ハッキリ残る幼い頃の村での葬式、人が亡くなると口伝いでみんなに知らせる。隣村にも口でしかない、日暮れになくなった従兄、その弟の子と二人で提灯の灯りで山を登り峠を越して遠い村まで知らせに行った思い出がはっきり残っています。
知らせが来るとまずはお悔やみに、その時、婦人達は明日からみんなが来て食べる料理の打ち合わせ材料の持ち寄り、男性達は葬儀に使うものはすべて各自の材料で手作り。若衆達は土葬のため墓場で穴掘り、誰から指示を受けるのでもなく自分の判断で手の少ない方に行く。
損得など無いみんな無償で働く喜びの顔だったと思う。特に穴掘りなどした若衆の顔などは。子供の私にはどんな作業たが分からないが 、 無くなった日から3日間はみんな集まっていました。当然お坊さんも3回はその家に出向いていました。そのお礼もお心任せ、みんな自覚していてお金のある家はそれなりに出すようでした。しかし年間何度もないことで住職さんの生活はなり立ちません。
そこで村人は何かある事に「寄り合い」を開いて住職さんの生活も支えていたようです。それまでは村人との絆も深く お寺の境内は子供達の遊び場、だれがいなくても和尚さんがいる、そんな場所だったのだと思います。やがて若い住職さんになると子供達が集まるのを好まなくなり、境内を花畑にし狭くなったのと、村役場に勤めるお坊さんは安定した収入に対して村人は楽な生活ではなく、
村からの援助も途切れたのではないかと思うのですが、とにかく戦後10年も過ぎ、この頃から既に私の村に限らず人間が変わり始めていたように思えてなりません。当時母から聞いた言葉に、人が亡くなった時だけはお金は無くても葬儀はしていただけるとの言葉が残っています。そして現在お坊さんは請求書こそ出しませんが、葬式、法要など料金は決まっているようです。