23才、絞り出すチュウブのように行く旅費だけで大阪に出て13年最後の4年間はグルーブでする請負仕事。低い木造工場の中で600~700㌔の真っ赤に
焼いた鉄を加工する仕事。汚れた空気の中で、夏、工場の中の暑さは、言葉には表せないです。遅くても3時には会社の風呂を上がり社を出る。
それから個人的にバイトなんですがバイトもだんだんエスカレート、最後には毎日新聞社の中で午前4時まで、(仕事は少しです)さすがに半年過ぎると
眠らないので頭の毛が抜け始め危険を感じバイトを止めました。48年からの石油ショック、タンカーの部品作りとあって本業にも影響が出始め、
50年長男が4年生、長女が幼稚園になるのを期に徳島に帰りました。何をすると言っても個人的には何の技術も身についていません。
その上お金を借りるにも条件が悪すぎです。家は有りましたが田舎の母が噂を気にするので当時これを担保に入れる事はどうしても出来きなかったです。
結局借りられるのは金利の高いレジャー資金、それを借りるにも書類作りに一年後、四苦八苦の末借りればすぐ返済が始まる。それで生活をして
いかねばならないし、道具だって買わなければ仕事が出来ていけません。最初の仕事は上手くいきませんでしたが成り行きで鉄工所に成りました。
この人生順序を追って書くとそこそこ厚さの本が出来そうですが、今回これを言いたかったのではありません。書きたかったのは上手くまとまりませんが
健康のことなんです。徳島に帰って再起動。師匠もいなければ勤めた事のない仕事。仕事を頂ければ勿論納期はある。まともな製品で納めなければならない
。時間いっばいかかって納品の時はクレームがつかないか心は冷え切っています。納めれば請求通りのお金は頂けるか? 次の仕事は? 365日心が安まる
時がなかったように思いいますが、仕事を一つ一つ完成さす喜び、健康であった事が全てのことを吉に振り向けることが出来たと思います。
そしてそこに家族がいて、世間にどれほどもまれても、仕事を始めた後悔など一度もない。一直線に進んでこれた今思えば楽しさも苦しさも
人生の最高期だったか?。 たまに少し早く帰ると幼稚園児だった娘が ピールピンを又に挟み栓を抜いて注いでくれたものだ。その娘も今では3児の母。
その孫が来春は中学生、私がくたびれるようになったといっても不思議ではないのですがまだまだ元気です。建設関係の仕事にたずさはって30年ほど組合で
家族みんな毎年検診を受けるのですが、私だけは沢山ある項目のなかで基準からはみ出す数字は毎年一つもありません、異常なし、です。
ここ数年は身体を動かさないので肥満体に気をつけなければいけませんが、それほどメタボを気にする体質でもないので、このことに関しては今の所のんきです。
でも身体は不思議な物ですね。大阪にいた頃は年1~2回高熱を出していましたが徳島に帰ってから20数年は風邪など引いた事がありません。
いや風邪かな?と思ってもいつか直っています。その代わりなんでしょうか。2年に一度位一ヶ月以上しんどくて仕方がない我慢した上に間違いなく
病気だろうと検査を受けるのですが、今まで数回とも異常なしです。そしてその声を聞くと少しずつ元気になって来たんです今までは。不思議です。
これが「言いたかった本文なんですが」、いくら元気でも年齢を増すと予想外のことが押し寄せてくるものて゛病気ではないのですが今年は6月から変に
暑さが身体に応えます、元気が故に無理をしたパソコンでの首の痛みと目の疲れがこの夏をとても不愉快にしており。8月初めの奉納鑑定も終わり募金の送金も
済ませばやろうと思っていたことも未だに手つかずなんです。 でもこのままではありません。まだまだやります。 が今しばらく。
7月にも昼間眠たくて仕方がない。睡眠不足くでもない。疲れているわけでもないので今回も検査を受けました。今回は名の売れた病院で昼間眠たいのは危険と
心配してくださっていたのですが、結果は何もないと言うことでした。まだ少しは眠たいですが。それにしても私の身体は変わり物のようです。
食べたものが即エネルギーに変わる体質らしく昔の兵隊さんのように何日も食べずに歩む事は出来ない体質のようで、燃料さえ切らさなければ止まる
ことのないまさにジィジェルエンジンだったようです今までは。毎日熱戦を繰り広げている北京オリンピック、日本からは576人の選手が参加していますが、
良い結果を残す人、無念に終わる人、プロと又違ったチャンスの少ない大きな大会どの人をみていてもここまでの努力を思うと涙が出てます。。