京急・雑色駅から八丁畷駅までウォーキングしました。
東海道・川崎宿です。
浮世絵では、六郷川(現・多摩川)の渡しが象徴的に描かれます。
橋を架けても、たびたび濁流に流されるため、
長い間、船で川を渡るという、江戸からは東海道最初の難所でした。
多摩川に架かる六郷橋を渡るとビルの谷間から、うっすらと富士山が見えました。
富士は浮世絵のままですね。
当時の旅人もこんな景色を見ながら川を渡ったのでしょう。
川崎宿の話は、また後日ということで、
終着地・八丁畷駅の傍らには、慰霊塔が建っています。
そこには、こんな説明板がありました。
まっすぐに伸びる八丁畷の街道沿いでは、
江戸時代の埋葬骨が多く出土しているとのことです。
同じく、東海道の保土ケ谷宿と戸塚宿の間、
難所で名高い「権太坂」には、行き倒れ人の投げ込み塚がありました。
江戸時代の旅人は「往来手形」というものを持って旅に出ます。
村役人(名主・庄屋)や檀那寺に書いてもらいます。
当然、村から旅立つ正当な理由(商用、湯治、参詣など)があって、
『往来』について支障のないように取り計らいを乞う内容になっています。
弥次喜多のように複数人で行くことが多かったようで、
万が一病に罹って動けなくなっても、同行者が介抱の手立てをし、
手紙や病人の「村送り」によって救援する仕組みになっていました。
ただし、村送りの費用はすべて往来手形を出した村の負担で賄います。
往来手形の中には、
「もし病死したら、その土地に留め置き、
当地の作法により取扱い、国元へ連絡はいらない」
という文面で、1人ごとに発給された手形もありました。
場合によっては「捨て往来一札」の文字が書かれているものもあり、
巡礼者や不治難病者が故郷を追われた例(棄民)もあるようです。
それとは別に「抜け詣り」といって、
手形をもらわずに村を抜け出す者もいて、
流行り病に罹り、路傍で行倒れる者も多くいたようです。
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