20日、NHKでテレビ放映された録画を今朝、見ました。
昨晩は西安に出発する周さんが拙宅に寄られ、それから成田に向かわれました。
そのことは別の機会にお話しするとして、
今朝は太宰治の『走れメロス』、哲学者若松英輔の解説のことです。
信頼されていることが力になるというのはむろん、若松さんの解説通り、と思います。
気になったのは、太宰に何が書けなかったのか、という発言でした。
しかし、それをセリヌンティウスの内面のことだと解釈しています。
とすれば、それは太宰のあの表現で、彼の内側は十分、実は、書かれています。
若松さんの話のメインは主人公をメロスではなく、王とすることでした。
それは結果として奇を衒っている形になっています。
王は末尾、全く変わったのではありません。
表層はもちろんそう見えますが、実は、王こそその内心で信頼を強く求めていた、
だから、人殺しをしていた、末尾、メロスらに加担するのは、最初から王こそ強く、これを求めていたからです。
この物語はメロスこそ、内面の振幅を生き、それを克服しようとし、
物語の内実を背負っていたのです。
メロスがこの物語の主人公です。
王は結果を受け入れただけですから。
ところが、これを読むと、通常これまで読まれてきたことと全く異なる、
意外なことが書かれています。メロスが「一度だけ裏切った」という言葉、です。
「一度」とはいかなることか、メロスは疲労の極、肉体が動かなくなった時ではなく、
酒席でお酒を飲んでいる時、身代わりになってくれた友の所に戻らない気持ちになります。
以前、このことを論じ、国語教育界を代表するお一人、
田近洵一さんや東大の安藤宏さんと論争になりました。
ここにはイエスの言葉が日本人にどう受け止められたか、
近代文明の問題が横たわっています。
罪とは形式ではなく、内面の問題、心の問題、メロスは心で、
二度セリヌンティウスを裏切っているのです。
明治図書の高校編がもうすぐ、来月か再来月出版されます。
これは、近代文学研究の思考の制度を大きく転換、革命を起こすものです。
今朝のテレビ録画を見て、中学編に取り掛かる意欲がやっと湧きました。
哲学者ではわからない、近代文学研究者にはさらに見えない、内面の問題、
これをその中学編で、またさらに示しますね。
昨晩は西安に出発する周さんが拙宅に寄られ、それから成田に向かわれました。
そのことは別の機会にお話しするとして、
今朝は太宰治の『走れメロス』、哲学者若松英輔の解説のことです。
信頼されていることが力になるというのはむろん、若松さんの解説通り、と思います。
気になったのは、太宰に何が書けなかったのか、という発言でした。
しかし、それをセリヌンティウスの内面のことだと解釈しています。
とすれば、それは太宰のあの表現で、彼の内側は十分、実は、書かれています。
若松さんの話のメインは主人公をメロスではなく、王とすることでした。
それは結果として奇を衒っている形になっています。
王は末尾、全く変わったのではありません。
表層はもちろんそう見えますが、実は、王こそその内心で信頼を強く求めていた、
だから、人殺しをしていた、末尾、メロスらに加担するのは、最初から王こそ強く、これを求めていたからです。
この物語はメロスこそ、内面の振幅を生き、それを克服しようとし、
物語の内実を背負っていたのです。
メロスがこの物語の主人公です。
王は結果を受け入れただけですから。
ところが、これを読むと、通常これまで読まれてきたことと全く異なる、
意外なことが書かれています。メロスが「一度だけ裏切った」という言葉、です。
「一度」とはいかなることか、メロスは疲労の極、肉体が動かなくなった時ではなく、
酒席でお酒を飲んでいる時、身代わりになってくれた友の所に戻らない気持ちになります。
以前、このことを論じ、国語教育界を代表するお一人、
田近洵一さんや東大の安藤宏さんと論争になりました。
ここにはイエスの言葉が日本人にどう受け止められたか、
近代文明の問題が横たわっています。
罪とは形式ではなく、内面の問題、心の問題、メロスは心で、
二度セリヌンティウスを裏切っているのです。
明治図書の高校編がもうすぐ、来月か再来月出版されます。
これは、近代文学研究の思考の制度を大きく転換、革命を起こすものです。
今朝のテレビ録画を見て、中学編に取り掛かる意欲がやっと湧きました。
哲学者ではわからない、近代文学研究者にはさらに見えない、内面の問題、
これをその中学編で、またさらに示しますね。
が浮かんできます···