「三ツ境周辺の住宅開発と商店街の歩み」をテーマとした講座に参加しました。
会場は、長屋門公園の母屋の和室です。寺子屋みたい。
前半は「三ツ境周辺の住宅開発」について。
相鉄線三ツ境駅のある辺りは、相模国鎌倉郡阿久和村の最北端に位置していて、
駅ができたのは大正15年のこと。
東は武相国境、西は鎌倉道、北は神奈川道(厚木街道)に接し、
うっそうとした山林で覆われたところ、
中央を北から南に流れる阿久和川の源流は、
バスセンター寄りにあって、そこから3段のため池「鎌取池」に流れ込んでいました。
戦後、GHQによる農地解放で大地主は土地を手放さざるおえない状況になります。
と同時期に、復員者やその家族が国外から戻り、京浜工業地帯が稼働し始めたことで、
いっきに住宅難に陥り、大規模住宅開発へと進展していきました。
昭和24年には山林ばかりの三ツ境も、
三菱ドック社宅2百戸の建設があり、昭和26年8月には入居も始まります。
昭和24年に政府の資材統制令が解除されたのも住宅建設への火付け役になったそうです。
隣りの希望が丘では、昭和22年に宅地開発が始まります。
しかし、希望ヶ丘駅が開業したのは昭和24年のことで、
売れ行きはそれほどでもなかったようです。
県立希望ヶ丘高校が磯子区六浦町内川から保土ケ谷区二俣川町中野原(現在地)に移転するのは、
昭和26年9月のことです。
いずれにしても、商店は少なく、行商に頼っていたようで、
電気は引けていても、水は共同井戸頼みで、風呂はなく、
電車を使って銭湯に行くか、行水もしくは風呂のある家にもらい湯するかだったようです。
では、商店街はどのように形成されていったのでしょう?
「400軒あれば商売で食べられるから」とお父さんにすすめられて、
昭和26年に三ツ境に店を出したという方の話では、その当時、店は数軒しかなく、
昭和28・29年と徐々に増えていったそうです。
銭湯・さくら湯や映画館・スバル座が開業するのも昭和29年のことでした。
商店が駅前ではなく、谷戸地形の底にあたる部分に開かれるのも、
「水は低いところに流れる、人は水のあるところに集まる」という、
当時の商いの教えに従ったからだそうです。
だとすると、交通手段が公共交通機関のみに頼っているところは、
駅前商店街が成り立っているものの、
マイカーでの移動が当たり前のところでは、
駐車場が完備していれば人は集まるということになり、
アウトレットや郊外型ショッピングセンターが隆盛なのも理解できます。
一方、若者のマイカー離れ、歩行困難な高齢者の増加も見込まれるので、
近くのコンビニ、食材の宅配やネット販売にシフトするというのもうなずけます。
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今一番、瀬谷地図くらぶの講座が、身近な話題としてメタ坊的に面白いです。
第2回「南台にあった大日本兵器第5製作所とその跡地の住宅開発」
10月20日(土)午前9時30分~ 瀬谷センター3階講義室
第3回「瀬谷における学校と鉄道の始まり」
11月11日(日)午前10時~ 瀬谷公会堂会議室
来年には、瀬谷区の埋もれた歴史を探る講座と、
地図を持ってまち歩きする予定もあるそうです。
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