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ソメイヨシノも散り急いでいるようで、
道や川面に花びらを敷きつめる風情もなかなかのものです。
このあたりでは、ソメイヨシノの後を追いかけるように、八重桜が満開を迎えます。
東北では、いくつもの種類の桜が一斉に咲き誇るのは、
春が短いからだといわれています。
八重桜並木で知られる、関内さくら通りは、今5分咲きといったところでしょうか?
気温が上がれば一気に満開となり、
チューリップ祭りのついでに通り抜けるのも一興ですね。
(関内駅から入るあたり)
(本町通りから入るあたり)
本町通りの角にある日本生命横浜本町ビルの前に、
幕末の豪商・中居屋重兵衛の銘板が建っています。
伝説の生糸貿易商で、波乱の人生を送ったことから、
芝居や小説、映画にも登場しています。
メタ坊の持っている「横浜経済・文化辞典(昭和33年刊)」から引用します。
中居屋重兵衛(1820-1864)上州吾妻郡中居村(現嬬恋村字三原)出身。
父黒岩幸右衛門は名主を勤めた。
重兵衛は天保10年に江戸へ出て、初めは書店の手代をしその間に火薬製造法を研究し、
後独立して火薬を諸藩に売り込んで大をなした。
火薬・雷管等の売込に諸藩や旗本に出入し、
これが安政6年開港貿易準備のために頗る有利であった。
即ち紀州・会津・上田三藩の国産物の売込を委託され、
その他尾州・雲州・阿州・佐竹の諸侯とも貿易のための国産物取扱について交渉があった。
開港と同時に本町4丁目に銅瓦を葺いた宏壮豪華な大建築を完成し
銅御殿と称されるほどであり、又その奉公人は60人余を採用したと云われ、
以て横浜売込商としての豪壮さが知られる。
彼は横浜外商への生糸売込の先駆者で開港当初における最も有力な売込商であり、
幕府の貿易抑圧政策に絶えず抗議して幕府より再三圧迫され、
その度びに外国側の援助によって救われたが、
遂に水戸浪士と相通じて物心両面に助力をし、
又討幕派に対して外国商より兵器類購入の斡旋をしたりして幕府の忌避にふれ獄に投ぜられ、
元治元年8月2日にその多彩な生涯を終えた。
彼には著作として『子供教草』と火薬製法を記した『砲薬新書』とがある。
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