「歩くZ旗」みね姉のひとりごと ~矜持 国を護るということ~

私たちを護ってくれている自衛隊を、私が護りたい!そんな気持ちで書いてきました。今は、自衛隊との日々の大切な記録です

武士~「私」を捨てるという生き方

2013年08月09日 | 日記
今回、長いです(笑)


呉旅行日記のUPに、もう少し時間がかかりそうなので、


しばし、こちらをご覧いただけたら、と思います。




先日、近松寺で、徳川14代将軍家茂の直筆による手紙を見てから、


彼の事が気になって、ネットでいろいろ検索してみた。


それまで、私が彼について知っていた事は、


皇女和宮と政略結婚したけど、珍しく本当に気持ちが通い合った、


中睦まじい夫婦だった事と、


病弱で、若くしてなくなったこと。


あとは、


彼が亡くなった時に和宮が読んだ、和歌の下の句の


「…綾も錦も君ありてこそ」


という箇所が大好きだったので、その部分だけを記憶していました。








で、この家茂、調べてみると、


ステキすぎました…。


そして、彼の人生の詳細についてはコチラをご一読くださいませ。


重責を担うために生きたとしか言いようがないです。


病弱だったことは知っていたので、


和宮の件もあり、まあ、優しい人なんだろうな、


くらいは思っていましたが…。


まぁ、いろんな評価はあるでしょうが、


私が彼に賞賛の念を送るのは、


彼が究極的に「私」を捨てて政務にあたっていたからです。


しかも、若干13歳で。


この若さで、すでに彼は


「主君」とは、どうあるべきかを知っていた事と、


実際にそうしていたことに驚きを禁じ得ませんでした。


主君とは、その責任が及ぶ範囲において、


可能な限りの「私」を捨てて、


可能な限り理性的に判断し、


自らの責任が及ぶ範囲の人々が、


より大きな幸福を得るにはどうしたらよいか?


を考えて、実行するものだと、私は考えます。


つまり、公人としての自分であるために、


どこまでも、私的な欲求を律さねばならないのだと思うのです。


彼は、13歳でその事を知っていました。


それは、和宮の降嫁が決まった時の彼の言葉から伺い知る事ができます。


「この国のために、私達は真実、

誰よりも仲良く、睦まじい夫婦にならなくてはいけない」



私的に、好きかどうかではなく、国家のために、


しかも、政略結婚だから、婚姻関係さえ結べば良い、というのではなく、


真実、愛し合う中睦まじい夫婦にならないいけないと、言っています。


家茂の和宮に対する気遣いと思いやりは、


普通の男性はなかなかできないだろうな~と思います(笑)


彼は、良い関係を築くためには、どうしたら良いか、という事を、


本能的に知っていたのでしょうね。


非常に高いコミュニケーション能力と、観察力を持っていたのだろうと推察します。


また、彼は13歳で将軍職に就いた時、


それまで好きだった、魚や鳥をかわいがるという楽しみを、


一切辞めたのだそうです。


…13歳ですよ…。


そんな彼の文字は、


病弱だったことをまったく感じさせない、力強くも端正な美しいものでした。


内容は、当時の老中、小笠原長生(唐津藩主)に軍事的な決済を委ねる、


というようなものだったと思います。(うろ覚えですみません…)


ちなみに、彼の手紙(小笠原宛とは違いますが)をネットで見つけましたので添付します。

img_1228852_58631700_0.jpg

ちなみに、これを書いた時ってたぶん、15~6歳…。


なんと言いますか、この文字って、ただ巧いだけじゃない、


やはり、威厳が感じられますね。


おそるべし…どれだけ優秀なの、家茂…。


ちなみに、慶喜の字もありましたが、まぁ、好みもあるでしょうけど、


私は、家茂の文字の方に、知性と豪胆さを将軍としての威厳を感じました。






そんな彼に1つの謎があります。


彼は、和宮と共に増上寺に葬られていますが、


彼の遺体の正面には、女性の髪の束が一房おいてあったのだそうです。


和宮1人を妻とし、生涯、側室を置かなかった彼なので、


当然、和宮の物…だと思いきや、違う女性の物なのだそう。


家茂は度々、上洛していて、しかも長期滞在しているので、


現地妻といいますか、愛人の類がいても不思議ではないですが、


まさか、家茂に限って!と思いたいのが、ファン心理ですよ(笑)


なんですけど、私は、


3歳で家督を継承し、13歳で将軍職に就いてから、


ひたすら自己欲を捨てて、混迷極める幕末の政局を治めるべく奔走し、


政略結婚相手の和宮にも礼と愛情を尽くし、


どこまでも「公人」でありつづけた、


若い家茂に、そんな自分を忘れさせてくれる、心から愛せる女性と出会い、


心癒されていたとしても、


不思議ではないし、むしろそれくらいはあってもよかったんじゃないかと思います。


おそらく、側にいて彼の世話をする女性の1人とかじゃないかな?


と、思ってたら、そうだったみたい。


和宮もご承知の女性みたいです。


側室という立場ではなく、「関係があった」くらいの存在のようですが、


家茂にとってどのくらいの存在だったかは、想像の域を出ません。








もう1つお話を。


今日、夜TVで観た、なんか世界の村に住むたった一人日本人を


探して会いにいくっていう番組にて。







この中で、サハリンにいた時に終戦を迎え、


その後、6年間シベリアに抑留され、


そのまま、ちょっと名前も覚えられないような旧ソ連の小国に、


ずっと住んでいらっしゃる86歳の男性がいらっしゃいました。





彼は、シベリア抑留から解放された後も、


日本に帰るまではさらに2年間待たなければならかったのだそうです。


終戦時に18歳だった彼は、抑留から解放された時24歳になっていました。


待つ間の2年間、彼は現地のロシア人の女性との間に、


子供ができたのだそうです。


彼は、それを知って…日本に帰ることをやめて、


ロシアの地で家族のために結婚して働く事にしました。


責任感がない男なら、


さっさと女も子供も捨てて、故国へ帰ったことでしょう。


しかし彼は、子供と妻のために日本に帰ることを諦めました。


その後、数年後に妻は亡くなり、男で1つで子供を育てるために、


旧ソ連内を転々としながら、仕事をします。


その中で、たまたま仕事で訪れたある地が、


チベット仏教を信じる国でした。


彼は、日本は仏教国、その地域も仏教国。


だから、そこに住む事を決めたのだと言っていました。


そして、そこで、出会った女性と結婚し、


彼女の連れ子のために、一生懸命働き、


生活を支えました。


そんな彼は、もう、日本語は忘れたと、そう言ってらしたのですが、


「仏教」というささやかなささやかな繋がりだけで、


その地に住む事を決めたくらいに、日本への思いがある中で、


忘れるというよりは、忘れなければと言い聞かせて過ごしてこられたように思えました。






そんな彼は、


5年ほど前に、一度帰国の機会を得られました。


ですが、その時、誰よりも会いたかったお母様は、


すでにお亡くなりになっていたのです。


その時、彼が言った言葉…それは、


「私の責任です」


という言葉でした。


そして、


「日本は戦争に負けたでしょう…」


と続けられたのです。


ここで、思いっきり編集が入ったので、真意は推測するより他にありませんが、


おそらくは、


「戦争に負けたのは、自分にも責任がある。自分が守りきれなかったのだ」


という自責の念を吐露されたように感じました。


それは、その後にこう仰ったからです。


「日本は、アメリカからひどいことされてない?」


おそらくこの方は、


敗戦後、日本の情報が一切遮断された世界で生きながら、


ひたすら、敗戦国である日本自体の安否を気遣ってこられたのでしょう。


そして、


もし、日本がアメリカからひどいことをされているなら、


それは、自分に責任があるとすら思ってこられていたのでしょう…。





一兵卒であるであるこの方に、


戦争の責任などもちろん一切ありませんし、


戦後の状況を考えると、日本国内にいた人間よりも、


シベリアに長年抑留されていたご自身こそが、


一層ひどい、辛い目にあってこられていたのです。


実際、シベリア抑留が原因で足が不自由になり、


両手で、2本の杖を突かなければならないほどです。


そんな身体になってなお、


敗戦後の日本を案じていらしたのだと思うと、


この時代の人の、


責任性の強さについて、考えずにはいられません。







先に挙げた家茂は、君主としての立場から、


一切の、本当に一切の「私」を捨てて、


日本という国を護るために、責任を果たすために精一杯生きました。


この方は、一兵卒の立場にあって、私を捨てて、


国のために命をかけて戦場で戦い、


いわれなき虜囚の身となり、


愛する人のために祖国への思いを断ち切り、


家族を養うという責任を果たされた。


かつ、祖国への責任感も強くお持ちでいらっしゃる…。


比較するものではないので、どちらがどう、ということではなく、


本気で自分の肩に預けられた「責任」に直面し、果たし、


どんな過酷な状況でも逃げ出さずに、


「私」に負けずにその職責を全うした二人は、


生きた時代も身分も違うけど、


真の武士とはこういう人ではないかと感じました。













憧れの呉・江田島の旅~呉・てつのくじら館編~

2013年08月08日 | 海上自衛隊
去る8月3日、4日と呉&江田島に行って参りました。


かねてより、ず~~~~~っと行きたかったところではありますが、


ようやく訪れる事ができました


呉・江田島といえば、分かる人にはすぐにピンと来ると思いますが、


そう、ここは現・海上自衛隊の呉基地があり、


さらに旧帝国海軍の様々な空気に触れることができる、


いわば、日本の海軍の聖地と言っても、


過言でもいい間違いでもないでしょう。





初日は、呉を堪能して参りました♪


「てつのくじら館」からスタート


何のことだか意味が分からない方のために、説明しますと、


ここは、正式名称は「JMSDF海上自衛隊呉資料館」といって、


海上自衛隊の歴史や「掃海艇の戦績と活躍」について展示してある資料館ですが、


なんといっても目玉は、潜水艦でしょう。


なぜ、この建物が「てつのくじら館」というのかは、外観をみれば分かります。


images (18)


そう、ここは、もともと実際に使われていた潜水艦が打ち上げられて展示されている、


珍しい場所。


まぁ、まず、ショッピングセンターと潜水艦のコラボなんぞ、


他では見られないと断言します(笑)


・・・よく運んだものです・・・そして、持ち上げたものです・・・。


そして、この潜水艦、外から眺めるだけではなく、


全部ではありませんが、中に入ることができます。


一部は、資料館の外の方に展示してありました。


つまり、通常、機密情報の塊である潜水艦の中を見学できるという、


極めて貴重で意義のある施設だと言えます。


そう、ソーラス条約なんぞに邪魔されずにね…(←ココ重要(笑))


そして、この貴重な資料館はな~んと無料


ここでの意義ですが、やはり、潜水艦での生活がどういうものか、


ということがよく分かるという点に尽きると思います。






ひと言で言うと、狭い!とにかく狭い!!!


べっと7


実際に寝てみましたが、まず、上半身起こせません


幅も狭いです(涙)


その後、テーブルに食事のサンプルが置いてあるコーナーに移動しましたら、


ランプの切り替えがあり、


カチッとやると…


真っ赤でくら~い…なんとも言えない赤色ランプが点灯。


こんな中でごはん食べるの?!・・・こわすぎ・・・(涙)


なんでこんな赤いランプがあるのかというと、


潜水艦の中で、昼と夜の区別をするためなのだそうです…が、


赤じゃないとダメなの?!


正直、私だったら、この赤いランプの下に1時間いるだけで、


気が変になると思う…


これだけで、どれだけ潜水艦の中での生活が辛いか垣間見えた感じですが、


そんなものではありません。


トイレやシャワールームの狭さを見ながら、


潜水艦の中に入り、士官室のテーブルのところに行きました。


士官室0


ここは、士官が、食事やミーティングを行う多機能スペースなのですが、


すごいのは、盲腸程度の手術までこなせる場所だという事!


なんか、いろいろ心配ですが、いざとなったらそんなことは言ってられないんだろうけど…


などと思っていると、


元・潜水艦の艦長をされていらした方が、いろいろお話をしてくださいました。


シャワーを浴びる時は、一人洗面器一杯分のお湯しか使えないのだそうです。


貴重な真水ですから…。


飲み水は、逆浸透膜タイプの浄水器で作れるのだそうですが、


不純物が一切ない、いわばH2Oができてしまうので、下痢を起こしてしまうのだそうです…。


起こしやすい、ではなく、起こす、という言葉に、一層の厳しい状況を感じました。


当然、洗濯などはもってのほか。


着替えは何ヶ月分も用意しておいて、洗濯物はためておくしかないので、


上陸の際、まとめて洗う事になるのだそうです。


当たり前ですが、


外なんか一切見えないし、日光にも当たる事ができません。


なので、潜水艦の艦長職の方は、非常に短命で、


50代でほとんど亡くなられるのだそうです…。


この時、6月に唐津でお会いした、


あの愉快で楽しい艦長さんが脳裏をよぎり、なんとも言えない気持ちが込上げてきました。


艦長さんだけでなく、


乗組員のみなさんは、本当に明るくて楽しい方たちばかりだったので、


あらためて、過酷な勤務状況を伺い、畏敬の念が込上げてきたことはいうまでもありません。


そして、潜水艦乗りの方々は、文字通り命を削りながら、任務に携わっていらっしゃるのだと、


実感しました。


元・艦長さんは現在70歳で、潜水艦艦長の長老だとのことでした。


見た目はもっとお若く見えます。


この方が仰った言葉で、一際胸に刺さったのが、この言葉でした。


「こんな過酷な環境の中、何ヶ月も過ごしている若者達が、
 
 何千人もいるということを、少しでも知ってください。」


潜水艦は隠密行動が原則なので、


潜水艦については、一般の人が知らないことがたくさんあるのは仕方のないことです。


少し知っている人で、狭いところで何ヶ月も生活するって、大変だよね、という感じだと思います。


ですが、この中での生活は、一般的な日本人の生活水準からすると、


昔とくらべれば改善されているとはいえ、


とても耐えうるものではないということが、よく分かります。


それは、護衛艦であっても同じだと思います。


古くても、新しくても、狭くても広くても、やはり、地上でゆったりと生活するのとは、


大きな違いがあるのではないでしょうか。


それは、民間人が、辛いとかキツイとか厳しいとか言っているレベルの事象とは、


比べるべくもない、厳しい環境だと思うのです。


私たちの平和な生活は、やはりこういう方々によって護られているのだと、


改めて感じることができました。


呉に訪れる際は、ぜひ立ち寄られることをオススメします。