散歩の閑人:メタ坊っちゃまのYOASOBI?

若気の至りが過ぎてメタボでも、世遊びは辞められない。

千葉南房総・頼朝上陸

2009年10月29日 | ☆千葉県
1180年、石橋山の合戦で敗北を喫した源頼朝は、真鶴岬から舟を出し、ここ勝山の浜に上陸した。「平氏打倒」の令旨(皇太子の命令)が、専横を極める平氏に不満を持つ全国の武士にもたらされたことから世情の不安定さが増す中、平氏は挙兵した以仁王や源頼政を討つ。このことが逆に、令旨を奉じた者への捕縛と領地没収という報復措置を恐れた武士たちの動きにつながってしまう。頼朝は座して討たれるよりも、あえて源氏恩顧の武士に参集・決起を促す意味からも、伊豆国目代・山木兼隆を奇襲して首をとる。次に父義朝以来の結びつきを持つ三浦・和田一族との合流を目指すが、三千にのぼる平氏方の武士に石橋山で包囲されてしまい、敵将・梶原景時の思惑により、舟で真鶴から安房へ逃れることができた。
吾妻鏡に「八月小・二十九日、己酉。武衛(頼朝)は(土肥)実平を連れて舟を進め、安房国平北郡の猟島に到着」とあり、猟島は、JR勝山駅から海側の竜島地区と同定され、それを示す上陸の碑が建ち、周辺が整備されている。10台程度の駐車場と東屋風のベンチがあるので、海岸線の風光を楽しみながら、のんびりできる。
頼朝上陸当時の安房の国情は、安西・神余・丸・東条・長狭の五氏が領国支配していた。合力を頼みとして上総介広常のところへ向かう途中、長狭氏の謀略を知りこれを討つ、そのことから頼朝は直接向かわずに、広常をはじめ、千葉介常胤に使者を出し参集するように命じることにする。と同時に、源氏=武家の棟梁として、巡検、領地安堵、寺社への寄進が活発になっていく。このことは、当時の武士が、その「器量」を見定めた上で、主従の関係を意識し、行動基準としていたことを示している。
敗将であっても、ここ安房国竜島上陸は、武家政権確立への最初の一歩だった。
ちなみに、勝山は、平成の市町村合併の際、南房総市に入らず、安房郡鋸南町にある。

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