散歩の閑人:メタ坊っちゃまのYOASOBI?

若気の至りが過ぎてメタボでも、世遊びは辞められない。

評論を読んで、思う。

2007年04月01日 | ☆たまに修行

佐高信さんの評論を目にするたび、なんと説得力のある物言いをする人なんだろうと感心する。
2000年7月30日付、神奈川新聞「週言」にあった一文を紹介したい。

 今年もまた8月15日がやってくる。敗戦から55年目の夏である。
1945(昭和20)年生まれの私にとって、生きてきた年月はそのまま日本の戦後史と重なる。
7月13日付の本紙に載った新井恵美子のエッセー「美空ひばりの〝反戦歌〝」は、あらためて私をそんな思いに誘った。
そして、本棚から、彼女の「哀しい歌たち-戦争と歌の記憶」(マガジンハウス)を取り出したのである。
とりわけ「軍国の母」の項が悲しい。
 生きて還(かえ)ると思うなよ  白木の柩(はこ)が届いたら
 出かした我が子  天晴れと  お前を母は褒めてやる
これが1937(昭和12)年に日活映画「国家総動員-銃後の赤誠」の主題歌として臨時発売された「軍国の母」の3番である。
島田磐也作詞、古賀政男作曲。1931(昭和6)年の満州事変に端を発して15年戦争に突入していた大日本帝国は、
この年、中国との戦争を本格化させていた。
新井はこの項を新聞歌壇に載った石井百代という人の次の歌で結んでいる。
 徴兵は命かけてもはばむべし  母祖母おみな牢(ろう)に満つるとも
俳優の三国連太郎は若き日、徴兵忌避をやろうとした。
1943(昭和18)年、20歳だった三国は学生運動をしていた友人に連座する形で大阪の網島警察に放り込まれていた。
そこに召集令状がくる。
彼を捕まえた特別高等警察の人間が、召集が来たから家に帰れ、と言った。
 「勝手にしょっぴいておいて、勝手に帰れでは困っちゃうなと思ったんですよね」
三国は私との対談で、こう笑わせていたが、
 「戦争はあまり好きじゃないし、意味なく人を殺すのは自分の理屈に合わないような気がして」
三国は大阪駅から故郷の静岡をめざさず、貨物列車に乗って西に向かった。
そして、山口県の小郡まで来た時に母親に手紙を書く。
いろいろ迷惑をかけることになるかもしれないが、自分は朝鮮に渡って中国へ逃げる、と。
その手紙を母親が特高に見せて、何とか穏便にと頼んだのだろう。
三国は佐賀県の唐津で捕まったが、咎められることもなく、静岡へ送られて、軍隊に入り、中国へ渡った。
その前に会いに来た母親は、なぜか、三国を正面から見ようとはしなかった。
それで、三国は、自分は母親に売られたんだな、と思うのである。
幸い、生きて還って来た三国は、母親を責めることもなく一緒に暮らしたりしたが、
亡くなった時、母親の亡骸の入った棺を抱いたら、背筋を冷たいものが走った。
それで、ああ自分は、自分を国に売った母親を許していなかったんだな、と思ったという。
 「息子を売らざるをえなかった母親と、母親に息子を売らせた国」
講演でこの話をすると、とくに母親の多い会場ではシーンとなる。


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