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横浜市の伝染病専門病院「万治病院」に相当する施設が、
東京都(府)では「駒込病院」でした。
横浜疫病史・万治病院の百十年に、
「戦前から足かけ23年にもおよぶ院長職を金尾秀発は辞任した。
昭和30年8月2日である。高齢による退職である。
かわって、五代院長鍵和田滋が就任した。
鍵和田も、駒込病院の出身の院長である。
四代の金尾院長、三代の黒田院長も駒込病院の出身であった。」
という記述がありました。また、
「六代院長として、星野重二がつく。
駒込病院の先輩にあたる鍵和田の要請で万治病院に転勤して(20年11月)、
やはり30年近くもたっていた。」
十全病院(現横浜市立大学医学部)の分院だった万治病院が独立後、
実は、三代院長就任の大正15年以来、
院長職を駒込病院出身者が占めていたことになります。
さて、駒込病院との相違点は、所在地だけなのでしょうか?
明治10年9月5日、アメリカ系製茶会社に茶焙じにいった日本人女性が、
コレラに感染し、その日のうちに亡くなったことが発端となって、
横浜から東京・千葉・群馬・長野へ広がり、
罹患者数、横浜では720人、東京では234人に及びました。
翌11年は、いったん収まったかに見えましたが、
明治12年には、愛媛の漁村でコレラが発生して大流行、
日本全国で、罹患者16万2,637人、死者8,027人を数えました。
その結果、検疫の実施、避病院の建設、消毒の徹底が図られます。
患者の減少にあわせて、避病院を閉鎖もしくは焼き払っていましたが、
この大流行で常設もしくは閉院存置の必要性が生じ、
のちに万治病院(横浜)・駒込病院(東京)となる避病院が存続していきます。
大正5年、万治病院二代院長に北里伝染病研究所出身の阿部重男が就任します。
就任早々、記者の取材にこんな話を残しています。
「ただ僕が意外の感に打たれたのは、
病院全体の設備がすこぶる不完全極まることである。
いやしくも帝都の関門、貿易港の筆頭たるべき大横浜の
市立唯一の伝染病院たるものがこの有様とは何事であろう。」
建物も手狭で設備も老朽化し、
「伝説にてもありそうな廃墟の化物屋敷」といわれた万治病院は、
大正11年、南吉田町から滝頭町へと新設移転します。
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(お昼どきの富士山)
『駒込病院百年史』は、本編・資料編 933ページ、業績集200ページの大著です。
これから読み進めようと思います。
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