ついに、NHK大河ドラマで、鎌倉が主戦場となった「和田合戦」が始まろうとしています。
この発端になったのが「泉親衡の乱」で、なぜ、この信濃の住人が暗躍したことで、当時、鎌倉幕府要人ナンバー4に位置していた和田義盛が武装蜂起に至ったのかは謎とされています。
歴史書・吾妻鏡では、権力を握った北条義時に不満を持つ御家人130余人とその類伴200人が関係する未遂事件ではあったものの、義盛の息子2人と甥が深くかかわっていました。
横浜市泉区には、この泉親衡にまつわる伝承地がいくつかあって、昭和63年の第1次横浜市地域登録文化財の候補に推薦すべく資料収集に奔走したことを懐かしく思います。
せっかく、広く知ってもらえるチャンスがあったのに、同時期に登録された旭区鶴ヶ峰周辺の「畠山重忠古戦場跡」に比べて、何もとりあげられなかったのは寂しい限りです。
この伝承にまつわる不思議な話がいくつかありますが、長くなるので、またの機会に・・・
泉区小史「長福寺と伝泉小次郎館跡」(ここをクリック!)
NHK鎌倉殿の13人「引き金となった泉親衡の乱」(ここをクリック!)
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