前回の記事で、次のようなことを書きました。
あまんきみこの『あるひあるとき』の〈語り手〉の老婆である「わたし」は、
意識の下の無意識のさらにその外部の虚空=「void」、了解不能の領域を抱え込んで、
意識・無意識の日常的現実の領域を相対化し、
村上春樹の唱える「地下二階」までを抱え込んでいる。
だから、お話は五歳の幼女が次の瞬間、一気に現在の老婆として現れ、
長い年月の日常的現実が空白のまま、お話は閉じられます。
ここでは日常の現実はメタレベルで捉えられ、その枠組みが対象化されて、
その外部が見抜かれているのです。そうした点、村上文学と共通しています。
こう言っても、訳が分からない、何を言っているのだと叱られそうです。
村上春樹の文学、小説は世界中で大変な人気を誇っていても、
アカデミズムを含めて、賛否両論激しいと言わざるを得ません。
村上文学には主人公が「壁抜け」をしたり、月が二つあったりする、
この全くの非現実の架空の出来事が毎回何らかの形で描かれています。
常識人はこれを小説だから、当然フィクションでしょ、とごく当たり前に考えます。
ここに落とし穴が隠れています。
村上春樹はしばしば自身の小説について説明をしています。
その一つとして、人間の生の領域を一軒の家に喩えています。
一階はリビング、二階は寝室、地下一階は無意識の領域とし、
ここまでは誰でも、降りていけます。
「地下一階」、すなわち意識できない無意識の領域までは、
フロイトやユングのおかげで一般に掘り下げることが流布しているので、
例えば夜見る夢の世界がそうか、とか無意識領域をイメージできますよね。
ここまではリアリズムの範疇の世界です。
しかし、そのさらに下には「地下二階」があって、
これはもはや通常の頭では理解できない、と村上春樹は唱えるのです。
この意識・無意識の外部の「地下二階」は、了解不能の虚空=を「void」を抱えている、
などと言っても、なんだそれ?と面食らう方も多いでしょう。
論点の岐路は以下の点にあります。
我々が生活している場は、目に見え、耳に聴こえ、手で触れる世界、
この世に生を享け、気が付くと、我々は空気を吸い、モノを食べ、排せつし、
子孫を残し、やがて死んで行きます。
そこには確かに「客観的現実」が事実としてある、実体としてあると感じられます。
近代社会になると、これを科学的知識が裏打ちし、
我々人類は「客観的現実」を信じる、信じないなどと迷うことなく、
その存在を前提にして、生きています。
意識することなく、無前提に、
主観的現実の外部に「客観的現実」が事実として厳然と存在している、
と受け入れて生活しています。
確かに我々の前には、空があり、海があり、陸があり、山があり、都市が見えます。
我々はこの外界から空気を吸収し、生きています。
これは我々人類の生命の根源を支える「客観的現実」と言えます。
ところが、他の生き物、例えばコウモリは超音波を出して外界を把握するそうですが、
コウモリは我々とはずいぶん違った外界を現実の世界としているでしょうね。
それぞれの生命体に応じて外界は現れているのです。
生命が生きるために。
人類に言葉があるように、鳥なら鳥に、魚なら魚に、それぞれの伝達手段があります。
それを媒介にして、外界の世界が現れます。
しかし、人類は、人類の言葉で捉えたものだけを客観的事実、
科学的に真実に値する対象と信じているのです。
何しろ、人間の言葉、人類の言語で捉えたものを通して、外界が現れ、
それに対応して生命を維持・存続しているのですから、当然です。
ところが、同じ人間でも、その外界は天動説から地動説、
さらにアインシュタインの相対性理論が登場し、量子力学が登場すると、
世界の在り方それ自体がまるで変わってしまいます。
外界の現実は全く異なってくるのです。
つまり、科学的なリアリズムも、
実は人類が人類の言語を持って人類が生きられるように、
外界を切り分けて創り出したもの、
はじめに言葉があった、からです。
ことばが世界を創り、神を創り、通貨・お金を創り、
人類の文明を創り出したのです。
人間は人間にふさわしい世界を人間の言語で捉えていたのです。
〈言語以前〉を想像してみましょう。想像できません。
イメージできない壁にぶつかります。
つまり、人類の捉えている外界は、人類の捉えている外界でしかない、
一種の上げ底です。
〈言語以前〉を強いて想像すると、それは死の世界に似ています。
生の裏側には常に死が張り付いていて、
その向こうには目のくらむような果てしない虚無、
了解しようのない虚空=「void」が広がっています。
わたくし個人はこれを了解不能の《他者》=〈第三項〉と呼んでいます。
本ブログのタイトルにもしています。
我々人類は近代社会になると、科学の進歩と相俟って、
主観的真実の外部に客観的真実、客観的現実があると信じてきました。
日本の近代文学は、自然主義文学以降、私小説、戦後文学も、
いわばこの上げ底の中で書かれています。
だから悪いとは100%考えていません。
むしろ逆、これこそ近代小説の本流、これを踏まえなければまず始まりません。
それに対して、私が近代小説の神髄と呼んでいる作品群は、
分かりにくい「地下二階」を抱え込んであるのです。
あまん文学も村上春樹の文学も漱石、鷗外の文学も、
リアリズムの権化と考えられている志賀直哉の文学もそうです。
しかし、この近代小説の神髄と呼ぶべき作品の作家たちの中には、
芥川龍之介や太宰治、三島由紀夫、川端康成など、
自死を選んだ者も少なくありません。
長くなったので今日はここまでにしましょう。
あまんきみこの『あるひあるとき』の〈語り手〉の老婆である「わたし」は、
意識の下の無意識のさらにその外部の虚空=「void」、了解不能の領域を抱え込んで、
意識・無意識の日常的現実の領域を相対化し、
村上春樹の唱える「地下二階」までを抱え込んでいる。
だから、お話は五歳の幼女が次の瞬間、一気に現在の老婆として現れ、
長い年月の日常的現実が空白のまま、お話は閉じられます。
ここでは日常の現実はメタレベルで捉えられ、その枠組みが対象化されて、
その外部が見抜かれているのです。そうした点、村上文学と共通しています。
こう言っても、訳が分からない、何を言っているのだと叱られそうです。
村上春樹の文学、小説は世界中で大変な人気を誇っていても、
アカデミズムを含めて、賛否両論激しいと言わざるを得ません。
村上文学には主人公が「壁抜け」をしたり、月が二つあったりする、
この全くの非現実の架空の出来事が毎回何らかの形で描かれています。
常識人はこれを小説だから、当然フィクションでしょ、とごく当たり前に考えます。
ここに落とし穴が隠れています。
村上春樹はしばしば自身の小説について説明をしています。
その一つとして、人間の生の領域を一軒の家に喩えています。
一階はリビング、二階は寝室、地下一階は無意識の領域とし、
ここまでは誰でも、降りていけます。
「地下一階」、すなわち意識できない無意識の領域までは、
フロイトやユングのおかげで一般に掘り下げることが流布しているので、
例えば夜見る夢の世界がそうか、とか無意識領域をイメージできますよね。
ここまではリアリズムの範疇の世界です。
しかし、そのさらに下には「地下二階」があって、
これはもはや通常の頭では理解できない、と村上春樹は唱えるのです。
この意識・無意識の外部の「地下二階」は、了解不能の虚空=を「void」を抱えている、
などと言っても、なんだそれ?と面食らう方も多いでしょう。
論点の岐路は以下の点にあります。
我々が生活している場は、目に見え、耳に聴こえ、手で触れる世界、
この世に生を享け、気が付くと、我々は空気を吸い、モノを食べ、排せつし、
子孫を残し、やがて死んで行きます。
そこには確かに「客観的現実」が事実としてある、実体としてあると感じられます。
近代社会になると、これを科学的知識が裏打ちし、
我々人類は「客観的現実」を信じる、信じないなどと迷うことなく、
その存在を前提にして、生きています。
意識することなく、無前提に、
主観的現実の外部に「客観的現実」が事実として厳然と存在している、
と受け入れて生活しています。
確かに我々の前には、空があり、海があり、陸があり、山があり、都市が見えます。
我々はこの外界から空気を吸収し、生きています。
これは我々人類の生命の根源を支える「客観的現実」と言えます。
ところが、他の生き物、例えばコウモリは超音波を出して外界を把握するそうですが、
コウモリは我々とはずいぶん違った外界を現実の世界としているでしょうね。
それぞれの生命体に応じて外界は現れているのです。
生命が生きるために。
人類に言葉があるように、鳥なら鳥に、魚なら魚に、それぞれの伝達手段があります。
それを媒介にして、外界の世界が現れます。
しかし、人類は、人類の言葉で捉えたものだけを客観的事実、
科学的に真実に値する対象と信じているのです。
何しろ、人間の言葉、人類の言語で捉えたものを通して、外界が現れ、
それに対応して生命を維持・存続しているのですから、当然です。
ところが、同じ人間でも、その外界は天動説から地動説、
さらにアインシュタインの相対性理論が登場し、量子力学が登場すると、
世界の在り方それ自体がまるで変わってしまいます。
外界の現実は全く異なってくるのです。
つまり、科学的なリアリズムも、
実は人類が人類の言語を持って人類が生きられるように、
外界を切り分けて創り出したもの、
はじめに言葉があった、からです。
ことばが世界を創り、神を創り、通貨・お金を創り、
人類の文明を創り出したのです。
人間は人間にふさわしい世界を人間の言語で捉えていたのです。
〈言語以前〉を想像してみましょう。想像できません。
イメージできない壁にぶつかります。
つまり、人類の捉えている外界は、人類の捉えている外界でしかない、
一種の上げ底です。
〈言語以前〉を強いて想像すると、それは死の世界に似ています。
生の裏側には常に死が張り付いていて、
その向こうには目のくらむような果てしない虚無、
了解しようのない虚空=「void」が広がっています。
わたくし個人はこれを了解不能の《他者》=〈第三項〉と呼んでいます。
本ブログのタイトルにもしています。
我々人類は近代社会になると、科学の進歩と相俟って、
主観的真実の外部に客観的真実、客観的現実があると信じてきました。
日本の近代文学は、自然主義文学以降、私小説、戦後文学も、
いわばこの上げ底の中で書かれています。
だから悪いとは100%考えていません。
むしろ逆、これこそ近代小説の本流、これを踏まえなければまず始まりません。
それに対して、私が近代小説の神髄と呼んでいる作品群は、
分かりにくい「地下二階」を抱え込んであるのです。
あまん文学も村上春樹の文学も漱石、鷗外の文学も、
リアリズムの権化と考えられている志賀直哉の文学もそうです。
しかし、この近代小説の神髄と呼ぶべき作品の作家たちの中には、
芥川龍之介や太宰治、三島由紀夫、川端康成など、
自死を選んだ者も少なくありません。
長くなったので今日はここまでにしましょう。