孫、何人もいます。その孫を見ていると、遠い記憶がよみがえり心が痛みます。 子供が小さかった頃は生活に追われ
子供にはは何もしてあげられなかった事です。 それどころか、苦し紛れに叱ることが多かったようにも思います。
でも私の母もそんな気持ちを持ち続けていたのではないでしょうか。 昔と現代では随分生活環境も違いますが何時の時代の
親も、 子を思う気持ちには変わりはありません。 子供にしてあげられない事は親にとってとても不敏なもので、 ずーと
心に残っているものですね。でもこれで良しと切り捨てるべきだと思う。 父、戦死6人子供姉妹だったし母は男勝りで
弱音など吐く事のなかった人でした。 それが姉たちも嫁ぎ、私と妹3人の生活になった頃、冬の寒い日、遠い親類に
母の変わりに私が行くことになり、家を出るとき、寒そうな私を見て、後取りの私でもあり、年が、いてか
弱気にも成っていたのでしょう、本音を吐いてしまいました。 「上服がなくて可愛そう」この言葉です。「可愛そう」
親が子供に絶対に言ってはいけない言葉の1つだと思います。どんな家庭でも、どんな親でも、子供は其処でしか生きられない
事覚悟が出来ています。 して欲しい事、買ってほしい物それが当然として構わなければ其処に辛抱と言う大切な物が育つのです。
しかしその辛抱はまだ完全な物ではありません。自分は今何も考えず寒さだけを辛抱してこの服装で出かけようと思っている時、
可哀想の言葉で張り詰めたものが一気に崩れました。そして自分に惨めさを感じ涙を流してしまった事です。
ですから今まで我が家では、可哀想と言う言葉は使ったことはありません。 こんな言葉、ここに取り上げるほどの
事でないかも知れませんが、私の体験。この日は限ってはここから我慢に変わったことです。現代の人が良く切れると言います。
それは親達が子供に我慢をさせた結果ではないでしょうか。 我慢と辛抱の違いです。(心棒)簡単には挫けない、折れない、
しっかりした棒を心に作っていく事だと思います。一方(我満)しなさい。 我が儘心を親が抑えているに過ぎないのではないかと
思ったりします。辛抱と我慢字引での意味と違うと思いますが、私は教養が有りません。体験だけで話をしていますので腹立ちの方は
お許し下さい。器の大きくできている子、たまたま器の小さな子に我慢が多いと当然まけだしてしまいます。私も遠い過去のあの日、
我慢をして一人雪道を登りました。当然としいる心の時は楽しいことも思い出します、見る物も楽しく見えます。しかし我慢する事は
辛抱より悲しいです、心にも違ったかたちで残るものです。