〈第三項〉論で読む近代小説  ◆田中実の文学講座◆

近代小説の読みに革命を起こす〈第三項〉論とは?
あなたの世界像が壊れます!

黒瀨君の質問に応えて(続き)

2022-07-28 12:28:29 | 日記
黒瀨君、ご質問ありがとう。私の期待通りです。

貴君の今年二月、山梨大学にご発表の修論手直しの『舞姫』論は
拙稿との格闘が満載されています。
それは「引用の海に溺れて」、ご自身の「思考の枠組み」、その制度性の解体作業を促す、
望ましい、すさまじい闘いでした。
『舞姫』論はこれまで膨大なものがありますが、その中でもこれだと思うものを選択して、
そうした格闘をなさることが基本的に必要と思います。

賢治論もそう、『注文の多い料理店』だと多くの作品論・教材論がある中、
ご自身の「思考の枠組み」の制度性を瓦解させていくことが肝要です。 
〈作品の意志〉に向かうべく、作中の語り語られる相関を捉え、
その〈作品の仕組み・仕掛け〉にご自身が拉致されるべく読み進めましょう。

「近代小説・童話の神髄」は、なべてリアリズムを超えて、背理を、
パラドックスを、不条理を抱えています。
賢治のみならず、漱石も鷗外も、芥川も川端も、無論、村上春樹もです。
あまんきみこも背理の生をこの世に生かそうとするのです。

『注文の多い料理店』を「背理の輝き」と呼んだのは
そこにあざやかに逆説が現れているからであり、
それぞれ近代小説・童話には、生と死の境界を超えてこれが現れるのです。

『高瀬舟』では一心同体の境遇にいる弟が自分のために自殺を図り、
死にきれないで苦しんでいる時、その弟を安楽死させるのではない、
誤って弟を殺してしまった兄喜助に何が起こっているのか。
喜助は護送の船の中で苦しんでいるのでなく、逆にその瞳は輝いています。
これを読み込むと言っても、作品だけ読んでも恐らく空しくなるだけ、
一般にこの作品は研究者はほとんど視点人物のまなざしで読み、
弟をユータナジー(安楽死)させた話と読んでいますから、
リアリズムで読むのが現在の文学研究の大方のレベルです。

黒瀨君はこれが安楽死と読む読み方が誤読であることを既に読み取っています。
それはその通りです。
私が『日本文学』に最初に書いたのは他ならぬこのこの『高瀬船』論、
拙稿「『高瀬舟』私考」(1979年4月)です。いつかご覧ください。

私見をここで披露しますと、喜助は弟を殺した、弟はその結果死んだ、
ここに喜助の生に極限の出来事が生成されます。
兄の内面はそれによって死ぬ、『高瀬舟』とはもともとそうした生の極限、
境界領域での生の姿が語られていました。
島送りになるのにわずか銭「二百文」で満足する話もその一つです。
喜助の内面の死は即自身の身体の死にはならない、
生きている身体は共に死んで一心同体である二人を抱えている、
弟殺しの喜助が毫光が発する所以です。

役人羽田庄兵衛は見えるものを信じますから、
そのつじつまを合わせるには安楽死させたと思うしかありません。
喜助の裡に起こったことは外には見えないのですから。
こう考えると、人とは何か、生とは何か、愛するとは何か、
相手を捉えるとはいかなることか、〈他者〉とは何か、
それは〈わたしの捉えている相手のこと〉、ならば、
その〈相手そのもの〉とはいかなることか、そうした問題が次々に起こってきます。
原理の問題、〈第三項〉の問題、これから、黒瀨君との対話を含め、
ブログを御覧の方々と議論していきましょう。

明後日は講座の日ですから、そこでも議論しましょう。楽しみにしています。

 

黒瀨さんからの質問にお応えして

2022-07-28 08:41:17 | 日記
黒瀨さんからコメント欄に以下のようなご質問を頂きました。
それに対するわたくしの回答と併せて再掲します。

外部領域とは何か (黒瀬貴広)
2022-07-27 13:15:02
作品の仕掛けを読む際の「外部」とは如何なるものなのかについて質問させてください。

『高瀬舟』の場合,視点人物「庄兵衛」のまなざしを超えた,対象人物の「喜助」そのものが〈語り手〉によって問題化されていると考えます。例えば,庄兵衛のまなざしから見れば,喜助の弟殺しは安楽死の問題に回収されています。しかし,語り手は視点人物の「庄兵衛」のまなざしから喜助を語り出す一方で(視点人物「庄兵衛」の捉えた対象人物「喜助」),それを超えた喜助そのもの(了解不能の《他者》)を,読み手には見えるかたちで問題にしています。「喜助」の直接話法には,「思わぬところを切ってしまった」とあり,弟を安楽死させようとする意図が見られません。そして,死んだ弟の晴れやかな顔は,作品冒頭の「喜助」の姿と重なるように語り手は語り出しています。このように,視点人物「庄兵衛」のまなざしを超えたところで,「喜助」そのものが問われるように語り手は語り出しています。

ここまでの読みが成立していると考えた時,外部とは如何なることなのかが再び私の中で疑問となります。例えば,「語り手が語り出そうとしている「喜助」そのものの領域を外部=〈第三項〉と呼んでよいのだろうか。」あるいは,「二つの世界を相対化して語る語り手の領域を外部=〈第三項〉と呼ぶのだろうか。」
このような疑問が湧いてきます。

恐らく基本的な問題なのでしょうが,私の中で十分に落とし込めていません。外部という言葉を度々先生がお使いになるからこそ,そのことの意味を知りたいと思います。お答えいただけると幸いです。



黒瀨君へ、 (田中実)
2022-07-27 23:35:07
黒瀨君へ、
 ご質問にお応えします。貴君が「ここまで読みが成立していると考えた時」と指摘し、そう捉えるのは貴君にとっては尤もです。しかし、それはあくまで貴君にとってのこと、その「ここまで」は田中から見れば早計です。何がそこに欠落しているか、それは貴君自身が〈読みの仕掛け、読みの仕組み〉を読み込む作業に向かうこと、そこで、私は貴君の素晴らしい『舞姫』論の事を思い起こします。

 手前みそで顰蹙を買うことを敢えて言いますが、貴君の『舞姫』論は拙稿『舞姫』論に対する貴君の読み取りの多年の蓄積による産物であり、見事です。その通り、『舞姫』を読むためには思考の枠組みの解体が驚くほど要求れるのです。
 この鷗外の処女作がいかに先駆的であるか、たやすくできることではありません。貴君はこれをやってのけています。 
 修士論文を手直しされた貴君の『舞姫』論を読むものは恐らく、そこに貴君が重ねた「思考の制度批判」と出会わざるを得ない、格闘せざるを得ません。これが出来ない読み手は貴君の作品論から排除されます。
 では『高瀬舟』では、どうでしょうか。
 確かに数多の『高瀬舟』論はこれを安楽死、ユータナジーという殺人の枠組みで捉えますが、貴君はそうした〈読み〉ではありません。ならば『高瀬舟』をどう捉えるか、〈第三項〉による読み方が先にあるのではありません。〈読みの仕組み・仕掛け〉を読み取っていくこと、〈第三項〉とは何かは後から考えるのです。〈第三項〉論は便宜的な方法論ではなく、世界観認識の原形とお考え下さい。
 読みは読みの実践・具体とともにしかありません。「架ける会」でも〈第三項〉を巡っての原理論の論争がなされているようですが、それは具体的な作品の読みと共に行ってください。抽象的のままでは実りはまずありません。
 如何すか。どうぞ、もう一度、コメント下さい。
 

コメントについて (黒瀬貴広)
2022-07-28 07:38:14
お返事,ありがとうございます。
先生の言葉を受けて,私に分かったことがあります。
それは,〈第三項〉の問題が私の中で知らず知らずに「公式化」されてしまっていたということです。

『高瀬舟』で「ここまで」と述べたところが,私の読みにブレーキをかけてしまっています。それは,議論の場でも同じだと感じました。「その領域を〈第三項〉と呼んではいけない。」だとか「そのように捉えたら自己倒壊は起きない。」というような言葉は,結果的に「読み方」を前提にしてしまいます。つまり,「読み方」から逆算的に作品を捉えようとしてしまっていると考えられるのです(その「読み方」も自己の枠組みにすぎません)。なぜそうなってしまうのか。

これには2つの理由があると思います。1つ目は,「人にわかってもらいたいから。」です。私が論文・発表をする際,「人に自分の考えていることを分かってもらいたい。」という感情が湧いてきます(『おにたのぼうし』の「おにた」が「女の子」に自分のことをわかってもらいたいと思うのに似ています)。これは否定できる感情ではありません。少なくとも,論文・発表には聴き手に「わかってもらう」という性質があるはずだからです。しかし,「わかってもらえないのではないか。」という恐怖が,読みの格闘からすり抜ける原因となっています。
2つ目は,「自分の読みに起きていることがうまく説明できないから」です。正直に言いますと,『高瀬舟』の喜助が弟を殺した後,彼らの中で何が起きたのか,私には分かりません。「はれやかな顔」が弟と兄で重なるように書かれているのは分かるのですが,そこに至るまでの飛躍が私には分からないのです。また,このことを考えることは,極めて私個人の問題に刺さってくるのが分かります(おにたで言えば「ぼうし」をとるようなことです)。これを考え,人に伝えることが絶望的にしんどく,困難なのです。なぜだかわかりません。書けばよいのに書けないのです。またその能力を備えていないのではないかと思い込んでしまっています。

これが私の読みの「公式化」を齎していると考えます。「具体的な読みの場で」と田中先生はおっしゃっていますが,「できてますよ。」と簡単に言えないのが自分の現状なのだと思います。恐怖への対峙の在り方も根源的に「公式化」できないからです。しかし,逆説的ではありますが,この難問を突破するには「発表・書く」しかないとも思っています。もし,この場を通じて読みを掘り起こしていけるのなら,これほど幸せなことはありません。

ここに書いていることも私の今の限界ラインです。超えるにはある種の勇気を必要としています。長文失礼しました。