどないが、このような『選集』が出版されているのは、後にも先にも林輝太郎氏だけであろう。古典だというのは、内容が時代遅れになって行かないからで、むしろ時代とともに新しくなっていくと言っても良いくらいである。



そして、これらの著作の中で、一冊を選ぶとしたら、どれが良いのかと言われれば、私はこの『ツナギ売買の実践』を躊躇なく挙げる。

最近のSNSを眺めていると、買い持ちの個別銘柄のヘッジとして、225などの指数を売っている例をよく見かけるが、これが「ツナギ」の一種であることをを理解した上で、実行している人は殆どいないのではないかと思われる。というのは、この「ツナギ」という概念を理解しているといないとでは、大げさでなく天と地ほどの違いがあると言わなければならないからだ。それは、結局、「ツナギ」の入れ方外し方が判らないからで、ヘッジとしての成功は、入れ方は兎も角、外し方が判らないと利益にもっていくことはなかなかと難しく、この点、心当たりのある人も多いだろう。

私も、最初にこの『ツナギ売買の実践』を読んだ時は、良くわからなくて、一読キツネにつままれたような気がしたものである。なんだこりゃ?文章自体は難しいものではなく、言っていることは判るが、その言っていることで、何を言わんとしているのかが判らないのである。これは知らない人には、「ツナギ」というのは全く新しい未知の概念であるからで、その未知のロジックを理解するのに時間がかかったという事であるが、この事はこの本に限らず氏の著作すべてに言えることだということが出来る。この意味で、氏の著作は、読者を選ぶ著作だと言わなければならない。氏も著作の中でくどい程述べているが、柔軟に未知の思考を受け入れることが出来ない人の目には、拒絶し断罪すべき内容にしか映らないといったことになるようだ。

この意味で、実践するしないは別として、他の著作ではお目にかかれない、ワン・アンド・オンリーの投資コンセプトを提示した投資本として、一度は触れて理解しておくべき著作であると考えているので、この機会に強くお勧めする次第である。


さて、なぜ今氏の著作を読み返しているかというと、私の知っている限り、氏が、前のバブル崩壊に上手く対応できた唯一の人物だからである。

また、天井近し、という相場観を持ったのは、ほとんどの銀行株、証券会社株が1987年の4月に天井を打って、88年、89年には大きく下げていた事実にもあった。平均株価は上げ続けたが、新日鉄は89年2月に984円をつけ、どうも天井くさい動きなので注意して見ていた。売ろう、とは思うが、なかなかふんぎりがつかない。
6月25日、中源線が陰転したので、思い切って翌26日の寄り付きで、証券会社3社で1,000株ずつ売った。これが、それから約7~10万株(増減があったし、他の銘柄も合計して)のカラ売りをするはじまりだった。そして、家を新築するのに引き出した以外は、98年1月までの8年間、半年毎に乗り換えながら売り続けたのだ。細かく計算したのはずっとあとであるが、上げ相場と下げ相場の両方での利益は10億円を超えていた。1948年にはじめて株の売買をしてからちょうど50年目である。私の人生のほとんど全部と言って良い。


つまり、ドテンして上げ相場だけでなく下げ相場でも利益を上げたのである。<8年間、半年毎に乗り換えながら売り続けた>ということからも確固とした相場観が伺えて、見事と言うしかないのであるが、それはそれとして、ここで私が注目したいのは、氏が<私の成功の一因は、88年5月から89年6月まで1年1カ月休んだことといまでも信じている。>と述べていることである。

氏は、「売り」、「買い」、「休み」のうち、一番大事で難しいのは「休み」とも述べていて、私はこの「休み」を入れようか入れまいか、どれだけ「休み」を入れようかと、現在はずっと考えを巡らしている最中である。

この「休み」を入れる意味合いは、マインド・マネージメントの意味合いからで、色々な意味合いがあるが、一番大きいのは「目線」を変えることが難しいということである。つまり、「上げ目線」から「下げ目線」に変えることが、難しいのだ。頭は容易に切り替ることが出来ても、潜在意識は納得しておらず、直ぐに切り替ることが出来ないので、「手が合わない」と言ったポカが頻発する事態に成りかねないのである、とでも言えば良いだろうか。

試しに、いくつか空売りしてみたが、難なく成功したのだから、余計に悩ましいところである。ちなみに、方針はすでに決めてあって、それは「ツナギ」を入れながらの両建てによる「売り上がり」である。つまり、リスク・マネージメント最優先で、ドテン狙いということであるが、ここからは、再エントリーのタイミングの間合いを計っていくことになる。

ここ半年ほどの相場を観察していると、結局はアメリカ次第のように見受けられる。市場は利下げを今か今かと待ち受けていて、年初には6回の利下げを見込んでいたが、なかなかインフレが収まる兆候が表れず、現在は年内3回の利下げにまで後退せざるを得なくなっている。私は下手をすると利上げもあるのではないかと思っているが、どちらにしても、前に述べたように、アメリカ経済は景気後退に突入することに成るので、アメリカのハード・ランディング・シナリオに変わりはない。結局、事はFOMCガチャといった様相を呈しているというのが、現在の私の考えである。









「正確に間違えるよりも、大まかに正しくありたい」

2024-03-17 18:00:00 | 相場は相場に聞け!
これは、<I’d rather be vaguely right than precisely wrong.>というJ.M.ケインズの言葉だが、確かバフェットにも同じような言い回しの発言があったように記憶している。

どちらでもよいが、この言葉を引くのは、私の日本株の大局シナリオについては、今のところ変更するには至ってないからである。尤も、若干の微修正が必要なのは言うまでもない。つまり、最高値更新及び4万円超えはオーバー・シュート、いわゆる「ダマシ」であった蓋然性が高いと見ている訳である。

前にも述べたが、これは個別株でも同様で、例えば前に挙げた1518三井松島ホールディングスの場合は、2008年5月30日に付けた4120円辺りで、2回天井をつけているが、御覧のように1回目はかなりオーバー・シュートしている。



そして、私と同じように現在がバブルだという意見を、色々な人が述べているのは承知しているが、これはこの問題に限ったことではないけれども、残念なのは、批判的な意見も同様なのだけれども、その根拠を明確に述べている人はあまり見られないことである。まあ、何れにせよ意見は意見として尊重するのに吝かではないが、そうした意見に至るロジック=思考プロセスの方がより重要ではないかと私は思う訳である。

議論の前提として、これはいくら強調しても強調しすぎることはないと考えているので、くどいようだが、そもそも、マーケットは何によって決まるのか、ファンダメンタルなのか、それとも需給なのか、というどちらのマーケット観に立つのか、言い換えると自らの相場に対する根本的な認識論的立場を明確にしておく必要があると考えている。


再度、cis氏の言葉を引けば、

企業の価値を株価が正しく反映していないと考えるよりも、株価こそが答えであり、世の中の総意として適正だとみなされている数字だと考える方が正しい。

ということであるが、永年、色々な人の議論や意見を聞いたり読んできたけれども、この点を明確に理解した上で発言している人は、ほんの一握りの人しかいないのが現実である。

例えば、効率的市場仮説に関する議論があって、これには色々と五月蠅い議論がある。テクニカル派の人でも「すべてはチャートに表れる」などという人がいるが、私に言わせれば、そもそも「市場は効率的か?」と問う事自体が間違っている。これは、そもそもの問題設定が間違っているのだから、答えの当否など何物でもないといったちゃぶ台返し的な身も蓋もない話であるが、どういうことかというと、「市場は効率的か?」と問う事は、当然の事ながら、何かに対して「市場は効率的か?」と問うのだから、前提としては何らかの因果関係或いは相関関係モデルを前提としている訳である。これはいわゆる物理学などの科学をロール・モデルとして、その方法を市場や相場に応用できる、或いはしようという考え方であるが、この考え方はいささか楽観的過ぎはしまいかと言いたい訳である。

このことはより俯瞰して考えれば、果たして、世界は科学的方法でもって一元的に理解できるのかという問題に帰着するのであるが、前にも少し書いたが、生命現象に関しては、生命とは何かという根本的な問題に対して、科学は回答が出来ていない。そもそも「生命」の定義すら出来ないのが実情である。例えば、生きている人間と死体の違いが全く説明出来ないといった体たらくである。

従って、人間という生命現象のふるまいである市場や相場に対しても、ことは同様であると考えるのが至極真っ当であると私は考える次第であるが、一度この点について考えてみて頂きたいと思う次第である。

リバモアが、マーケットの需給を動かしているのは<人間の情緒であり情動>だという言葉を前に引いたが、これは言い換えると、大衆心理によってマーケットは動いているという見地に立っていると言い換えても良い。では大衆心理を理解するにはどうすればよいか。

これに対しては、行動心理学や脳科学などによって相当に解明されてきているといった、科学的な見地からの返答があろうが、果たしてそうだろうか。

これも、人間のこころ、或いは精神、または魂、まあ、言葉は何でもよいが、心理というものの定義自体は、科学的にはこれも原理的に出来ていないでいる点では同様である。これらの(疑似)科学には、こう問うてみても良いだろう、では行動心理学や脳科学を生み出した科学者の行動心理やこころは解明できるのか?脳が判ればこころが判るのか?と。


この問題に対する私の答えは、間接的な方法である分析などをせずに、直接的に理解すればよいと言うものである。直接的に理解するとは、大衆心理に自らの心理を同期=シンクロさせるということである。これは、我々人間の認識方法には、二つの原理的に異なった方法があるという前提に立っている。

たとえば空間の中に一つの物体が運動しているとする。私はその運動を眺める視点が動いているか動いていないかによって別々の知覚を持つ。私がその運動を関係づける座標や基準点の系に従って、すなわち私がその運動を翻訳するのに使う記号に従って、違う言い方をする。この二つの理由から、私はこの運動を相対的と名づける。前の場合も後の場合も私はその物の外に身を置いている。ところが絶対運動という時には、私はその運動体に内面的なところ、いわば気分を認め、私はその気分に同感し想像の力でその気分のなかに入り込むのである。その場合、その物体が動いているか動いていないか、一つの運動をとるか別の運動をとるかによって私は同じことを感じないだろう。私の感ずることは、私がその物体の中にいるのであるからそれに対してとる視点には依存しないし、元のものを把握するためにあらゆる翻訳を断念しているのであるから翻訳に使う記号にも依存しない。つまりその運動は外から、いわば私の方からではなく、内から、運動のなかで、そのまま捉えるのである。そうすれば私は絶対を捉えたことになる。>(アンリ・ベルクソン「形而上学入門」


いささか回りくどい回り道をしたが、この点を踏まえて見ると、100年近く時を隔てた、この二人の投資家或いは投機家の言葉は、全く同じことを述べていると私には思われるのだが、どう思われるだろうか。つまり、彼ら2人は、マーケットの動きに直接シンクロしろ!と言っているのである。


株価を動かす要因が何か、多大の時間をかけて答えを見つけようとするのは愚かである。>(ジェシー・リバモア

株価が変動する姿にのみ意識を集中させよ。変動の理由に気をとられてはならない。>(


「どうやって勉強したか?」とよく聞かれる。僕の場合、ただひたすら値動きを見た。マーケットのことはマーケットでしか学べない。>(cis


さてそのcis氏であるが、知っている人も多いと思うが、Xで久方ぶりにつぶやいて話題?になっている。






青の矢印が私の手仕舞いポイントで、橙の矢印がcis氏の手仕舞いポイントであるが、その精度には舌を巻くしかないと誰でもが言わざるを得ないだろう。cis氏はロジックを述べていないので、判断根拠は判らないのであるが、全くヒントがない訳ではない。

ずっと上がっていた株が少し下がったとき、それは一時的に下がっただけなのか?反転したのか?それもわからない。・・・・僕の場合、あまり小さな動きは気にしないで、ある程度下がった時に売ることが多い。相場用語で、上ってきた株が一時的に下がることを「押し目」というけれど、僕は2度目の押し目で売ることが多い。

つまり、今回も<2度目の押し目>で手仕舞いしたのではないかと私には思われるのだ。今回のケースで<2度目の押し目>をどの時点でどのように判断したのかというと、この日足チャートで見ると、直前の3月4日に高値を付けて一旦押し、再度3月7日に高値を付けたが、寄り天で3月4日の高値を上から下に陰線で抜けた形になっている。従って、この3月4日の2度目の高値割れ=<2度目の押し目>が明確になった前場の引け辺りの時点で、cis氏は手仕舞いしたのではないかと私は想像する訳であるが、どう思われるだろうか。

尤も、何度も述べているように3月7日で天井を打ったかどうかは、もっと後になってから、事後的にしかわからないということは言わざるを得ない。ただ私は、現在は天井圏であることが、大まかに判ればよいと考えているので、正確にピンポイントで天井を当てることは出来もしないし、またその意味もない。従って興味もないというのが偽らざる私の考えである。

最後に、日本では買い一辺倒で(例えば買い推奨銘柄はあっても、売り推奨銘柄はないし、投資本の手法解説も買いの手法一辺倒で、利確も含めて売りの手法については殆どと言って良いほど言及はない有様で)、売りについてはほとんど議論されることがないので、売りについて若干コメントを述べておくと、売りの考え方としては、大まかに2つに分類される。

英語ではsell into the strength、sell into the weaknessという風に表現されたりするが、前者は日本の「吹いたら売れ」という相場格言と同じで、上昇が加速しているその渦中に売るやり方で、私はもっぱらこのやり方を取っている。もう一方の「弱きに売れ」というのは、逆に上昇が弱まるのを待って、押しを確認してから売るやり方で、cis氏の言う<2度目の押し目で売る>というのがこれである。

具体的なやり方や手法は色々あるので、調べていただきたいと思うが、結局、こうした2つのやり方に分類されることになるのは、ピンポイントで天井を当てることは出来ないという事でもある。従って、天井の手前で売るか、その後で売るかの二択しか方法はないということになる訳である。

「頭と尻尾はくれてやれ」というのは、この間の事情を良く表した相場格言だと言って良いだろう。




Oliver Kell’s Price Cycle Mastery

2024-02-20 21:00:00 | トレンド・フォロー


前に紹介した、2020年の→Financial Competitionsで+ 941.1%という新記録を打ち立てて優勝したOliver Kellによる「Price Cycle Mastery」という 無料講座がtraderlionで始まった。

申し込みは、上の画像をクリック!

100% FREE Model Book + Email Courseということで、EBookのテキストと7日間毎日送られてくる解説Emailという講座形式で、まだ全部のメールを受け取っていないが、EBookの内容と最初のメールの概略説明から見て、かなり良質のコンテンツであることは間違いない。

勿論、最後には高額な有料講座への誘導もあるが、著書の「Victory in Stock Trading Strategy and Tactics 」と比べてみても、ふむふむ、無料でここまで出すのかといった、かなり出し惜しみしない内容で、これだけでも彼がどのように「Price Cycle 」をテクニカルに解析しているのかが、十二分に理解できる内容である。

ただ、かなり凝縮された内容なので、テクニカルの基本的な素養の無い人には、こうした高度な応用は、その本質を理解するという意味で、かなり難しいかも知れないが、手元に置いておいて時間をかけて何回も読み直せば、多くの発見があろう。また当然に英文であるが、英語が苦手な人には、AI翻訳でどうにかなるだろう。

いつ打ち切られるか判らないので、興味のある方は、今のうちに手に入れて置くことをお勧めする。

日経平均3万8865円

2024-02-18 21:00:00 | 相場は相場に聞け!
暴落の前に天才がいる。―ジョン・ケネス・ガルブレイス



先週、日経平均は史上最高値まであと50円に迫る38865円まで上昇したが、結局、38487円で引けた。

これまでに、再三書いているように、日本株は、史上最高値は更新しないで、ダブルトップをつけて下がっていくというのが、私のメインシナリオなので、16日金曜日の寄り付きで、殆どのポジションを手仕舞い、キャッシュポジションを93%にまで高めたところである。

勿論、相場に100%はないので、史上最高値更新というプランBも排除するものではないが、今だメインシナリオを変更するほどの兆候は表れてはいないので、後で再検討するためにも、現時点での考えを言語化しておくのも良いだろう。

ということで、以下は、まあ、理屈はどうとでも付くの見本のようなポジション・トークである。

まず、挙げなければならないのは、悲観論がほとんど皆無だと言うことである。SNSなどでも、YHよりも、どうやったら指数に劣後しないかが主なトピックになっているといった異様な有様で、これは楽観の極み、ほとんど陶酔の域に達しているのではないかと私には思われて仕方がないのであるが、どう思われるであろうか。

現況は、史上最高値更新は時間の問題というのが、大多数の市場参加者や識者の総意であると言って良いだろうが、それが返って危ないと私なぞは思うのである。その背後にあるのは、ファンダメンタル的な理由付けであろうが、色々なデータや数字から日経平均5万円だとか、人によっては日経平均何十万円だとか様々に言われているが、これに対しては、そもそもファンダメンタルによって天底が判断出来るのかと私は言いたい。

これは結局のところ、マーケットは何によって決まるのか、ファンダメンタルなのか、それとも需給なのか、というマーケット観に帰着する問題であるが、この点はいささかややこしい認識論的な論点を含むので、こうした議論が嫌いではない方は、以下の二つの文章を参照されたい。

トレンド・フォロー再論

二番煎じトレンド・フォロー再論


後者の立場に立つ私には、さらに踏み込んでマーケットというものの核心を突いたと思われるジェシー・リバモアの言葉を幾つか、ここで挙げておこう。リバモアが、マーケットの需給を動かしているのは<人間の情緒であり情動>だと言っているのはまさに至言であると私は思うが、どう思われるであろうか。


株価を動かす要因が何か、多大の時間をかけて答えを見つけようとするのは愚かである。

株価が変動する姿にのみ意識を集中させよ。変動の理由に気をとられてはならない。

ウォール街に、あるいは株式投資・投機に新しいものは何もない。 ここで過去に起こったことは、これからも幾度となく繰り返されるだろう。 この繰り返しも、人間の本性が変わらないからだ。人間の知性の邪魔をするのは、常に人間の情緒であり情動である。


従って、次にこのような立場から、現時点において、<株価が変動する姿>をチャートからどのように読みとれるのかを以下に示す。

まず、225、TOPIX共に窓を開けて短いコマ上髭ピンバーで終わっているのは、ひとまず天井を打ったことを示唆している。


225


TOPIX

次にセクター別で見ると、1625電気・精密と1626情報通信・サービスその他の長い上髭ピンバーが目につく。この二つのセクターは、明確に天井を打ったと判断して良いだろう。

















さらにこれまで相場を牽引してきた半導体セクターに、16日に明らかなディストリビューション=機関投資家の売りがあったことが巨大な出来高から判ることも挙げなければならい。問題は、それが今後も続くのかどうかであるが、私にはこのタイミングで機関投資家が売ってきたことを重視しない訳にはいかない。それは個別株でも同様だが、何年も前の鋭角に上がって鋭角に下げた天井値というのは、要注意だからである。

暴騰はトレンド、トレンドはフレンド 2








そして、次には、俯瞰してみた<株価が変動する姿>である。

クライマックス・トップ

チャネル・ラインをブレイクしてクライマックス・トップ圏に入ったことは指摘しておいたが、ライフ・サイクル・ステージ分析から言っても、現在が天井圏であることは、すでにベースを5つ形成していることからも明らかに言えることである。





この他にも、上昇ピッチの過熱化など色々と挙げられるが、結局、天井というのは明確には事後的にしかわからず、天井をピンポイントで捉える方法というのは発明されていないので、こうした”状況証拠”を幾つか積み上げていく他ないのであるが、リバモアやオニールの言う如く、複数の先導株が異常な動きをして天井を打つのと機を同じくして相場全体が天井を打つというアノマリーから考えれば、半導体セクターがどうなるのか、来週一週間の相場は天下分け目の天王山になろう。取り分け重要なのは、ディストリビューションの有無であるが、この意味合いで、言うまでもないことだが、現在の相場を象徴する先導株エヌビディアの決算に対する市場の反応がどうなるのかは、最注視イベントであると考えている。

くどいようだが、問題は決算内容の良し悪しではなく、それに市場がどう反応するかである。経験がある人も多いと思うが、最高の利益を出した好決算であるにも関わらず、叩き売られて暴落し、結局そこが天井だったという例は、枚挙に暇がないが、それは機関投資家が売っているからである。そして、こういった場合、往々にしてファンダメンタルズも株価に追随するかのように悪化していくという経過を辿ることになる訳である。







ヘッド・アンド・ショルダー

2024-02-07 09:00:00 | 相場は相場に聞け!

CFD225

さて、下に抜けるか。

2023 U.S. Investing Championship

2024-01-28 14:00:00 | 相場は相場に聞け!
ほうほう、→2023 U.S. Investing Championshipで、 +805%の成績で優勝したGoverdhan Gajjalaという人物は、ミネルビニの教え子とのことである。



さらに、彼以外にも、23人の教え子がリーダーになり、5人が3桁のリターンを達成、平均リターンは91.96%だったというから凄まじい。

<2023年全米投資選手権の結果が出た!
過去5年間、私のMPAのクライアント/学生は、米国投資選手権のリーダーズリストを常に独占してきました。過去5年間のうち3年間は、私たちのうちの1人が優勝しました(←2021年の本人の優勝のこと)。残りの2年は、それぞれ準優勝とトップ5入賞だった。言うまでもなく、私は皆さん全員をとても誇りに思っていますし、今年もまた、特に誇れる特別な年です。
今回、我らがゴバーダン・ガジャラが、なんと+805%のリターンで2023年全米投資選手権を制したのだ。以下は、昨日ゴバーダンから届いた心温まるメールだ。
また、2023年に出場したMPAの他のクライアントや卒業生にもお祝いを申し上げたい。
2023年大会では、多くのお客様が素晴らしい成績を収められました。エンハンスト・グロース(先物・オプション)部門では、マーシン・ダイダックが+117.8%、レニー・ハーシュが+112.9%の成績を収めた。20,000ドル以上の株式のみの部門では、ディーパック・ウパルが+259.2%という素晴らしいリターンを達成した。
全体では、23人の顧客がリーダーになり、5人が3桁のリターンを達成した。平均リターンは91.96%だった。これ以上誇らしいことはありません。自分が勝ったときよりも、生徒たちが勝つのを見るほうが幸せです。>