中村龍一さんから次の記事向けの長い文章が送られてきました。
「原理論」は「方法論」とどう違うのだろうか
― 「私」=「反私」―
中村 龍一
〈第三項〉理論は方法論ではない、その方法論のもとになる原理、伝統の「客観的現実」という世界観を転換した原理論である・・・・・・・(田中実)
国語教育の世界で文学作品の〈読み〉を追究する団体は「〈読み〉の方法論」の独自性をそれぞれ主張していると言って間違いではないだろう。それは文芸研、児言研、言語技術、分析批評、読者論、あるいは表現活動による再構成等と多種多彩である。
しかし、田中実は「〈第三項〉理論は方法論ではない。その方法論のもとになる原理論」であると言う。ここで極めて大事なのは、「方法論のもとになる原理論」という認識であろうと私は受け取ってきた。方法のない〈読み〉の授業はない。ただ方法論の定式化を〈第三項〉論は求めていないということなのだと私は理解した。裏返せば、方法は授業者の必要であり、それぞれの授業者の自由だということにもなろう。
〈第三項〉論は、「原理」を問うているのだ。ではその原理とは何だろうか? 「客観的現実」を転換した「世界観認識」と田中は言う。「客観的事実」をどう「転換」するのか?
我々が読んでいる文学作品の文章の、文字の羅列は、実は、客観的に実体として実在する文学作品の文章ではないのです。そこには文字という言語の隠れた秘密があります。
主体と客体ともう一つ、主体と客体の外部、その〈向こう〉に永遠に沈黙し続ける、了解不能の「客体そのもの」という〈第三項〉を考える必要があるのです。(傍線中村 以下同)
文学作品の叙述を問題にする以前に、まずこの田中実の言語論を咀嚼して得心できなければならないのではないだろうか。そう中村は考えている。しかし、「永遠に沈黙し続ける」(了解不能の「客体そのもの」)をどうしたら考えることなどできるのであろうか?
小説がおもしろく、文学評論が難しいと思うのは、小説は物語を語ることによって、言葉や、言葉によって作られる概念の外にあるもの、言葉からはずれるもの(言葉が抱えきれないもの)を内包する生きた人間を描写することができ、読者はそれを読むことによって、世界に向けて目を開くことができる(石川晴美)
石川さんのコメントに“「なめとこ山の熊」の世界観のように、個が個でありながら、同時に全体でもあると感じられるような世界が未来に出現するのか”とありました。
「個が個でありながら、同時に全体」こそ、『私』=「私」+反「私」の世界観で、先生のブログの中の“人と人、あるいは人と他の生き物の間に、双方の「魂」と「魂」を響き合わせること”につながるものと思いました。(古守やす子)
今回、石川晴美さんや古守やす子さんのこのブログを拝見して、これにつながる私の難問が浮上してきた。そのことを書いてみたい。
例えば、村上春樹の最新の著書『一人称単数』の同名小説「一人称単数」の「出来事」は、主体である視点人物〈私〉と、客体の地下のバーで会った五〇歳前後の見知らぬ〈女〉の相関が語られている。
「気持ちの良い春の宵」数年前に買ったポール・スミスのダークブルーのスーツ(必要あって買ったのだが、まだ二度しか袖を通したことがない)を着て、妻が留守の日、そのバーに行ったのである。その〈女〉は、自分の〈友だち〉に〈私〉が「自分がどんなひどいことを、おぞましいことをなさったかを。恥を知りなさい。」と言うのだ。しかし、〈私〉には全く記憶がないのである。〈私〉にしてみれば、「どう考えても不当な糾弾だったが」なぜかそれに反論できなかった。それは「実際の私でない私が、三年前に「どこかの水辺」で、ある女性 ―おそらく私の知らない誰か― に対しておぞましい行為の内容」が明らかになることをたぶん怖れたのだと思うのである。しかし、帰ろうと、バーの階段を上がって外に出ると、「季節はもう春ではなく、空の月も消えて」、私は異界の街の通りに立っていた。「街路樹の幹にはぬめぬめとした太い蛇が巻き付、き・・・・・・歩道には真っ白な灰がくるぶしの高さまでつもっており、そこを歩いて行く男女は誰一人顔を持たず・・・・・・「恥を知りなさい」とその女は言った」。その声が〈私〉に聞こえたのである。これが結末である。救いのない物語の結末である。
〈私〉はどう生きればよいのであろうか? 〈私〉の罪は許されないのであろうか? いつの日か罪が消えることはあるのだろうか? それが、今現在の〈私〉の抱えてしまった苦しみである。物語は作りごと、「客観的事実」ではない。しかし、この「罪の牢獄」こそ〈私〉の虚構の「客観的事実」となってしまうのである。
村上春樹の『クリーム』に書かれたこと、「中心がいくつもあって、しかも、外周を持たない円。」、これは存在しません。そうした存在しない円こそ人の生、人生であるとする不条理、これとの相克を強いられているところに近代小説の《神髄》があると私は考えています。(田中実)
何故なら、「人生」が不条理だから。作品を自分の世界の枠組みに取り込み、消費するのではなく、作品に取り込まれて、自身が世界を新たに捉え直し続けること、そこに読むことの意味、意義があります。それには〈作品の意志〉に従うことです。作家・作者にでも、読者にでもない、〈作品の意志〉に従う、作品それ自体が持つ、作品独自の〈言葉の仕組み・仕掛け〉に応じて、拉致され、そこに放置される。読み手の主体が瓦解・倒壊されて、主体は再構築されていかざるを得ない、これが読むことです・・・・・ (田中実)
読者である私もこの〈作品の意志〉に自らをゆだね、瓦解する外、〈私〉に救いはないような気がする。しかし、〈私〉の闇からこの異界は消えることがないのではなかろうか。己の罪を受け入れることはかくも難しい。
「原理論」は「方法論」とどう違うのだろうか
― 「私」=「反私」―
中村 龍一
〈第三項〉理論は方法論ではない、その方法論のもとになる原理、伝統の「客観的現実」という世界観を転換した原理論である・・・・・・・(田中実)
国語教育の世界で文学作品の〈読み〉を追究する団体は「〈読み〉の方法論」の独自性をそれぞれ主張していると言って間違いではないだろう。それは文芸研、児言研、言語技術、分析批評、読者論、あるいは表現活動による再構成等と多種多彩である。
しかし、田中実は「〈第三項〉理論は方法論ではない。その方法論のもとになる原理論」であると言う。ここで極めて大事なのは、「方法論のもとになる原理論」という認識であろうと私は受け取ってきた。方法のない〈読み〉の授業はない。ただ方法論の定式化を〈第三項〉論は求めていないということなのだと私は理解した。裏返せば、方法は授業者の必要であり、それぞれの授業者の自由だということにもなろう。
〈第三項〉論は、「原理」を問うているのだ。ではその原理とは何だろうか? 「客観的現実」を転換した「世界観認識」と田中は言う。「客観的事実」をどう「転換」するのか?
我々が読んでいる文学作品の文章の、文字の羅列は、実は、客観的に実体として実在する文学作品の文章ではないのです。そこには文字という言語の隠れた秘密があります。
主体と客体ともう一つ、主体と客体の外部、その〈向こう〉に永遠に沈黙し続ける、了解不能の「客体そのもの」という〈第三項〉を考える必要があるのです。(傍線中村 以下同)
文学作品の叙述を問題にする以前に、まずこの田中実の言語論を咀嚼して得心できなければならないのではないだろうか。そう中村は考えている。しかし、「永遠に沈黙し続ける」(了解不能の「客体そのもの」)をどうしたら考えることなどできるのであろうか?
小説がおもしろく、文学評論が難しいと思うのは、小説は物語を語ることによって、言葉や、言葉によって作られる概念の外にあるもの、言葉からはずれるもの(言葉が抱えきれないもの)を内包する生きた人間を描写することができ、読者はそれを読むことによって、世界に向けて目を開くことができる(石川晴美)
石川さんのコメントに“「なめとこ山の熊」の世界観のように、個が個でありながら、同時に全体でもあると感じられるような世界が未来に出現するのか”とありました。
「個が個でありながら、同時に全体」こそ、『私』=「私」+反「私」の世界観で、先生のブログの中の“人と人、あるいは人と他の生き物の間に、双方の「魂」と「魂」を響き合わせること”につながるものと思いました。(古守やす子)
今回、石川晴美さんや古守やす子さんのこのブログを拝見して、これにつながる私の難問が浮上してきた。そのことを書いてみたい。
例えば、村上春樹の最新の著書『一人称単数』の同名小説「一人称単数」の「出来事」は、主体である視点人物〈私〉と、客体の地下のバーで会った五〇歳前後の見知らぬ〈女〉の相関が語られている。
「気持ちの良い春の宵」数年前に買ったポール・スミスのダークブルーのスーツ(必要あって買ったのだが、まだ二度しか袖を通したことがない)を着て、妻が留守の日、そのバーに行ったのである。その〈女〉は、自分の〈友だち〉に〈私〉が「自分がどんなひどいことを、おぞましいことをなさったかを。恥を知りなさい。」と言うのだ。しかし、〈私〉には全く記憶がないのである。〈私〉にしてみれば、「どう考えても不当な糾弾だったが」なぜかそれに反論できなかった。それは「実際の私でない私が、三年前に「どこかの水辺」で、ある女性 ―おそらく私の知らない誰か― に対しておぞましい行為の内容」が明らかになることをたぶん怖れたのだと思うのである。しかし、帰ろうと、バーの階段を上がって外に出ると、「季節はもう春ではなく、空の月も消えて」、私は異界の街の通りに立っていた。「街路樹の幹にはぬめぬめとした太い蛇が巻き付、き・・・・・・歩道には真っ白な灰がくるぶしの高さまでつもっており、そこを歩いて行く男女は誰一人顔を持たず・・・・・・「恥を知りなさい」とその女は言った」。その声が〈私〉に聞こえたのである。これが結末である。救いのない物語の結末である。
〈私〉はどう生きればよいのであろうか? 〈私〉の罪は許されないのであろうか? いつの日か罪が消えることはあるのだろうか? それが、今現在の〈私〉の抱えてしまった苦しみである。物語は作りごと、「客観的事実」ではない。しかし、この「罪の牢獄」こそ〈私〉の虚構の「客観的事実」となってしまうのである。
村上春樹の『クリーム』に書かれたこと、「中心がいくつもあって、しかも、外周を持たない円。」、これは存在しません。そうした存在しない円こそ人の生、人生であるとする不条理、これとの相克を強いられているところに近代小説の《神髄》があると私は考えています。(田中実)
何故なら、「人生」が不条理だから。作品を自分の世界の枠組みに取り込み、消費するのではなく、作品に取り込まれて、自身が世界を新たに捉え直し続けること、そこに読むことの意味、意義があります。それには〈作品の意志〉に従うことです。作家・作者にでも、読者にでもない、〈作品の意志〉に従う、作品それ自体が持つ、作品独自の〈言葉の仕組み・仕掛け〉に応じて、拉致され、そこに放置される。読み手の主体が瓦解・倒壊されて、主体は再構築されていかざるを得ない、これが読むことです・・・・・ (田中実)
読者である私もこの〈作品の意志〉に自らをゆだね、瓦解する外、〈私〉に救いはないような気がする。しかし、〈私〉の闇からこの異界は消えることがないのではなかろうか。己の罪を受け入れることはかくも難しい。
往々にして、反「私」は、「私」が認めたくない「罪」(もしくは悪)の部分(領域)だと思います。けれども場合によっては、すなわち、自分が「悪」だと信じている人にとっては、反「私」は、「私」が気づいていない「善」の部分(領域)なのではないかと思いますが、どうなのでしょうか。個の意識を超えた深いところでは、「善」をもまた共有する…。というよりも、深い部分は、何もかもを共有するものと思うのですが、見当違いでしょうか。