老後の日々

果物に野菜作り等、
今では趣味にして気間々にやっています。

運命1

2017年05月21日 | Weblog

私は7人姉妹なんですが私の母は11人姉妹だと母は母から聞いていたようです。其の末っ子に産まれた母が物心ついた頃にはすでに何人かの姉妹はなくなっていたようで、当時生まれて間がないか乳飲み子などが亡くなると土葬されその上に石をのせる程度なので誰の墓か他の人には解らないのです、11人と聞けばその言葉を信じるだけだったようで、私達が知っていた叔父叔母は4人だけでその人達も私が小学校の頃叔母二人はいなくなり、叔父二人は16才頃までいて直接的には面白くない思い出も多いです。でも其の叔父達の連れ合い、義理の叔母達には大変なお世話をして頂き、叔父がいなければ良いなって思いながら良く遊びに行ったことがあります。そんな事で末っ子だった母は其の叔父叔母達、その家族に何かある度に出向いて良く世話をしていました。家では小学6年の姉を頭に4年の姉次に一年の私と後、妹はどうしていたのか記憶にありませんが朝私達のお弁当入れから学校に行く用意まで上の姉がしてくれました。姉自身も学校に遅れないように私達がもたもたしていると良く叱られた物ですが、 その姉の上の姉二人は小学校卒業後紡績工場に働きに出て、姉たち皆で母を助け家庭を助けて私達こうして現在生きられています。叔父叔母達に何もない時、母は、叔母もすでにいなくなり其の息子夫婦がしている百姓をずーと手伝っていました。愚痴をこぼさない弱みを吐かない母が一度言っていた言葉があります、それは他の家にゆけば少しよい賃金が貰えるようですがこの家の嫁さん母とは他人ですが賢くて口も上手でしたのでおばおばと呼ばれ叔母がいなければのように、朝は早く、夕方は遅くまで、母は早く帰ってご飯を作らないと子供が腹を空かして待っているだろうと思っても、もう少しこれだけなんて言って遅くまで使われると言っていました。でもこの母はよく働く人だったので父との結婚後沢山の子供を育てながらも家族に囲まれ母にとっては幸な時期だったのかも知れません。それが妹を身ごもったとき父は軍隊に、そのまま帰りませんでしたのでそれからは上の姉も子守をしながらも母について山に出かけたり、話を聞くと涙が止まらないことばかりでした。そして現在高齢ながら皆元気にいますがこの一番上の姉一番苦労をした姉が一番先になくなりました。今自分は今いる姉妹に何をすれば良いのだろう、有り難い事に皆んな幸せに暮らしています。後に残った時せめてあれぐらいはしてあげていたらと悔いが残らないためにも。