〈第三項〉論で読む近代小説  ◆田中実の文学講座◆

近代小説の読みに革命を起こす〈第三項〉論とは?
あなたの世界像が壊れます!

先月六月の講座の後

2022-07-17 14:00:06 | 日記
 
 先月の朴の木の会のオンラインの講座では、宮沢賢治の『注文の多い料理店』にも触れました。これまでのこの童話は天沢退二郎の文庫本の解説に象徴されるように、「二人の若い紳士」が顔がくしゃくしゃになって東京に戻ってもお湯に入っても直らない罰されたお話を分析・解釈されてきました。今日の文学研究・国語教育研究界は「客観的現実」を実体、実在とする伝統的枠組みにあり、私はこれを斥けてきましので、既存の『注文の多い料理店』論総体も原則として斥けていますが、これが伝わりません。
 そこでオンラインの講座では、敢えて、「架ける会」で、『注文の多い料理店』論を発表してくれた、現在小学校の三年を担当されている黒瀨先生を挑発する発言をしたところ、案の定、見事に何故このを童話を「背理の輝き」と読むのか、改めてストレートに質い直してくれました。ユーチューブを御覧ください。時間を延長してお話をしています。
 黒瀨先生にはもうすぐ出版の予定の拙稿「背理の輝き―『注文の多い料理店」の〈語り手〉の〈自己表出〉―」をお送りしました。すると、以下の文章が今日、届きました。ご紹介します。




田中先生からご論考をいただいてから1週間があっという間に過ぎてしまいました。その間,何度も読み直しました。ですが,先生の読みの凄みがスピリッツとしては伝わって来ても,そのことの意味が十分に説明できずにいました。しかし,田中先生の読みから感じ取ったものを,自己の既存の「論理」に回収することはできません。「理解できないものを抱え込んだうえで,自己の論理を壊していく」,この構えに立つ必要があると,田中先生のご論考を拝読して感じました。したがって,以下に記すことには,私のまとまった考えではありません。私自身の内なる「論理」を壊そうとするささやかな営みです。このプロセス自体を,田中先生へのお返事とさせていただければ幸いです。

(1)と(2)は田中先生のご論考の意味を私なりに解釈したものです。これをお読みいただくのは退屈な行為かと思われますが,田中先生の読みと対峙するプロセスは私にとって必須です。ご了承ください。
 
⑴ 背理の輝きについて
 「背理の輝き」,今,私の持ちうる言葉でこれを言い換えるとするならば,「罪を引き受けることによって逆照射されるもの」ということになります。「罪」とは,生きることによって引き受けなければならない根源的なもの(田中先生のご論考でよく引用される「カルネアデスの板」の問題を含み込んだものとして)を指すと考えます。田中先生の『注文の多い料理店』論が天沢さんの『注文の多い料理店』論と異なるのは,この「罪」の問題を「二人の若い紳士」が引き受けることで,「救い上げられる」としていることにあると思います。天沢さんは「紳士」の行為を「制度」の側から批判します。一方,田中先生の場合,その「制度」自体を相対化し,読み手自身を根源的な「罪」の問題へと誘っています。また,「紳士」の「紙くずのやう」な顔は,外部の「大宇宙」から指す光によって輝くと述べています。つまり,「紳士」は「罪」の問題を局限まで引き受けることで,「大宇宙」(生と死の交換の循環の場)に直面し,救われることになる,ということです。
 こうした一気に駆け上がるような作品末尾の煌めきは『なめとこやまの熊』や『よだかの星』に通じるものがあると私には思われます。小十郎と熊が一体になること,さらにはよだかが今でもまだ燃えていることは『注文の多い料理店』の「紙くずのやうな顔」を考えることに繋がると考えるのです。「紳士」や「小十郎」,「よだかの星」の末尾の姿は悲劇の象徴ではなく,「罪」を引き受けることによって救われている,ここに田中先生の読みの急所があると感じました。

⑵ 「だいぶの山奥」/「山奥」
〈語り手〉は「だいぶの山奥」と「山奥」という二つの領域を語り出しています。「だいぶの山奥」は「紳士」と「山猫」がつくり出す「対幻想」の世界,「山奥」は「専門の鉄砲打ち(専門の猟師)」や「犬」が存在する世界です。「だいぶの山奥」は「貨幣経済」の論理によって成り立っています。また「紳士」と「山猫」はほとんど相似形のものであり,「だいぶの山奥」では先述の「罪」の問題は問われません。一方,「山奥」は「殺し殺される関係性の中で生と死が問われる場」であり,「罪」の問題を問うことに直結しています。この双方の領域を〈語り手〉は問題にしており,読み手もこの領域を捉えることが求められているのだと考えます。ところが,これまでの『注文の多い料理店』の読みは「現実」→「非現実」→「現実」の構造を問題にしてきました。これはリアリズムの枠組みであり,紳士が見た世界と客観的な世界の二項関係で読みが成立しています。一方,田中先生の読みは射程が広く,「紳士」と「山猫」の「対幻想」とその外部領域を問題にしています。そして,その外部領域が措定されることにより,「大宇宙」との関係で「紳士」の「罪」の問題が顕在化しているのだと思いました。
 
⑶ 「学び」と「教え」の成立を問うこと
以上は私が田中先生から受け取ったものの,ほんの一部です。これを文学教育,さらには学校教育における「学び」と「教え」の成立という私の問題意識に引きつけるとどういうことになるのでしょうか。

田中先生のご論考をお読みして最初に思い浮かんだのは,この「学び」と「教え」の成立ということです。私は,現在小学校の3年生の担任をしております。そして,制度上,国語科のみならず,社会科や理科の科目も担当しております。その際感じるのは,私自身が子どもたちを「紳士」(作品冒頭の「紳士」)につくりかえてしまっているのではないかという罪悪感です。「理科」と「社会」という制度上の言葉の区分けは,「自然」と「貨幣経済」の区分けということと地続きです。子どもたちが「学び」,成長していくということは,少なくともこの貨幣経済に参入できる主体を育てることと切り離せないのです。私の「教え」はこうした危機と一体のものなのです。
さらには,学校教育の場はグローバル資本主義に対応できる主体の育成を喫緊のものとしています。そして,この「グローバル資本主義に対応できる主体の育成」ということから逆算的に授業の成立(=「学び」と「教え」の成立)が問われているのです。賢治の「都会文明と放恣な階級とに対する止むに止まれない反感」という問題は看過されたまま,です。
一方,田中先生のご論考が引き受けているのは,「すきとおつたほんたうのたべもの」としての「教え」,そしてそれを糧とする子どもたちの「学び」という,新たな学校教育の可能性を切り拓いていくように思います。確かに,私は制度としての「理科」や「社会科」という言葉の区分けの中を生きており,子どもたちを「紳士」(作品冒頭の「紳士」)にしてしまうことから逃れることはできません。また,文化共同体の枠組み(貨幣経済や科学の世界)へと子どもたちに誘うことは,それ自体必要なことだとも思っています。しかし,外部の「大宇宙」から私たちの文化共同体の在り方を問い直していくこと,ここにこそ「学び」と「教え」の根源的な在り方があると,今は考えます。子どもたちは生まれたその瞬間から,「人間」として成長していく過程を歩みます。それはある種,制度の中に参入していくことを意味します。しかし,一方で子どもたちの成長には「大宇宙」の問題を抜きには語れません。(子どもたちが泥団子を作って,自然と一体になりながらおままごとをすることや,動物絵本が世界中で多いという事態は「大宇宙」の問題と無縁ではない気がします)。子どもたちの生は「人間」の文明社会を超えたもの=「大宇宙」にささえられて成立しています。つまり,子どもたちには,「人間」のつくり出した虚構の文明の枠組みにおける「学び」と「教え」と,その枠組みを超えたところの「学び」と「教え」を必要なものとしていると考えられるのです。
改めて『注文の多い料理店』の問題に戻ります。学校教育は子どもたちを作品冒頭の「紳士」につくりかえてしまうことから逃れることはできません。これは「罪」と言ってもよいかもしれません。しかし,作品末尾の「紙くずのやう」な顔をした「紳士」は,この「罪」を引き受けることで救われています。この末尾の「紳士」の顔は,了解不能の《他者》と言ってよいでしょう。つまり,この作品の特異性とは,「私たちは「紳士」(作品冒頭の「紳士」)でありながら,同時に「紳士」(「紙くずのやう」な「顔」の「紳士」)にはなり切れていない」ということにあるのではないでしょうか。「紳士」の問題性は読み手である子どもたちと地続きです。しかし,末尾の「紳士」の次元まで「罪」の問題を引き受けることはできていないでしょう。この問題を語り出す〈語り手〉を読むことで,子どもたちは自らの生の在り方を問い,「学び」ます。ここに,文学教育のアイデンティティ,「教え」の在り方が問われていると思います。


ここまでが田中先生のご論考を読んでの私の感想です。田中先生のお言葉を全重量で引き受けられていないことは十分承知しています。また,ご論考を読んでいてよくわかっていな部分もあります。例えば,「専門の鉄砲打ち」と「専門の猟師」を語り分けているのは何故か,ということです(このことの意味もぜひお聞きしたいです)。理解が不十分な点についてはぜひ教えてください。ご論考を送ってくださり,本当にありがとうございました。


今度は怠けずに、記事を更新します。