前回の記事への杵鞭さんのコメント、
お返事したように、たいそう嬉しく思いました。
杵鞭さんのお陰で、
あまんさんの童話の、あのきわめて分かりやすく、柔らか、穏やかな言葉たち、
それが実は逆、極めて分かりにくい、ただならぬ表現の飛躍(ひやく)、
その飛躍があまんきみこ童話の読みの秘密を解く、秘鑰(ひやく)であったこと、
『あるひあるとき』という童話は、あまんきみこさんの日常的現実を貫き、
これを超えて語る過激な表現方法による「遺書」であったことに触れることが出来ました。
その過激な表現方法とはパラドックスです。すなわち、
この童話には老婆である「わたし」の70余年の日常的現実の重さ、
その重要性を敢えて何も書かない、空白の表現で逆説的にこれを語り、
且つ、それによって、人と人、一個の生命と一個の生命のつながりの根源性を描き出している、
これに一言触れることができた、よかったと思いました。
しかし、これは依然として、分かりにくいことかなと思われます。
あまんきみこの童話は柔らかく、あたたかく、ほのぼのしているように見えて、
その実、極めて過激、いや、ラディカル、根源的、もっと言えば、生の原理に触れ、
これを童話というお話にしていこうとしている、わたくしにはそう思われます。
先日書き上げた『白いぼうし』論でもその一端を論じましたが、
多分、わたくし田中の書きぶりが拙いために、これが分かりにくかったここと存じます。
文学空間には意識、無意識の外部の領域を作中人物の世界は抱えているのです。
これをリアリズムは峻拒することで、成立します。
例えば『ヒロシマの歌』はリアリズムの成果を遺憾なく発揮して見事、
あまんさんの童話はここを空白にして、飛躍するのです。
村上春樹の比喩で言うと、人間の生の領域を一軒の家にたとえ、
一階はリビング、二階は寝室、地下一階は無意識の領域とし、
その地下一階のさらにその下に、地下二階という虚空の領域を設定しています。
これはもう永劫の了解不能の領域、これを抱え込んで人がある、
村上文学の主要作中人物たちはそう創作されているというのが村上春樹自身の説明ですが、
これは村上春樹に限らないこと、次回にも触れたいと思います。
ここではあまんさんのことです。
村上の比喩を借りると、あまんきみこの『あるひあるとき』の
〈語り手〉の老婆である「わたし」は、
意識の下の無意識のさらにその外部の虚空=「void」、了解不能の領域を抱え込んで、
意識・無意識の日常的現実の領域を相対化し、
「地下二階」を生の拠点にしていると筆者は考えています。
この童話はお話の末尾、幼女からいきなり老婆になります。
その間の70年、あるいは80年余りの海あり、山ありの歳月、
その日常的現実はすべてここには書かれていません。空白です。
五歳ほどの幼女の時の自分と、こけしのハッコちゃんとがつながっていることだけが
問題化されてます。
引き揚げの直前、自分とつながっているハッコちゃんがストーブで燃やされたことで、
「わたし」の心も燃やされ、その衝撃の大きさが「わたし」の急所、芯となっているのです。
その後に起こる、人生の現実の重大なことを括弧に入れる観方をするのです。
例えば、結婚とか、出産とか、近親者の死亡とか、
人生の重大事を相対化し、メタレベルで捉えるのです。
それはそのまなざしを所有しているから可能なことなのです。
現実のもろもろの出来事が結局は、前に言いましたように、
「カルネアデスの板」を抱えている、したがって、相手を殺して自分が生きる、
これを原理として抱えている、これを超えるために、現実の重さを問題にしながら、
パラドックスによって、これを空白にし、それを超える領域を示したのです。
それが個という生命と個という生命のつながりを根源、原理とする立場です。
前回の記事でも紹介した、朝日新聞の8月15日のあまんきみこの聞き書きの記事には、
「戦争の根本は「相手に殺される前に殺す」ということ。戦争だけはやめてね。
若い方、どうか頑張って。私の遺書です。」とあります。
あまんきみこがこう語る時、
これは保守とか革新とか、右翼とか左翼とかなどの思想の立場に立って、
戦争反対を語っているのではありません。
『あるひあるとき』は戦争反対のイデオロギーの作品ではないのです。
イデオロギー自体は現実の要請から作り出されるものですが、これはその外から語られています。
あえて日々の現実自体を括弧に入れ、棚上げにすることによって、
この作品が仕組まれていると、筆者には見えます。
もう一度言います。
現実の生の場は、その極限に相手のために自分を殺すか、
自分のために相手を殺すか、が隠れています。
ここにはこのモラルを超えて相手と自分を一つにする、そこに生命の原型を示し、
現実のどんなモラルを持ち出しても、その論理を斥け、戦争反対をやわらかくしかも、
断固語っています。
自分とか、相手とかの峻別のない極限の場、つながりという領域に
あまんさんは読者を誘(いざな)おうとしているのです。
通常、人は地下一階までの領域で生きているのに、
何故地下二階を問題にしなければならないのか、
次回はこの問題と『高瀬舟』に戻り、近代小説の本流と神髄について考えましょう。
お返事したように、たいそう嬉しく思いました。
杵鞭さんのお陰で、
あまんさんの童話の、あのきわめて分かりやすく、柔らか、穏やかな言葉たち、
それが実は逆、極めて分かりにくい、ただならぬ表現の飛躍(ひやく)、
その飛躍があまんきみこ童話の読みの秘密を解く、秘鑰(ひやく)であったこと、
『あるひあるとき』という童話は、あまんきみこさんの日常的現実を貫き、
これを超えて語る過激な表現方法による「遺書」であったことに触れることが出来ました。
その過激な表現方法とはパラドックスです。すなわち、
この童話には老婆である「わたし」の70余年の日常的現実の重さ、
その重要性を敢えて何も書かない、空白の表現で逆説的にこれを語り、
且つ、それによって、人と人、一個の生命と一個の生命のつながりの根源性を描き出している、
これに一言触れることができた、よかったと思いました。
しかし、これは依然として、分かりにくいことかなと思われます。
あまんきみこの童話は柔らかく、あたたかく、ほのぼのしているように見えて、
その実、極めて過激、いや、ラディカル、根源的、もっと言えば、生の原理に触れ、
これを童話というお話にしていこうとしている、わたくしにはそう思われます。
先日書き上げた『白いぼうし』論でもその一端を論じましたが、
多分、わたくし田中の書きぶりが拙いために、これが分かりにくかったここと存じます。
文学空間には意識、無意識の外部の領域を作中人物の世界は抱えているのです。
これをリアリズムは峻拒することで、成立します。
例えば『ヒロシマの歌』はリアリズムの成果を遺憾なく発揮して見事、
あまんさんの童話はここを空白にして、飛躍するのです。
村上春樹の比喩で言うと、人間の生の領域を一軒の家にたとえ、
一階はリビング、二階は寝室、地下一階は無意識の領域とし、
その地下一階のさらにその下に、地下二階という虚空の領域を設定しています。
これはもう永劫の了解不能の領域、これを抱え込んで人がある、
村上文学の主要作中人物たちはそう創作されているというのが村上春樹自身の説明ですが、
これは村上春樹に限らないこと、次回にも触れたいと思います。
ここではあまんさんのことです。
村上の比喩を借りると、あまんきみこの『あるひあるとき』の
〈語り手〉の老婆である「わたし」は、
意識の下の無意識のさらにその外部の虚空=「void」、了解不能の領域を抱え込んで、
意識・無意識の日常的現実の領域を相対化し、
「地下二階」を生の拠点にしていると筆者は考えています。
この童話はお話の末尾、幼女からいきなり老婆になります。
その間の70年、あるいは80年余りの海あり、山ありの歳月、
その日常的現実はすべてここには書かれていません。空白です。
五歳ほどの幼女の時の自分と、こけしのハッコちゃんとがつながっていることだけが
問題化されてます。
引き揚げの直前、自分とつながっているハッコちゃんがストーブで燃やされたことで、
「わたし」の心も燃やされ、その衝撃の大きさが「わたし」の急所、芯となっているのです。
その後に起こる、人生の現実の重大なことを括弧に入れる観方をするのです。
例えば、結婚とか、出産とか、近親者の死亡とか、
人生の重大事を相対化し、メタレベルで捉えるのです。
それはそのまなざしを所有しているから可能なことなのです。
現実のもろもろの出来事が結局は、前に言いましたように、
「カルネアデスの板」を抱えている、したがって、相手を殺して自分が生きる、
これを原理として抱えている、これを超えるために、現実の重さを問題にしながら、
パラドックスによって、これを空白にし、それを超える領域を示したのです。
それが個という生命と個という生命のつながりを根源、原理とする立場です。
前回の記事でも紹介した、朝日新聞の8月15日のあまんきみこの聞き書きの記事には、
「戦争の根本は「相手に殺される前に殺す」ということ。戦争だけはやめてね。
若い方、どうか頑張って。私の遺書です。」とあります。
あまんきみこがこう語る時、
これは保守とか革新とか、右翼とか左翼とかなどの思想の立場に立って、
戦争反対を語っているのではありません。
『あるひあるとき』は戦争反対のイデオロギーの作品ではないのです。
イデオロギー自体は現実の要請から作り出されるものですが、これはその外から語られています。
あえて日々の現実自体を括弧に入れ、棚上げにすることによって、
この作品が仕組まれていると、筆者には見えます。
もう一度言います。
現実の生の場は、その極限に相手のために自分を殺すか、
自分のために相手を殺すか、が隠れています。
ここにはこのモラルを超えて相手と自分を一つにする、そこに生命の原型を示し、
現実のどんなモラルを持ち出しても、その論理を斥け、戦争反対をやわらかくしかも、
断固語っています。
自分とか、相手とかの峻別のない極限の場、つながりという領域に
あまんさんは読者を誘(いざな)おうとしているのです。
通常、人は地下一階までの領域で生きているのに、
何故地下二階を問題にしなければならないのか、
次回はこの問題と『高瀬舟』に戻り、近代小説の本流と神髄について考えましょう。
『あるひあるとき』の絵本は書店に注文中で、届くのを楽しみにしています。
新聞であまんさんが語った、戦争の本質は「相手に殺される前に殺す」ということ。「殺される前に殺す」…。これほど人とのつながりを断ち切った絶望的な言葉はないように思います。
昨年11月に先生が山梨の文学館でご講義下さった、賢治の『なめとこ山の熊』の熊と小十郎の関係を、これ(殺される前に殺す)と一見同じでありながら対極のものとして思い出しました。
熊捕りの小十郎を熊たちは決して憎んでいず(むしろ「すき」で)、小十郎も熊を殺すときにはしょげかえりました。小十郎と熊は「殺し殺される」の関係ですが、死を抱えて「共に生きる」関係であったことが語られていました。「相手と自分が一つ」の世界観が童話の中に描かれていたと言ってよいでしょうか。あまんさんの思いとつながるように思いました。
先週の文学館での『高瀬舟』のご講義もありがとうございました。
ブログ、御無理のない中で更新下さいますよう。拝読できるのを楽しみにしています。
ありがとう。古守さん。