
7月24日(日)、ドイツヘッセン州・ザールブルクにあるローマ軍駐屯地でかつてローマ帝国とゲルマニアの境界線の関所だった所に来ました。このローマ遺跡は、19世紀に発掘がはじまり、20世紀初頭にヴィルヘルム2世の命令で再建されました。ただし、正確なローマ時代の施設の再建ではなく、ヴィルヘルム2世の好みで中世風に変えられてしまった部分もあります。
入場料を払ってはいる部分はかつての要塞ですが、そこに至るまでにvicusと呼ばれる駐屯兵の家族や軍御用達の商人たちの集落の遺跡を見ることができます。いくつかの井戸と地下室などしか残ってないので、面白くないと言えばそれまでなんですが。
下がvicus の様子と建物の構造を示すイラストです。
要塞の入り口。二つの塔の間隔はヴィルヘルム2世の命によって、オリジナルよりも狭められています。
ザールブルク近辺の模型。峠を塞ぐ形で建っているのが分かるでしょうか?
地図上の赤線がローマ帝国とゲルマニアの国境線で、赤丸が要塞や見張り塔のあった場所を示しています。この550㎞に及ぶ国境線はLimes(リーメス)と呼ばれ、ユネスコ世界遺産になっています。
ローマ帝国とゲルマニアの国境線は本来自然の国境線であるライン川(左の縦に流れる川)とドナウ川(下の横に流れる川)でした。ライン川とドナウ川に挟まれた三角地帯を紀元後2世紀からローマ軍が占領し、ライン川からドナウ川に至る国境線を短縮しようとしたため、このような防御設備が必要になったわけです。
見張り塔の見取り図。3階建てで、入り口は2階。1階には貯蔵庫。
ザールブルク要塞の見取り図。
ヴィルヘルム2世が自身で設置したという礎石。「礎石。1900年10月11日、ヴィルヘルム2世皇帝によって置かれた」と書かれています。
神殿。ローマ帝国の徽章と、皇帝の似顔絵の書かれた皿などが祀られています。
将校たちの食堂。椅子ではなく、カウチに寝そべって食べていました。
こちらは兵たちの宿舎。8人で1部屋共有していました。
要塞内に設置された”Taberna”(ラテン語「食堂」)で、ローマ料理が楽しめます。
靴と骨加工工房及び食堂のキッチンのモデル。工房がザールブルクの要塞内にあったという証拠はありませんが、他の要塞内の工房をモデルに展示してあります。
パン焼き釜。
ザールブルク要塞の近くのリーメス。柵はもちろんオリジナルではありません。柵の後ろの堀はもっと深かったのですが、時と共に均されてしまったようです。それでも痕跡は明らかです。
ザールブルクは既に紀元後90年には簡単な木造要塞が作られていました。現在の再構された要塞は紀元後135年に建てられ、約500人が駐屯していたようです。A.D.260年にアレマン人戦争の際に陥落してしまったので、大して長い期間は持たなかったことになります。中世から近世まで、この要塞は採石場となっていました。この要塞の石は主にヴェーァハイムのトローン修道院の教会建設に転用されたそうです。 18世紀にはそこがローマ遺跡であることが知られていたようですが、本格的な発掘調査が始まるのは19世紀末からです。帝国リーメス委員会によって1892年にリーメスの調査がテオドール・モムゼン指揮の下開始され、委員会に属していたルイス・ヤコービが1897年ヴィルヘルム2世皇帝を説得し、ザールブルク要塞再建を実現したそうです。
ヴィルヘルム2世の趣味で考古学的な間違いが含まれる施設となってしまいましたが、建設からすでに100年以上経過しており、この施設自体が文化財保護の下に保護されているので、その間違いを訂正することはできないとのことです。