散歩の閑人:メタ坊っちゃまのYOASOBI?

若気の至りが過ぎてメタボでも、世遊びは辞められない。

町名の由来・伊勢佐木町

2011年07月07日 | ☆横浜じゃん

7月7日、二十四節気の11番目「小暑」の日だ。

イセザキ・モールでは、「節電・猛暑 試練の夏」として、この日を皮切りに8月いっぱい打ち水で暑さをしのごうという作戦に出た。
そのデモンストレーションに、有隣堂前でゆかた娘が打ち水パフォーマンスしていた。

ちなみに、ゆかた娘に挟まれたゆかたの旦那は、真打落語家の三遊亭圓丸師匠。
毎週木曜日、午後1時に、JRAエクセル伊勢佐木ビルの1階で、無料の「伊勢佐木木曜寄席」を開催。
ただし、エコキャップ運動とタイアップしているので、PETボトルのキャップを持参しよう。
前座、二つ目などで構成されており、圓丸師匠主催の勉強会のようだ。
これから、のびていく若手を応援してはいかが?


ところで、この「伊勢佐木」町の由来には、諸説あった。
横浜の町名(平成8年刊)には、
第一説>明治7、8年頃に元神奈川奉行であった佐々木信濃守と合原伊勢守の2人で開発したので「伊勢」と「佐木」の姓を連結した。
第二説>明治7年頃に伊勢の佐々木某がそば屋、佐々木庵を開業して繁盛した。町名はその生国「伊勢」と姓「佐々木」を採った。
第三説>明治5、6年頃に太田町の伊勢文蔵と、桜木町の佐々木次平が吉田橋際の伊勢佐木町付近の埋立事業を手掛けたことからその姓をとって名付けた。
そして、平成元年8月10日有隣堂刊『有隣』第261号に、伊勢佐木町の道路造成の費用を寄付して中島県令から銀杯を受けた伊勢屋中村治郎兵衛、佐川儀右衛門、佐々木新五郎の3人の姓から、それぞれ「伊勢」、「佐」、「木」を採ったものだとある。
と記述されている。

この第四説というべき、「伊勢」屋中村治郎兵衛、「佐」川儀右衛門、佐々「木」新五郎の字を組み合わせた町名の採用については、平成21年に刊行された「OLD but NEW ~イセザキの未来につなぐ散歩道~」神奈川新聞社発行の中で、横浜開港資料館・高村館長の特別寄稿として、町立ての経過や裏付ける史料等が明示されている。

が、これだけでは「あっ、そう」程度で終わってしまう。
絶版といってもいい「横浜の町名(昭和57年刊)」には「横浜市町名沿革誌」からの引用として、第三説をこう記述している。
明治5、6年頃、太田町の伊勢文蔵と、桜木町の佐々木次年(平)が歓楽境を創建しようと、吉田橋際の伊勢佐木町1丁目付近の埋立を企画し、資金を元浜町の渡辺某から借り入れ、埋立完了後興業場とした。しかし、当時この辺りは常清寺の墓地があって人煙ない地であったので夜中人玉が飛来するなどと噂されたため、興業場に入場するもの少なく、事業は失敗。渡辺方からは返済の催促が毎日来た。返済のあてもなく、小心の佐々木次平は桜川に身を投げた。ついには、返済が伊勢文蔵ひとりにかかるようになったため、文蔵もまた縊死する。その後、周辺の埋立も進み、墓地も移転したので、発展をとげた。町名を付すにあたり、榎本武揚の父・江連天外翁が県官との雑談中、両名の名を後世に残せば、地下の霊を慰すに足りるだろうと進言し、名付けられた。
都市伝説の元祖といってもいい。

くしくも、圓丸師匠が、打ち水した上に、怪談話でも一席聞いたら、芯から涼めます・・・とか、挨拶していた。
それによく聞こえなかったけど、なぞときとして、
「打ち水とかけて、ゴルフツアーを見に来たギャラリーととく、そのこころは、どちらも“りょう”が気になります」
とかいっていたような。

おあとがよろしいようで・・・。


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