地名は、上山(横浜市緑区)。住居表示前は、上山町だった。
古くは、隣の白山(白山町)と併せて猿山村といった。
地名の由来は伝わっていないが、猿が多く棲んでいたことによって名付けたという説を否定できないとしている。
小田原北条衆役帳には上杉三郎景虎の知行と記録されていたといい、文化文政の頃、二分して、上猿山村となった。
明治の町村合併で、新治村大字上猿山となり、昭和14年横浜市に合併される際、猿は「去る」に通ずるので縁起が悪いということから「上山町」となる。
高野山真言宗。本尊は阿弥陀如来。天保の火災で一切を焼失し、中興以降の過去帳のみ残ったため、開創は、中興第一世が示寂した天正6(1578)年から推定して元亀・永禄以前とし、別伝には明応5(1496)年とあるともいう。
昭和49年鐘楼門を新築。
鐘楼門に安置された阿吽の欅一木仁王尊像。
昭和59年に新築された薬師・地蔵堂。
江戸中期作の木刻等身大延命地蔵菩薩は寺宝とされ、厨子に収められた薬師如来のきらびやかさとは対照的に、その黒さが信仰され続けた歴史を物語っている。
古くは、隣の白山(白山町)と併せて猿山村といった。
地名の由来は伝わっていないが、猿が多く棲んでいたことによって名付けたという説を否定できないとしている。
小田原北条衆役帳には上杉三郎景虎の知行と記録されていたといい、文化文政の頃、二分して、上猿山村となった。
明治の町村合併で、新治村大字上猿山となり、昭和14年横浜市に合併される際、猿は「去る」に通ずるので縁起が悪いということから「上山町」となる。
高野山真言宗。本尊は阿弥陀如来。天保の火災で一切を焼失し、中興以降の過去帳のみ残ったため、開創は、中興第一世が示寂した天正6(1578)年から推定して元亀・永禄以前とし、別伝には明応5(1496)年とあるともいう。
昭和49年鐘楼門を新築。
鐘楼門に安置された阿吽の欅一木仁王尊像。
昭和59年に新築された薬師・地蔵堂。
江戸中期作の木刻等身大延命地蔵菩薩は寺宝とされ、厨子に収められた薬師如来のきらびやかさとは対照的に、その黒さが信仰され続けた歴史を物語っている。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます