かねてより行きたいと思っていた、
大刀洗平和祈念館に行ってまいりました。
HPにも書いてある通り、かつては東洋一と謳われた帝国陸軍の一大飛行場、大刀洗飛行場がこの町にありました。
ですので当然、空襲のターゲットになり、昭和20年に大空襲を受け壊滅的な被害を受けた町でもあります。
また、大刀洗飛行場は、特攻隊の中継基地でもありました。
この日は、日本会議佐賀の方の企画による見学ツアーだったのですが、
参加者の中に、帝国陸軍特別攻撃隊としてまさにこの大刀洗飛行場にいらしたという、
御歳90歳の新郷さんがいらっしゃいました。
移動中に車内で語って下さった新郷さんのお話が、この平和祈念館見学以上に貴重な体験だったと感じています。
まっすぐに伸びた背筋が90歳という年齢を一切感じさせない、元軍人らしい矍鑠とした新郷さんは、
静かに話し始められました。
「みなさん、特別攻撃隊のことを、『特攻』と言いますが、当時、我々はそういう言い方はしていませんでした。
『ト号作戦』と呼んでいたんです。『ト』はもちろん、特攻のトです」
というお話から始まり、色んなお話を聞かせてくださいました。
「…飛行機って、視界が広そうに見えると思いますが、正面は飛行機の先端で全く見えなくてね。
右左、それぞれこれくらい(手で20センチくらいの幅を作って)しか見えない。
しかも、飛んでいる時は、自分がまっすぐ飛んでいるのか、傾いているのか、全然分からない。
そうすると、左右のわずかな視界から、地上では地平線を、海上では水平線を見て確認するんです」
「我々はひたすら、急上昇して急降下するという訓練をやりました。
これはかなりのGがかかる。そうすると身体の血液が一気に引くものだから、目が見えなくなって、
意識がなくなる…しばらくすると戻るんですけどね。そんなことばかり、1日何回も何回も
訓練するものだから、頭がおかしくなってくるんです。毎日、訓練のために部屋から飛行場まで、
トラックで移動するのだけど、起きて、移動して、ひたすらそんな訓練ばかりしていると、
身体を使っていなくて、頭がおかしくなって、夜全然眠れなくて、みんなぼ~っと座っている。
これじゃだめだというとで、訓練の内容を変えてもらいました」
「今の時代では考えられないと思いますが、あの時代は、『特攻に行かない』という選択はありませんでした。
『いかない』と拒否するより『希望します!』と手を挙げる方が精神的に楽な決断だったんです。
一緒に教育を受けた仲間は、みんないなくなりました」
「私は、京都の教育隊にいました。そこでは、毎日特攻に向かうための飛行機が、上空を飛んで行ったのを
見ていました。ある日、そのうちの一機が突然降りて来たんです。
それは、かつてこの教育隊で一緒に訓練したある少尉でした。
彼は、『今から行く。懐かしかったので降りてきた』と、本当にもう何十秒かという短い時間だけいて、
すぐに飛び立っていきました。…彼を見たのは、それが最期でしたね…」
「私は、4月29日天長節に出撃することが決まりました。『あとひと月の命かぁ』と思っていたのですが、
間もなく沖縄が陥落し、状況が変わってきたことで結局その命令がなくなり、そのうち敗戦を迎えたので、
私は生き延びたわけです」
「パイロットは、飛行時計を首から、思い思いの紐をつけて下げていました。
当時は腕時計なんて持っていませんから。ですが、飛行時計をつけているということは、勝手に、機体から
時計を外して使っていることです。普通、機体は共有のものでしたから、それはできないんです。
…ですが、それをつけているという事は、自分の機体がある…つまり特攻要員であるということだったんです。
その時計は、こう、下から持って見るので『12時』を下にしてつけるんですよ。ところが、資料館なんかいくと、
特攻兵に首から時計を下げた人形を置いてあったりしますが、それは『12時』が上になっている。資料館の人は
知らないから、形だけ真似しているんですね(笑)」
伺うお話のどれもが初めて聞く話でした。
…しかし、最後に聞いた話が、最もショッキングで胸が痛みました。
「パイロットの腕に、大きな日の丸が縫い付けてある写真があります。
これは、特攻とは全く関係がありません。
…最初は、南方が戦場でしたから、燃料タンクなんかをやられたら、帰ることができずに、
海に落ちればフカの餌に、ジャングルに落ちれば何かの餌か野垂れ死にするだけですから、
それならばいっそ、と敵陣に突っ込んで行く者がいました。これは『自爆』といいます。
それが、戦場が国内上空に移ってきたら、その場合、パラシュートで降りれば自分の国だから、助かります。
ところが、無事に降りた土地の人たちは、パイロットなんか見たことないし、大きなゴーグルもつけているし、
…日本は強いからアメリカ兵に負けるはずがないと思っているから、アメリカ兵だと勘違いした住民が、
パイロットを虐殺してしまうという事が多発し、何十人ものパイロットが殺されました。
…これではいけないということで、陸軍は日章旗を、海軍は海軍旗を縫いつけることになったんです」
…当時の情報の少なさからしたら、それは仕方のなかったことかもしれません…。
しかし、国を護るために命がけで戦ったパイロットが、九死に一生を得た…はずだったのに、
よもやの自国民に敵兵と間違われて虐殺されるなどということが、現実に、日本本土で起っていたということに、
悲しさと憤りが混ざった何とも言えない気持ちになりました。
新郷さんは、事実だけを淡々とお話されるだけで、
そこに、ご自身の心情や考えなどは一切口にされませんでした。
ただ、ご自身の体験を一人でも多くの人に伝えておきたい、というお気持ちだけだったのではないかと思います。
それはまさに、あの「永遠の0」を彷彿とさせる時間でした。
余談ですが、新郷さんには、元航空自衛官、戦闘機パイロットだった息子さんがいらっしゃいます。
息子さんが現役時代は、主にロシア機がやってきていた時代で、
当然、息子さんはスクランブルで出て行かれていました。
そんな息子さんに対して、新郷さんは
「領空侵犯してくるロシア機に対して、こっちから攻撃することはできるのか?」
と尋ねたところ
「攻撃はできない。呼びかけて出て行くように説得するだけ」
という話を聞いたとのことで、
「そんなバカな話がありますか。迫ってくる敵機がいるのに、攻撃しちゃいけないなんて(笑)」
と苦笑いされていました。
「向こうが攻撃してくるのを待たなきゃいかん。やられるまで待てだなんて、どうかしてますよ(笑)」
この日唯一、新郷さんがご自身の「気持ち」を発された言葉でした。
…見学を終え、ご自宅までお送りした時、新郷さんは、車中の我々に向かって、敬礼をして見送られました。
小雨の中、まっすぐに伸びた背筋と指先、微動だにせずに直立された姿は、
直に見た、初めて「美しい」と感じた敬礼でした。
90年生きていらしていて、民間人生活と比べ軍人生活の方が、遥かに短かったはずなのですが、
しかし、そのお体と精神には確かに帝国陸軍人としての魂が宿っている方なのだと感じるに充分なお姿でした。
私は、新郷さんの敬礼を忘れることは一生ないと思います。
それほどまでに、私の心に、美しく鮮烈な印象を刻んだお姿でした。
…新郷さんの仲間はほとんど残っていらっしゃらないとのことです。
ここ最近、私の身近な方たちだけでも、多くの大正生まれの方が世を去って行かれました。
戦後70年を迎えた今年、改めて、この時代を生きた方たちのお話を聞くことができる機会が
年々減っていくのだということを痛感します。
あの戦いを生き抜き、奇跡的な速さで日本を復興させ、支えてこられた世代の方たちが、
どんな思いであの戦いを生き抜き、戦後を生きてこられたのか…
一人でも多くの方から、お話を聞いておきたいと改めて思いました。
新郷さんには、またぜひお会いできる日を楽しみにしております。
貴重な…本当に貴重なお話をありがとうございました。
※次回は大刀洗記念館見学日記をお届けします。
大刀洗平和祈念館に行ってまいりました。
HPにも書いてある通り、かつては東洋一と謳われた帝国陸軍の一大飛行場、大刀洗飛行場がこの町にありました。
ですので当然、空襲のターゲットになり、昭和20年に大空襲を受け壊滅的な被害を受けた町でもあります。
また、大刀洗飛行場は、特攻隊の中継基地でもありました。
この日は、日本会議佐賀の方の企画による見学ツアーだったのですが、
参加者の中に、帝国陸軍特別攻撃隊としてまさにこの大刀洗飛行場にいらしたという、
御歳90歳の新郷さんがいらっしゃいました。
移動中に車内で語って下さった新郷さんのお話が、この平和祈念館見学以上に貴重な体験だったと感じています。
まっすぐに伸びた背筋が90歳という年齢を一切感じさせない、元軍人らしい矍鑠とした新郷さんは、
静かに話し始められました。
「みなさん、特別攻撃隊のことを、『特攻』と言いますが、当時、我々はそういう言い方はしていませんでした。
『ト号作戦』と呼んでいたんです。『ト』はもちろん、特攻のトです」
というお話から始まり、色んなお話を聞かせてくださいました。
「…飛行機って、視界が広そうに見えると思いますが、正面は飛行機の先端で全く見えなくてね。
右左、それぞれこれくらい(手で20センチくらいの幅を作って)しか見えない。
しかも、飛んでいる時は、自分がまっすぐ飛んでいるのか、傾いているのか、全然分からない。
そうすると、左右のわずかな視界から、地上では地平線を、海上では水平線を見て確認するんです」
「我々はひたすら、急上昇して急降下するという訓練をやりました。
これはかなりのGがかかる。そうすると身体の血液が一気に引くものだから、目が見えなくなって、
意識がなくなる…しばらくすると戻るんですけどね。そんなことばかり、1日何回も何回も
訓練するものだから、頭がおかしくなってくるんです。毎日、訓練のために部屋から飛行場まで、
トラックで移動するのだけど、起きて、移動して、ひたすらそんな訓練ばかりしていると、
身体を使っていなくて、頭がおかしくなって、夜全然眠れなくて、みんなぼ~っと座っている。
これじゃだめだというとで、訓練の内容を変えてもらいました」
「今の時代では考えられないと思いますが、あの時代は、『特攻に行かない』という選択はありませんでした。
『いかない』と拒否するより『希望します!』と手を挙げる方が精神的に楽な決断だったんです。
一緒に教育を受けた仲間は、みんないなくなりました」
「私は、京都の教育隊にいました。そこでは、毎日特攻に向かうための飛行機が、上空を飛んで行ったのを
見ていました。ある日、そのうちの一機が突然降りて来たんです。
それは、かつてこの教育隊で一緒に訓練したある少尉でした。
彼は、『今から行く。懐かしかったので降りてきた』と、本当にもう何十秒かという短い時間だけいて、
すぐに飛び立っていきました。…彼を見たのは、それが最期でしたね…」
「私は、4月29日天長節に出撃することが決まりました。『あとひと月の命かぁ』と思っていたのですが、
間もなく沖縄が陥落し、状況が変わってきたことで結局その命令がなくなり、そのうち敗戦を迎えたので、
私は生き延びたわけです」
「パイロットは、飛行時計を首から、思い思いの紐をつけて下げていました。
当時は腕時計なんて持っていませんから。ですが、飛行時計をつけているということは、勝手に、機体から
時計を外して使っていることです。普通、機体は共有のものでしたから、それはできないんです。
…ですが、それをつけているという事は、自分の機体がある…つまり特攻要員であるということだったんです。
その時計は、こう、下から持って見るので『12時』を下にしてつけるんですよ。ところが、資料館なんかいくと、
特攻兵に首から時計を下げた人形を置いてあったりしますが、それは『12時』が上になっている。資料館の人は
知らないから、形だけ真似しているんですね(笑)」
伺うお話のどれもが初めて聞く話でした。
…しかし、最後に聞いた話が、最もショッキングで胸が痛みました。
「パイロットの腕に、大きな日の丸が縫い付けてある写真があります。
これは、特攻とは全く関係がありません。
…最初は、南方が戦場でしたから、燃料タンクなんかをやられたら、帰ることができずに、
海に落ちればフカの餌に、ジャングルに落ちれば何かの餌か野垂れ死にするだけですから、
それならばいっそ、と敵陣に突っ込んで行く者がいました。これは『自爆』といいます。
それが、戦場が国内上空に移ってきたら、その場合、パラシュートで降りれば自分の国だから、助かります。
ところが、無事に降りた土地の人たちは、パイロットなんか見たことないし、大きなゴーグルもつけているし、
…日本は強いからアメリカ兵に負けるはずがないと思っているから、アメリカ兵だと勘違いした住民が、
パイロットを虐殺してしまうという事が多発し、何十人ものパイロットが殺されました。
…これではいけないということで、陸軍は日章旗を、海軍は海軍旗を縫いつけることになったんです」
…当時の情報の少なさからしたら、それは仕方のなかったことかもしれません…。
しかし、国を護るために命がけで戦ったパイロットが、九死に一生を得た…はずだったのに、
よもやの自国民に敵兵と間違われて虐殺されるなどということが、現実に、日本本土で起っていたということに、
悲しさと憤りが混ざった何とも言えない気持ちになりました。
新郷さんは、事実だけを淡々とお話されるだけで、
そこに、ご自身の心情や考えなどは一切口にされませんでした。
ただ、ご自身の体験を一人でも多くの人に伝えておきたい、というお気持ちだけだったのではないかと思います。
それはまさに、あの「永遠の0」を彷彿とさせる時間でした。
余談ですが、新郷さんには、元航空自衛官、戦闘機パイロットだった息子さんがいらっしゃいます。
息子さんが現役時代は、主にロシア機がやってきていた時代で、
当然、息子さんはスクランブルで出て行かれていました。
そんな息子さんに対して、新郷さんは
「領空侵犯してくるロシア機に対して、こっちから攻撃することはできるのか?」
と尋ねたところ
「攻撃はできない。呼びかけて出て行くように説得するだけ」
という話を聞いたとのことで、
「そんなバカな話がありますか。迫ってくる敵機がいるのに、攻撃しちゃいけないなんて(笑)」
と苦笑いされていました。
「向こうが攻撃してくるのを待たなきゃいかん。やられるまで待てだなんて、どうかしてますよ(笑)」
この日唯一、新郷さんがご自身の「気持ち」を発された言葉でした。
…見学を終え、ご自宅までお送りした時、新郷さんは、車中の我々に向かって、敬礼をして見送られました。
小雨の中、まっすぐに伸びた背筋と指先、微動だにせずに直立された姿は、
直に見た、初めて「美しい」と感じた敬礼でした。
90年生きていらしていて、民間人生活と比べ軍人生活の方が、遥かに短かったはずなのですが、
しかし、そのお体と精神には確かに帝国陸軍人としての魂が宿っている方なのだと感じるに充分なお姿でした。
私は、新郷さんの敬礼を忘れることは一生ないと思います。
それほどまでに、私の心に、美しく鮮烈な印象を刻んだお姿でした。
…新郷さんの仲間はほとんど残っていらっしゃらないとのことです。
ここ最近、私の身近な方たちだけでも、多くの大正生まれの方が世を去って行かれました。
戦後70年を迎えた今年、改めて、この時代を生きた方たちのお話を聞くことができる機会が
年々減っていくのだということを痛感します。
あの戦いを生き抜き、奇跡的な速さで日本を復興させ、支えてこられた世代の方たちが、
どんな思いであの戦いを生き抜き、戦後を生きてこられたのか…
一人でも多くの方から、お話を聞いておきたいと改めて思いました。
新郷さんには、またぜひお会いできる日を楽しみにしております。
貴重な…本当に貴重なお話をありがとうございました。
※次回は大刀洗記念館見学日記をお届けします。