六年前の『女のいない男たち』及び『木野』を今、再び読み返すのは、二年前の村上の『一人称単数』及び『猫を棄てる』とは何だったかををもう一度、呼び起こしたいからです。あの時、鴻巣友希子さんたちには伝わらなかったなと思って、昨年論じたことを改めて、皆さんにお見せしたいと思っているからです。
そして、『一人称単数』も『猫を棄てる』もこれが「地下一階」までの出来事として読まれているからです。そこでは当然ながら「私」は「私」と捉えられています。「私」は「集合的無意識」の枠組みで捉えられています。「私」は反「私」という背理には向き合われていません。〈向こう〉という外部が必要です。これを『木野』で考えてみましょう。
背理である「パラレルワールド」=「同時存在」を読むとどうなるか。『木野』は祟ります。
「地下二階」や「うなぎ」、また「壁」に対する「卵」などの譬喩・メタファーで語って来た、村上春樹の文学世界とはいかなるものか、『木野』を読み返してみましょう。
そして、『一人称単数』も『猫を棄てる』もこれが「地下一階」までの出来事として読まれているからです。そこでは当然ながら「私」は「私」と捉えられています。「私」は「集合的無意識」の枠組みで捉えられています。「私」は反「私」という背理には向き合われていません。〈向こう〉という外部が必要です。これを『木野』で考えてみましょう。
背理である「パラレルワールド」=「同時存在」を読むとどうなるか。『木野』は祟ります。
「地下二階」や「うなぎ」、また「壁」に対する「卵」などの譬喩・メタファーで語って来た、村上春樹の文学世界とはいかなるものか、『木野』を読み返してみましょう。