散歩の閑人:メタ坊っちゃまのYOASOBI?

若気の至りが過ぎてメタボでも、世遊びは辞められない。

千葉佐原・バス旅4~舟めぐり

2010年12月29日 | ☆千葉県

「千葉の女は、働きもんだぁ」
それが、祖母の自慢だった。
千葉の田舎では、牛を飼っていたから、朝も明けやらぬ時刻に、餌やりと搾乳をし、そして食事の準備をするころには、空が白んでくる。
といっても、外孫の私は惰眠を貪っていたから、1人で朝食をとり、しようがない孫だと思われながらも、祖母から耳にタコができるほど聞かされた。

佐原で、一番有名な人がいる。
日本全国を測量してまわり、現在とほとんど変わらない正確な地図をつくった「伊能忠敬(いのうただたか)」である。
佐原は、城下町ではなく、利根川沿いに開けたまちで、水運により潤った商人のまちだ。
伊能忠敬(1745-1818)は、九十九里の村の名主の家に生まれ、18歳のときに養子として、伊能家に入る。
家業を盛んにし、佐原の役職も務めるなどして、50歳で隠居する。
ここからがすごい!
江戸に出て、幕府天文方の高橋至時に師事し、天文暦学を学ぶ。
そして、長い測量の旅がはじまる・・・。

佐原観光の中心ともいえる忠敬橋には、当時天文観測に使われていた象眼儀(四分儀)のモニュメントがつけられている。


伊能忠敬記念館へ行く橋「樋橋(ジャージャー橋と呼ぶ)」は、定時になると水が流れ出す。


ジャージャー橋の手前に、伊能忠敬旧宅がある。


旧宅の前、ジャージャー橋の下から、舟めぐりの舟が出る。
料金は、大人1200円。
夏は日よけが張られ、冬はカーペット敷きのコタツ舟となる。
竿で操ることは発着のときだけで、専ら船外機でスイスイと、30分程度の船旅だ。


小野川の川幅は、水運で栄えたまちだけに広い。
川の両側には、江戸、明治、大正、昭和と、その時代を象徴するかのような家並みが続く。
その家を見ただけで、いつ頃、商売がうまくいっていたのかが推測される。


このときのガイドさんは、80歳といっていたが、なかなか達者で、いろいろな質問に答えてくれる。
話しているうちに、「千葉の女は、働きもんだぁ」といっていた祖母とダブってきた。
舟は、多くの荷物を積んで楽々と運べることから、町の中は水路だらけだったため、ほとんど小さな島が橋で結ばれたようだったこと。
陸路を運ぶのは、牛車や大八車が使われていたこと。
海路から利根川を上がった船から、成田線の佐原駅までトロッコで運ぶレールが敷かれていたこと。
それが、戦後はベルトコンベアになったこと。
このあたりでは、ものごころつけば舟をもたされて、どこへいくのも舟、小遣いを稼ぐのも舟。
もちろん、お嫁にいくのも舟。
と、気がつけば、80歳になっても舟に乗っている。
若い人の成り手あればと願いながら舟に乗っている。
シワくちゃの女船頭さんじゃ、お客さんもがっかりするからね・・・。という。


ところで、夏と秋に「佐原の大祭」が行われる。
豪勢な山車の曳き回しが町中を巡行する。
おばあちゃんガイドさんが「まちじゅう人で溢れる」といっていたが、実際に、夏祭りに行ったことがある。
京都・祇園祭や東京・三社祭などを想像していくと、溢れることの意味が違うことに気づく。
マイカーで行くと、佐原市街には交通規制で入れず、利根川の河川敷にもうけられた特設駐車場に止め、そこから舟で、ジャージャー橋へ乗りつける。
間近に、ゆっくりゆったり見られるのが、すごくいい祭だ。
問題は、まちのキャパ以上に人が来るのだから、宿と食事場所に尽きる。
ご祝儀をもらうと、お囃子と踊りが披露されるところに、面白さがあるので、見落としのないように。


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