食べ物の恨みは恐ろしいという。はるか昔に食べたものが、いい意味で忘れられない事もある。
ひもじい思いをした戦争体験者にとっては、なをさらだろう。さいたま市にお住まいの加藤新平さん79歳は終戦直前の1945年8月1日夜に食べたすしの味が忘れられない。
鳴門市撫養町林崎でのこと。空腹のあまり海軍少年兵が宿舎にしていた芝居小屋を戦友と二人で抜けだした。
その時和服姿の25歳位の女性に声をかけられ、すしをご馳走になった。
確かあじの姿ずしだった。翌日、加藤さんらが乗った船が同市島田島沖で米軍機に銃撃され、82人の少年兵が亡くなった。
住吉丸事件が起きる、加藤さんは生き残ったが、一緒にすしを食べた友人の生死は今も不明らしい。
あのすしが友人の最後のご馳走になったのか? 戦後62年たった今も女性の親切が忘れられないと言う加藤さん。
来月2日に同市で行われる事件のモニュメント除幕式招きたいと情報提供を呼びかけています。
こんな話を聞かされたと言われる人がおられましたら徳島新聞社までお電話してあげてください。
また阿南市の宮本 折 さん81歳は戦争末期、徳島県小松島の立江寺で大阪から疎開してきた大勢の小学生の世話をした。
戦後、食事の時に思い出して涙ぐむ時もあった。子供達にもっと食べさせてあげたかったと言う。
今日当時の子供達が来県する。ほしい物がお腹一倍食べられる今の時代、テレビなどでも食べ物を遊びのように使っているのを見ると何ともやり切れない気持ちになる。
やがてはこんな話さえもする人が居なくなるのたろうか? 私にも忘れられない味がある。
田舎でわき水の多いところでもあったが、喉が渇いた時は水が当たり前、お茶などさまして置いてくれることなどあり得ない。学校から帰ると親が居ないのがほとんどだし、居るときでもお茶を沸かすのは食事時だけ、そして丁稚奉公、ここも当然食事以外は水のみ、
37年大阪に出て小さな会社で寮生活、一か月ほど過ぎた頃、そこにいた若い子に誘われてその友達の家に上がらせてもらった。
その時出してくれた飲み物、名前など知るはずがなかったが、こんな美味しいものが大阪にはなんであるのか??と不思議に思ったものでした。
ずーと後になってその飲み物がカルピスではなかったのかと思うのだがよく解らないまま。あの時口に入った瞬間の味忘れることが出来ません。