散歩の閑人:メタ坊っちゃまのYOASOBI?

若気の至りが過ぎてメタボでも、世遊びは辞められない。

遠望・富士山2020.02.08(東海道・川崎宿)

2020年02月12日 | ☆撮!富士 #Fuji

京急・雑色駅から八丁畷駅までウォーキングしました。
東海道・川崎宿です。
浮世絵では、六郷川(現・多摩川)の渡しが象徴的に描かれます。

橋を架けても、たびたび濁流に流されるため、
長い間、船で川を渡るという、江戸からは東海道最初の難所でした。

多摩川に架かる六郷橋を渡るとビルの谷間から、うっすらと富士山が見えました。
富士は浮世絵のままですね。
当時の旅人もこんな景色を見ながら川を渡ったのでしょう。

川崎宿の話は、また後日ということで、
終着地・八丁畷駅の傍らには、慰霊塔が建っています。

そこには、こんな説明板がありました。

まっすぐに伸びる八丁畷の街道沿いでは、
江戸時代の埋葬骨が多く出土しているとのことです。
同じく、東海道の保土ケ谷宿と戸塚宿の間、
難所で名高い「権太坂」には、行き倒れ人の投げ込み塚がありました。

江戸時代の旅人は「往来手形」というものを持って旅に出ます。
村役人(名主・庄屋)や檀那寺に書いてもらいます。
当然、村から旅立つ正当な理由(商用、湯治、参詣など)があって、
『往来』について支障のないように取り計らいを乞う内容になっています。
弥次喜多のように複数人で行くことが多かったようで、
万が一病に罹って動けなくなっても、同行者が介抱の手立てをし、
手紙や病人の「村送り」によって救援する仕組みになっていました。
ただし、村送りの費用はすべて往来手形を出した村の負担で賄います。
往来手形の中には、
「もし病死したら、その土地に留め置き、
当地の作法により取扱い、国元へ連絡はいらない」
という文面で、1人ごとに発給された手形もありました。
場合によっては「捨て往来一札」の文字が書かれているものもあり、
巡礼者や不治難病者が故郷を追われた例(棄民)もあるようです。

それとは別に「抜け詣り」といって、
手形をもらわずに村を抜け出す者もいて、
流行り病に罹り、路傍で行倒れる者も多くいたようです。


コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 遠望・富士山2020.02.07(ダ... | トップ | 天王の森泉館・吊るし飾り »

コメントを投稿

☆撮!富士 #Fuji」カテゴリの最新記事