「歩くZ旗」みね姉のひとりごと ~矜持 国を護るということ~

私たちを護ってくれている自衛隊を、私が護りたい!そんな気持ちで書いてきました。今は、自衛隊との日々の大切な記録です

三回目の護衛艦いせ洋上慰霊式   ~洋上慰霊式編~   

2015年08月31日 | 護衛艦いせ


時間が近づいてきたので、甲板へ向かいました。


今日は晴れましたええ


もう、暑すぎるくらいにいい天気


前回の、無念の格納庫慰霊式から半年ちょっとですよ(笑)


ま、あれはあれで、貴重な経験でしたけどもね・・・。


だけど今回は、私、晴れるとふんでました(笑)


なぜかはちょっと言えないけど・・・(聞きたい人はこっそり訪ねてくださいね







洋上慰霊式、今回は夏なんで白です、白



ラッパ手



儀仗隊・・・今回は儀仗指揮官は男性でした。


これまで二回はWAVEさんだったんですよね。


なんかそれが、ちょっと「いせ」独特っぽいなぁと勝手に思っていまして、


残念というほどでもないのですが、少し惜しい感じがしました。





この、儀仗隊の前に、副長、先任伍長、海士長の代表者、いせ後援会理事長、


そして…もと航空戦艦伊勢の砲術手の田部さんが献花とお供物を捧げられます。


前回は、体調が理由で参加されていなかったので、今回はお元気なお姿が拝見でき、とてもうれしく思いました。






さて、洋上慰霊式は、なかなか見る機会がない方の方が多いと思います。


というのも、たいていにおいて、艦艇が海外に演習に行く途中で、かつての激戦海上を航行する際に行われるからです。


一般の体験航海ではめったに行われないのではないでしょうか。


私が知っている限りでは、博多湾で行われる、日本海海戦の洋上慰霊式くらいではないかと思います。


…ということで、今回、ご一緒した元海上自衛官さん(高田艦長の一期先輩)が撮影してくれた動画を、


アップロードいたしますのでご覧くださいませ。

video 1440059285 mp4



実際には、この後で弔いの汽笛が鳴り響き、…それが、なんとも物悲しく響き涙が出そうになります。


70年前に、動かすことも出来ない中でなお、洋上砲台として戦い、ついには力尽きた伊勢…。


そして、まさに、その時命がけで戦ってくださっていた方が、目の前で亡き戦友たちを弔っていらっしゃる姿を見ていると、


とても言葉では言い表せない気持ちでいっぱいになります。






最近特に思うことが、


現代の日本人よりも遥かに、優秀で勤勉で責任感と意志が強くて、愛情深く礼儀正しかった美しい精神性をもった先人たちが、


命をかけて護ってくれた日本の現代の状況を思うと、とてもではないですが、申し訳なく顔向けできない気持ちになります。


こんな日本にするために、彼らは命を落としたのではないだろうに、と。


今の状況は一夕一朝で変えられるものではありません。


ならばせめて、英霊となられた方々を正しく理解し、顕彰する人々が増えていくことを願い、


広めていくことをせねばならないのではないでしょうか。


今の豊かな生活を享受できるのは、誰のおかげなのか、


荒んでもなお、まだ世界中から憧れられ、尊敬され、賞賛される国であり続けられるのは、なぜなのか…。


今、改めて考える必要があるのではないでしょうか?


この国は戦後以来、最大の過渡期を迎えています。


日本存続の分岐点ではないかとすら、考えます。


「水漬く屍、草むす屍」となった、無数の将兵たちの死を、無駄にしない日本でありたい…そう願いました。




三回目の護衛艦いせ洋上慰霊式   ~出港・・・っていうか出港用意編~   

2015年08月26日 | 護衛艦いせ

出港準備中の艦橋に上がりました。


乗員さんたちの表情には、みんな緊張感が見えます。


その艦橋には、ほぼ唯一の、見かけるとほっとする顔がありました。


魅惑のバリトンボイスイケメン通信士です


・・・なんですが、いつも穏やかな微笑を絶やさない彼が、今まで見たことない厳しい顔つきだったことに、驚きました。


彼の仕事に対する姿勢を垣間見た気がします。


いせの、決して広くない艦橋が見学者でごった返し、落ち着いた様子で座る高田艦長。




高田艦長は、護衛艦の艦長を4度も歴任してこられた、大ベテランの艦長さんです。


その高田艦長が、


「まもなく、全ての舫いが外されると、出港用意という号令をかけますが、言いたい方いますか?


・・・そんなこと言われたら、手を上げないわけがないよね?(笑)


どうせ日本人ってこういう時、進んで手を上げないしぃ~。


というわけで、


「はいっ!!!!」


勢いよく手を上げました(笑)


・・・あわよくば、それをラジオのOPで使おうとか考えたんです、ええ。


「あ、じゃあ、はいどうぞ


笑顔で了解してくれました~よかった~


軽い緊張感で、ラッパ手の横に立って


「出港用意・・・出港用意・・・出港用意・・・ブツブツ」


と繰り返して練習する私に、バリトンボイス通信士が、


「みね姉さん、こっち、艦長のところに来てください」


と呼びに来た。


「え???」


なんでだろう?と訝しんでいたら、通信士が


「大丈夫ですか?タイミングわかりますか?」


「大丈夫~だって、ラッパのでしょう?」


「いえ、です」


「はっ????」


・・・そう、私、出港用意って、ラッパの後の号令だと決めてかかっていたわけでして・・・


「みね姉さん、ウイングに出て、艦長の横にいてください」


「え????」


そこには、笑顔の高田艦長。


「いいですか?舫いが外されていって、最期の舫いが外された時に・・・」


手で、どうぞの合図が・・・。


(しゅ、出港用意って、艦長の方だったのかぁぁぁ~)←心の叫び


ここで、顔が引きつったことは言うまでもない・・・。


だって、艦長しかかけちゃいけない号令の最たるものですよ、これ・・・。


もう、滝汗です・・・。


呆然と立ちすくむ私に、艦長が


「はい、ちゃんと舫い見てください」


と言われ、


(そっ、そこからなんですね・・・)


と、心の中でツッコミを返す私。


と、とにかく舫い、舫いだ・・・と、下を見ると・・・


見えないし


舫い、見えません・・・


そう、いせは張り出しているからかなりのぞき込まないと見えないんです。


がっつりのぞき込んだら、やっと見えました・・・2本。


・・・ん?2本???


え~~~~?!すでにあと2本かよ?!と軽く血の気が引いた。


ちょっと呆然と艦橋の方を見て、呼吸を整えて再度下を見たら


・・・あと1本になっていた!!!


お、お願いだからその舫い、外さないでくれと思った(←おい)


しかし、そんな願いが無慈悲にも届かず、残っていた一本が外れます(←当然)


(うっ、うっわ~~~と、とれた!とれちゃったよ


艦長を見ると、笑顔のまま無言で、手で艦橋に向けて


「どうぞ」のジェスチャー


ここで覚悟を決めて、言いましたとも・・・


「出港よーい」


そしてラッパが鳴り、艦内に出港用意が告げられました。


・・・と、取りあえず、間違ったりかんだりしなくてよかった・・・






ここで、ふと思ったことが、


初めて艦長の任に就いて、初めて「出港用意」って号令する時、


どんな気持ちなんだろう????ってことです。


機会があったら、伺ってみたいですね


私はこのあと、緊張しかしていなかったことに後悔しきりでした。


「もうちょっと伸ばさな!」


と、その様子を動画撮影してくれた先生から言われたことですが、


言うは易し・・・自分が言ってみなさいよ~緊張するから・・・


さて、大任を果たし終えて、私はさっさと艦橋に入りましたが、


当然、艦長以下航海科等々のみなさんは、ウイングにいらっしゃいます。




いせがゆっくりと岸壁から離れていきます。




これより、いせは三ツ子島に向かいます。




三回目の護衛艦いせ洋上慰霊式   ~プロローグ~   

2015年08月24日 | 護衛艦いせ




・・・なんだかんだで、三度目となりました、この「いせ」の洋上慰霊式。


実は、この三回とも艦長さんが違います。


いせ艦長は初代星山良一一等海佐から数え、四代目になりました。


このブログの読者の皆様にはご承知のことと思いますが、


私が海上自衛隊と関わるきっかけとなった、護衛艦いせとのファーストコンタクト時の艦長は、梅崎時彦一等海佐。


この時が、人生初の洋上慰霊式でした。


その記事がこちらです。


二度目は昨年12月、この時の艦長は藤原秀幸一等海佐。


前回と違って、本当に身内だけという感じのアットホームな感じでした。


この時の記事はこちらです。







・・・そして、今回新いせ艦長が着任されました。


高田昌樹一等海佐です。


高田艦長は、「あきづき」の艤装員長だったことで知られており、


ですのでつまり、




このスコードロンのデザインをされた方です。


というわけで、初めてお会いした印象は、


このネコちゃんそっくり


でした・・・失礼ながら・・・(笑)


でも、モデルは二匹飼っているネコちゃんの下のコなんだそうです。


このネコちゃんの話で、高田艦長と盛り上がっていましたら、


側にいらした、初参加のあまり海上自衛隊には明るくない年配の男性が、


「・・・各艦に、ゆるキャラが存在するのですか?!」


と質問してこられました(笑)


そんなわけない・・・








ところで、いせでの洋上慰霊式は、毎回雰囲気が違うのですが、今回は、また違いました。


早速通された部屋は、司令公室。


いつも士官室なので、これはちょっと驚きました。


テーブル上には、名前のプレートと、



いせのクリアファイルが置かれてありました。


これ、手元に2枚あるので、頂くのはいつも遠慮していますが、


今回は久しぶりに頂くことにしました。


なぜかって?・・・それは、来週のFMの放送をお楽しみに~


そしてここで、出港まで各々ご歓談。


今回の洋上慰霊式にお誘いしたのは、元海上自衛官で、高田艦長とご縁のある方です。


そして、つくづく思いましたが、こういう方が一緒だと、すごく助かります(笑)


疑問があっても、乗員さんは忙しいのでなんとなく、質問しづらいですしね。


どうしても乗員さんに聞かないといけないこと以外は、代わって答えてくれる、


元海上自衛官がいらっしゃるととてもありがたいです。


もう、いろんな自衛隊話で花が咲きました


盛り上がってしばらくしていると、高田艦長がご挨拶をされました。



床が青いのは、ドック入り前でビニールシートが貼ってあるからです。


艦内は、全部こんな感じです。


・・・これ、乗員さんたちでやるんだろうけど、こんな大きな艦だと大変だとろうなぁ・・・。


ただ、いろんな艦艇を見て感じたことですが、


いせは、大きい割に艦内は決して広くないです。


当たり前ですが、ヘリコプターを運用するための艦なので、


甲板と格納庫以外は、そんなに広くないです・・・艦橋も通路も狭いです。


それでも、士官室や科員食堂はかなり広いですし、


居住環境は従来のDDと比較すると、格段にいいのは間違いないです。


ちなみにここ、司令公室は隊司令や群司令が乗艦された時の、司令以下幕僚の皆さんたちのお仕事&お食事のお部屋です。


ここに、こんな感じでご用意してあり、席につくと冷たい麦茶が運ばれてきました。


・・・恐縮です・・・。








・・・ところで、今回のいせ乗艦は、私にとってはなんとも奇妙な感覚のものでした。


というのも、士官室の顔ぶれが、前回の洋上慰霊式の時と総入れ替えになっており、


前回久野先生との見学会の時にお会いした、清野副長と通信士以外は、ほぼ初めてみた方だったからです。


・・・なので、なかなか初めて乗艦した艦みたいな感覚になりましたね・・・。


新鮮と言えば新鮮ですが、やっぱりちょっと寂しいような感じです。


艦長さんだけ交代した「いせ」、主要メンバーが入れ替わった「いせ」、を経て、


全員入れ替わった「いせ」となり、なんと言いますか、


ここ2年ちょっとで、早くも艦の歴史を垣間見たような気がします。


そして、その間唯一ず~~~~っといらっしゃるのが、先任伍長さんです。


よく、艦長 → お父さん  先任伍長 → お母さん みたいな感じだと言いますけど、


わかる気がしますし、実際いせの先任伍長さんは、雰囲気もそんな感じなので、


お顔を見ると、なんだかちょっとホッとするような、そんな方です。







司令公室でまったり、みんなでおしゃべりしていると、


出港準備が始まるとのことで、みんなで艦橋に移動しました。


いよいよ出港します











「戦いは、何があっても勝たねばならない」   ~元帝国海軍中尉の信念~

2015年08月19日 | 国を憂う

先日、ある元帝国海軍中尉の講演を聞きました。


その方は、加藤 さん(93歳)です。(なんと、Wikipediaがあります



加藤さんは、航空巡洋艦「最上」で、かのレイテ沖海戦に参戦したご経験がある方ですので、お話がとても楽しみでした。





昨年、永遠の0を観て、久野潤先生の「帝国海軍の航跡」を読んでから、


私も直接、戦場に行かれた方たちのお話を聞いてみたい、と願っていましたら、


今年に入って、運良くお会いできる事が増え、いろいろとお話を伺う機会を得られたことは、


大きな幸運です。


お話を聞いた者としては、出来るだけたくさんの方に知って頂くことが、


ご恩に報いることではないか、と考える次第です。






実は、この日の講演会では、私は司会を務めさせて頂いたのですが、


会場入りされた加藤さんにご挨拶をした時、笑顔で、


「年寄りですから、お手柔らかに頼みます」


とユーモアたっぷりに仰ったのがとても印象的でした。


足腰がしっかりとしていらして、90分以上、立ったままでお話されました。


さすがは元海軍士官、そのお話は、力強く明快で聞きやすいだけでなく、


本当に軽快で楽しくてユーモアたっぷりです。


「私は、近衛になる道があったので、家族は全員そうしろと言いました。

 近衛であれば、戦場に行くことはないので、戦死する可能性はありませんから。

 ですが、私はそれを蹴って、志願して海軍に行くことにしたのです。何でかと言いますと、

 モテたかったらです(笑)

 夏のあの真っ白い詰め襟に短刀を刺した姿は、そりゃあかっこよくて憧れました。

 モテてましたよね(笑)」


「最上に着任すると、士官一人につき、自分の父親くらいの歳の准尉がついて、

 身の回りのことをなんでもしてくれるんです。

 週に一度はコース料理が出て、びっくりしました。

 私なんか、ナイフやフォークやら使う順番がわからない・・・

 困っていると、後ろについてくれている准尉が教えてくれるんです。

 ・・・あんな待遇は戦争中海軍士官だったからで、

 そうでなければ一生なかったでしょう。

 食事は、やっぱりカレーライスと、あとは肉じゃががおいしかったですね。

 戦艦大和は、大和ホテルと呼んでいましたよ(笑)

 大和の甲板では、時々、海外から持ち込んだ映画が上映されていたので、

 観に行っていました。日本で上映される時は、

 ・・・ほら、男女がこうくっつくシーン(キスシーン)はカットされているんですが、

 海外から持ち込んだものなので、カットされないままなのでね、

 いやぁ、盛り上がりましたねぇ(笑)」


「海軍は給料はよかったです。通常の給料に乗組員手当に、

 私は搭乗員手当もつきましたから、よかったです。

 しかも、艦に乗っているとお金使いませんからね。昭南(シンガポール)に上陸したときなんかに、

 料亭で芸者さん呼んで、ぱ~~~っと使いましたね(笑)

 女性は、慰安婦なんて海軍には居ませんでした。芸者さんは日本人ばかり。

 中国人や朝鮮人はいませんでしたよ」 


ここだけ聞くと、ずいぶん楽しそうで、なんだ、いい思いばっかりしていたのか、


と思われるかもしれませんが、


言うまでもなく、そんな楽しいことばかりのはずはありません。








加藤さんは、戦艦最上に零式水上偵察機の搭乗員として乗艦され、


その3ヶ月後、レイテ沖海戦に参戦されるのです。


最上は、旗艦山城はじめとする西村艦隊に所属していました。


「山城は大正に作られた老朽艦、こちら最上は最新鋭ですよ。

 あんな鈍足と一緒に行くのはかなわんな、とみんなで言っていました」


案の定、足の遅い山城は、米駆逐艦の魚雷2発と米戦艦及び巡洋艦より


4,000発もの砲弾を発射され、数十発以上が命中し


弾薬庫が爆発・・・艦長は「総員脱出」を命じるも、僅か2.3分で転覆し沈没。


なんと、生存者は10名以下という生存率の低さです。


また、山城と行動を共にしていた、同型艦の扶桑は同日に米駆逐艦の魚雷攻撃を受け魚雷4本が命中、


弾薬庫に引火爆発船体が真っ二つに割れて、沈没・・・こちらは、生存者ゼロでした。


この2艦の最後を、加藤さんは見届けられました。


そんな中、最上は機関部を被弾し、速力が8ノットに落ちます。


甲板に加藤さんがいた時、艦橋が直撃を喰らいました。


加藤さんが、急いで艦橋に上がると、艦橋にいた全員が戦死していたそうです。


「永遠の0、あれ映画観た方多いと思いますが、赤城がやられた時、

 甲板を火だるまになって転げ回っていた水兵がいましたね。

 あれ、あんなことは、絶対に起こりえないですよ。

 敵の爆弾を落とされると、首やら腕やらは飛び散り、バラバラになるもんです。

 甲板はその上を波が覆い被さるので、真っ赤になるんです。もう、真っ赤です」


最上は、曙に発見され、生存者は曙に移乗します。


「最後、士官で艦内を見回ったのですが、その時、倒れている兵士が足を掴んで

 こっちを観て、口をぱくぱくさせるんです。

 連れて行ってくれて、と言っているんでしょうけど、とても連れて行ける状態ではないので、

 申し訳ないけど、

 敬礼してその場を離れることしかできませんでした。・・・この時のことは、今でも思い出すと

 苦しいですね・・・」


その後、曙は魚雷を放って最上を沈めます。


その様子を、加藤さんは、曙から敬礼して見つめていたのだそうです。


「・・・レイテ沖海戦といえば、栗田艦隊の謎の反転がありますが・・・どう思われますか・・・?」


と、私が質問したところ


「あれ・・・あれね・・・私はもちろん、当時はそんなこと知るよしもなかったので、

 戦後に知ったことですが、腹立ちましたよ!!

 
何のために、っておもいましたね」


当時、命がけで囮艦隊となった方たちからしたら、当然のお気持ちでしょう。


以前お話を伺った、伊勢の砲術員の田部さんも同じ事を仰いました。













加藤さんはその後、第六三四海軍航空隊に配属されました。


水上爆撃機「瑞雲」機長として、対艦爆撃に出撃多数の戦果を挙げられ、中尉に昇進されます。


加藤中尉は、特攻命令を待つ身となったそうですが、


結局、熟練搭乗員が減少する一途をたどる中、加藤中尉には、


特攻隊員の養成の任にあたることになりました。


貴重な実戦経験者を、後輩の指導に当たらせるということです。


「映画でも言っていましたが、特攻隊は十死零生ですよ。我々飛行機乗りは、九死に一生の、

 一生に命をかけていました。

 それが、十死零生・・・これは全く違います。しかしみんな、行くときは『後を頼んだぞ!』と、

 ケロッとして言うんです。

 あれは一体どういう心境だったのかなと思いますよ。

 私は、特攻隊員を養成するに当たって、どうしたらいいのか必死に考えました。

 ・・・それで考えたのが『死ぬ方がマシ』と思える厳しく辛い訓練を課すことでした・・・」


特攻隊員の養成といえば、まさに、永遠の0の宮部久蔵と同じです。


「死に向かうための訓練」を課すというのが、どれほど辛いことか、想像を絶します。


「死ぬ方がマシ」と思えるほどの訓練を課すことが、加藤さんの精一杯の愛情だったこと、


慈悲だったことは疑いありませんし、


そんな形でしか愛情や慈悲を示せないことが、戦争の悲しさであろうと思います。


同時に、最近特攻について、私は考えるのことが、それは、そんな攻撃方法しかない、


というところまで追い詰められた状態、であると同時に、


負けた時の悲惨さを思うと、捨て身でもどんなことをしてでも、思いつく限りのことをして、


なりふり構わず


負けないためのなにかをせねばならなかったのではないでしょうか?


後世の人間からみるととてつもなく愚かな行為に見えても、護るためには、


他にもう方法がないと思ったのでしょう。


そのなんとしても勝たねばならない、という感覚は、今の日本人には理解しがたいことだと思います。









加藤さんが、最初に力強くはっきりと仰ったことは、


「今後、全面戦争はもう起こらないと思います。しかし、部分紛争は、

 これは起こらないとは言えないと思います。

 そうなった時、戦いというものは、どんなに小さな戦いであっても、絶対に勝たねばなりません。

 どんなことをしてでも、どんな卑怯な事をしてでも、絶対に戦いには勝たねばなりません。

 これが、実際に戦いを経験してきた、私の信念です」


ということでした。


「参加することに意義がある」「経験を積むことが大事」などと考える、


多くの現代の日本人には、やや衝撃的な言葉ではないでしょうか。


ですが、実際の戦場で命のやりとりをしてこられた方の言葉には、すさまじい重みがあります。


「負けると何も言えないんですよ。勝てば官軍、まさにそうなんです」


敗戦し、東京裁判に反論すら許されなかったことは、如実にその事を表しています。


日本と亜細亜を護るため、大東亜戦争を命がけで戦った方たちからすると、


自分たちが一方的に悪者にされ、


悪の権化のように言われることを甘受せねばならないというのは、どれほど屈辱で悔しいか、


想像するに余りあります。


「負けた、とわかった時、何を覚悟したか・・・日本人男性は子供、赤ん坊に至るまで全て殺害、

 女性は全て暴行され妊娠させられる、こうなる、と思いました」


つまり、敗戦後に「民族浄化」が行われることを覚悟したのだそうです。


結果としてここまでの事は起こりませんでしたが、民族浄化といってもいい虐殺事件が、


終戦後に起こりました。


通化事件です。


通州事件と並んで、中国人が日本人に対して行った虐殺事件です。


しかも、通化事件は終戦後に起こっています。


これは、ここに詳細を掲載するのは憚られるほどのひどい内容ですので、ご興味がある方は、


ご自身で見てみてください。


また、通化事件に限らず、満州や朝鮮半島から引き上げて来る日本人たちが、


ソ連兵、中国人、朝鮮人から、


どれほどひどい目に遭わされたか・・・。


国内でも、在日朝鮮人からどれほどの女性が、未亡人が強姦されたか・・・。


戦争に負けて、国が亡くなるとはこういうことです。


国を護るべき武力がない、ということがどれほど悲惨かということを、


サヨクに煽動されて「ヘイワ」を叫ぶ人は、推して知るべきです。


加藤さんの


「どんな手を使ってでも、絶対に勝たねばならない」


という言葉に、全てが込められていると思います・・・。




再びの、じんつう体験航海へ   ~エピローグ~  

2015年08月17日 | 海上自衛隊


ファッションショーを堪能して、再び艦橋に戻ろうと、士官室前の入り口に足を踏み入れた瞬間、


左舷側の通路に、立ち入り禁止的なロープがはってあり、海曹さんたちが集まっているのが目に入った。


「んっ・・・もしや、内火艇下ろすんですか


と、海曹さんの一人に尋ねたところ


「たしかに下ろしますが、なんで、内火艇下ろすって分かったんですか


「え?・・いや、だって、どう見てもそんな感じだし・・・」


「どう見てもって(笑)」


だってさここの周りに、「近寄るな!」って感じでロープはってあって、


海曹さんたちは内火艇の周りで、上でも下でもスタんばってるし、普通に状況観察してりゃわかるでしょうよ・・・



ね?


しかしこれで、上げるところは見逃してしまったけど、下ろすところは見られるのでよかった


そしてよく見ると、その中に青の作業着に着替えていた、さっきのファッションショーでセーラー服で登場されていた海士くんの姿が。


モデル並みの着換えの早さだな・・・(出番が終わってすぐ着替えたんだろうね)


で、しばらく・・・いや、だいぶ待ちました。


結構待ちましたね(笑)


なので、あきらめて一旦、艦橋に上がりました。


すると、この時に人生で、たぶんプロポーズされるよりもうれしいんじゃないかというくらいのサプライズがありました


いやまじで(笑)


な・ん・と・・・


ラッパの後の


「入港よ~い」


を、艦長さんのご厚意で、私に言わせてくださったんです(号泣)


びっくりしましたよ


そして、あんなに緊張したことはない、ってくらい、緊張しました。(間違っちゃダメだし、噛んじゃダメだし・・・)


そして、艦内の他のところにいた乗員さんたちは、


「え?今のダレ????」


って思われたこと間違いない(笑)


5月のあしがらの体験航海で、今までで一番楽しかった、と書きましたが、今回は、今までで一番感激した体験航海となりました・・・


この瞬間・・・。






それからしばらく、


艦橋で海を見ながら、艦長さんが航路の取り方などについて、いろいろお話してくださいました。


体験航海では、毎回書いていますが、


本当に、民間人の航海マナーが悪くて辟易します。


毎回、そういう船と遭遇するので、こちらはイライラするのですが、


海上自衛隊は、粛々と安全航海に努めるのです。


どれだけ海上自衛隊が慎重に航行していても、ぶつかれば自衛隊が悪いと言われてしまう・・・


そのことを、皆さんは嫌というほど思い知っていて、そのことが私は非常に苦々しく、悲しくかんじます。


艦長さんは、


「漁船は、彼らも生活がかかっているので、必死に作業しているので、こちらの汽笛に気づかない時もあるんですよね」


と仰いました。


そう思えるのはやはり、国防という責任の重いお仕事に従事され、


艦長として艦を預かり部下の命を預かっている方だからではないかと思います。


国民を護っている立場だからこそ、そういう気持ちになれるのだろうと・・・。


翻って漁船の人達はどうなんでしょう?


「日本の海の安全が護られているのは、自衛隊や海保のおかげなんだよね」


と考えてくれている人たちって、いったいどれほどいらっしゃるのでしょうか?


尖閣にほど近い、石垣島あたりの方たちは、危険を身近に感じているので感謝している人たちが多いようです。


しかし、では、本土の方たちは?


疑問と不信感が拭えません。






しばらくして、ウイングに出た時に、内火艇を下す準備が始まったのが見えました。


慌ててラッタルを降りて、通路に向かうと内火艇が動き出していました。



けっこう、滑らかな動きです。





海面に着水しました


走り去る内火艇。


一度乗ってみたいけど、私確実に酔うよなぁ・・・。


ちなみに、何のために内火艇を下したのかは、この時はわかんなかったんですが、


たぶんだけど、造船所の方をお迎えに行ったんじゃないかと推察します。


なぜなら、造船所の方が突如として艦橋に現れたからです


・・・修理地回航に乗艦されたことがある方はご存知だと思いますが、


ドック入りの時は、操艦は造船所の方がされますのでね。






さて、その艦橋に現れた造船所の方は、けっこうご年配の方でした。


その方を迎えた司令や艦長のご様子、そして何より、ジャイロコンパスのとこに立って指示を出す時の余裕・・・


さてはこの方、もしや・・・?


と思っていたら、艦長さんが私に、


「あの方は元自衛官で、私が幹校にいた時の教官で、はまなの艦長をされていました」


と教えてくださいました。


やっぱり


絶対、そうだ思ったんだよね~~~


もうね、それから目が離せませんでした(笑)


なんて言うんだろう・・・いぶし銀の操艦って感じです


余裕に満ちた


「両舷前進微速」


のお声が耳に残っています( *´艸`)


退官後も、こうやって船に関わるお仕事をされていらっしゃる方を拝見できたことが、すごくうれしかったです。


いつも思うのですが、定年が早い自衛隊は再就職をせねばなりませんが、


いろんな特殊な技術をお持ちの方たちが、それまでの仕事と全然違う仕事に就かれるのは、すごく勿体ないなぁと思うのです。


それは、いろんな事情があるにせよ、勿体ないなぁと思うんですよね・・・。





しばらくして、いよいよ造船所の岸壁に接舷し、楽しかった体験航海が終わりました(泣く)


入渠ではなく、岸壁につけてありました。


上陸すると、造船所の作業員(かわいい女性)がお土産を手渡してくれました

「SSK九十九島せんぺい」


何となく、もったいなくて未だ食べられずにいます(笑)


しかし、この日は予想をはるかに超えた感動的な体験航海でした。


この体験航海に誘ってくださったOBさんには、感謝の言葉しかありません。


本当にありがとうございました。


そして、じんつうの艦長はじめ乗員の皆様、および13護衛隊司令はじめ幕僚の皆様、いろいろと本当にありがとうございました。


また、皆様にお目にかかれる日を楽しみにしております。