私たち子供の頃S20年頃は皆んなが声は大きかったです、だから普段の生活には不自由は感じませんでした。でも学校に行くと
教壇の先生からは4㍍ぐらい離れます、そうなると音としては聞こえるのですが言葉のかみ分けが出来ません、それでも
真剣に聞いていればそれなりには解ったのでしょうが、何時も集中していることも出来ず後で思えば聞こえないのでコソコソと
一人遊んでいたのだと思います、今なら大問題でしょうが、きつい先生でもあり、先生がうっとうしく感じると廊下に出ていなさいと
言われます。授業が終わるまで廊下で教室の中を見ているしか有りません、次の時間が始まると席に戻るのですが、一日中一年中
担任の先生なのでその時の感情で何時廊下に出とりなさいと言われるかも解りませんでした。でも自分もそれを怯えていた訳でもなく
悪い事をしたと言う意識もなく、只言われるままにそうして過ごしていました。ですから一年生の時はかなりの時間、半年ぐらいは
廊下で過ごしたように思います。其の後も音が耳から入りにくいと言う事は物を覚えられず、人との会話も家族以外はなくて、時の経つ
ままで活きてきた人間です。二年生の時の事、学校で身体検査があります、パンツ一つになり体重、身長、視力と耳の検査と言うのがありました。
その日だけ町から派遣されたお医者さんと向かい合って椅子に掛け、私の後ろに担任の先生が腕時計を持って頭の上を右、左と動かします、
私は右で鳴っているのか左なのか良く解らずいるとお医者さんがこの子、耳が遠い?と担任の先生に言いました、私も思わず先生の顔を
見るため振り向いたのですがその時、私の頭の上で先生の手が拳から開いていました。耳が遠いのでなくこの子馬鹿なんですっていいたかった。
お医者さんも後は何も言いませんでした。三年生にはひどい虐めもあり、死にたい、死ねば楽になるのに、死にたいと良く思いました。
でも死のうと思ったことは一度もありません。それは母親や姉たちより先に死ぬことは許される事ではないと思っていたからです。
母親と姉たち女ばかりの厳しい生活で育ててくれている跡取りの自分が先に死ねば世間の目はいっそう厳しくなります、それが解っていたから
絶えることも出来ました。まだ父がいた頃のようです、私が言葉が出なくなり暫く続いたようです、一生懸命神様にお願いしていたら言葉が
出るようになったと。兄姉から聞かされていました。当時は体温計もない時代熱が出てしんどそうなら普段はほったらかしでもその日は一緒に
寝てくれるぐらいです、高熱が障害の原因だと思いますが自分でさえここまで聞こえていないと解ったのはかなり年がいてからですから。
それまで自分は馬鹿だから学問で皆について行くことは無理だろう、ならば何かで人より上になってやろうって何時も思っていました、何とか
事業も息子に譲り、やはり学問のないのはと、其の後はそれなりの努力はしています。