黒瀨君、ご質問ありがとう。私の期待通りです。
貴君の今年二月、山梨大学にご発表の修論手直しの『舞姫』論は
拙稿との格闘が満載されています。
それは「引用の海に溺れて」、ご自身の「思考の枠組み」、その制度性の解体作業を促す、
望ましい、すさまじい闘いでした。
『舞姫』論はこれまで膨大なものがありますが、その中でもこれだと思うものを選択して、
そうした格闘をなさることが基本的に必要と思います。
賢治論もそう、『注文の多い料理店』だと多くの作品論・教材論がある中、
ご自身の「思考の枠組み」の制度性を瓦解させていくことが肝要です。
〈作品の意志〉に向かうべく、作中の語り語られる相関を捉え、
その〈作品の仕組み・仕掛け〉にご自身が拉致されるべく読み進めましょう。
「近代小説・童話の神髄」は、なべてリアリズムを超えて、背理を、
パラドックスを、不条理を抱えています。
賢治のみならず、漱石も鷗外も、芥川も川端も、無論、村上春樹もです。
あまんきみこも背理の生をこの世に生かそうとするのです。
『注文の多い料理店』を「背理の輝き」と呼んだのは
そこにあざやかに逆説が現れているからであり、
それぞれ近代小説・童話には、生と死の境界を超えてこれが現れるのです。
『高瀬舟』では一心同体の境遇にいる弟が自分のために自殺を図り、
死にきれないで苦しんでいる時、その弟を安楽死させるのではない、
誤って弟を殺してしまった兄喜助に何が起こっているのか。
喜助は護送の船の中で苦しんでいるのでなく、逆にその瞳は輝いています。
これを読み込むと言っても、作品だけ読んでも恐らく空しくなるだけ、
一般にこの作品は研究者はほとんど視点人物のまなざしで読み、
弟をユータナジー(安楽死)させた話と読んでいますから、
リアリズムで読むのが現在の文学研究の大方のレベルです。
黒瀨君はこれが安楽死と読む読み方が誤読であることを既に読み取っています。
それはその通りです。
私が『日本文学』に最初に書いたのは他ならぬこのこの『高瀬船』論、
拙稿「『高瀬舟』私考」(1979年4月)です。いつかご覧ください。
私見をここで披露しますと、喜助は弟を殺した、弟はその結果死んだ、
ここに喜助の生に極限の出来事が生成されます。
兄の内面はそれによって死ぬ、『高瀬舟』とはもともとそうした生の極限、
境界領域での生の姿が語られていました。
島送りになるのにわずか銭「二百文」で満足する話もその一つです。
喜助の内面の死は即自身の身体の死にはならない、
生きている身体は共に死んで一心同体である二人を抱えている、
弟殺しの喜助が毫光が発する所以です。
役人羽田庄兵衛は見えるものを信じますから、
そのつじつまを合わせるには安楽死させたと思うしかありません。
喜助の裡に起こったことは外には見えないのですから。
こう考えると、人とは何か、生とは何か、愛するとは何か、
相手を捉えるとはいかなることか、〈他者〉とは何か、
それは〈わたしの捉えている相手のこと〉、ならば、
その〈相手そのもの〉とはいかなることか、そうした問題が次々に起こってきます。
原理の問題、〈第三項〉の問題、これから、黒瀨君との対話を含め、
ブログを御覧の方々と議論していきましょう。
明後日は講座の日ですから、そこでも議論しましょう。楽しみにしています。
貴君の今年二月、山梨大学にご発表の修論手直しの『舞姫』論は
拙稿との格闘が満載されています。
それは「引用の海に溺れて」、ご自身の「思考の枠組み」、その制度性の解体作業を促す、
望ましい、すさまじい闘いでした。
『舞姫』論はこれまで膨大なものがありますが、その中でもこれだと思うものを選択して、
そうした格闘をなさることが基本的に必要と思います。
賢治論もそう、『注文の多い料理店』だと多くの作品論・教材論がある中、
ご自身の「思考の枠組み」の制度性を瓦解させていくことが肝要です。
〈作品の意志〉に向かうべく、作中の語り語られる相関を捉え、
その〈作品の仕組み・仕掛け〉にご自身が拉致されるべく読み進めましょう。
「近代小説・童話の神髄」は、なべてリアリズムを超えて、背理を、
パラドックスを、不条理を抱えています。
賢治のみならず、漱石も鷗外も、芥川も川端も、無論、村上春樹もです。
あまんきみこも背理の生をこの世に生かそうとするのです。
『注文の多い料理店』を「背理の輝き」と呼んだのは
そこにあざやかに逆説が現れているからであり、
それぞれ近代小説・童話には、生と死の境界を超えてこれが現れるのです。
『高瀬舟』では一心同体の境遇にいる弟が自分のために自殺を図り、
死にきれないで苦しんでいる時、その弟を安楽死させるのではない、
誤って弟を殺してしまった兄喜助に何が起こっているのか。
喜助は護送の船の中で苦しんでいるのでなく、逆にその瞳は輝いています。
これを読み込むと言っても、作品だけ読んでも恐らく空しくなるだけ、
一般にこの作品は研究者はほとんど視点人物のまなざしで読み、
弟をユータナジー(安楽死)させた話と読んでいますから、
リアリズムで読むのが現在の文学研究の大方のレベルです。
黒瀨君はこれが安楽死と読む読み方が誤読であることを既に読み取っています。
それはその通りです。
私が『日本文学』に最初に書いたのは他ならぬこのこの『高瀬船』論、
拙稿「『高瀬舟』私考」(1979年4月)です。いつかご覧ください。
私見をここで披露しますと、喜助は弟を殺した、弟はその結果死んだ、
ここに喜助の生に極限の出来事が生成されます。
兄の内面はそれによって死ぬ、『高瀬舟』とはもともとそうした生の極限、
境界領域での生の姿が語られていました。
島送りになるのにわずか銭「二百文」で満足する話もその一つです。
喜助の内面の死は即自身の身体の死にはならない、
生きている身体は共に死んで一心同体である二人を抱えている、
弟殺しの喜助が毫光が発する所以です。
役人羽田庄兵衛は見えるものを信じますから、
そのつじつまを合わせるには安楽死させたと思うしかありません。
喜助の裡に起こったことは外には見えないのですから。
こう考えると、人とは何か、生とは何か、愛するとは何か、
相手を捉えるとはいかなることか、〈他者〉とは何か、
それは〈わたしの捉えている相手のこと〉、ならば、
その〈相手そのもの〉とはいかなることか、そうした問題が次々に起こってきます。
原理の問題、〈第三項〉の問題、これから、黒瀨君との対話を含め、
ブログを御覧の方々と議論していきましょう。
明後日は講座の日ですから、そこでも議論しましょう。楽しみにしています。